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都市形成とスナップ

 オーストラリア、ジーロングという街に仕事で滞在していたときに、近くの大都市、メルボルンへ行くことがあった。
 バスに揺られて1時間、ジーロングの街中を抜けると、あとはもう道は一本で、その左右は、ここは広大なサファリパークか?と思わせるほどの草原と、ポツポツとした木々。そこに野生らしきカンガルーなんかがたくさん佇んでいるものだから、見ていて飽きない。国土がでかい、ということがどういうことか、ということを実感する移動だった。

 ほら、あれがメルボルンの街よ。
 コーディネーターが指差したその先にメルボルンがあった。息を呑んだ。数キロ先にビルが建ち並ぶ光景があった。面白いのは、メルボルンの街の外れは、今走っているここらへんと変わらず何もない、ということ。
 それは要塞みたいでもあった。島のようにも見えた。何せメルボルンの街の周囲には何もないのだから。メルボルンという街のスカイラインを描けば、その都市の名前を伏せていたとしてもわかる人には分かる、そんな景観であった。
 街があって、それをハイウェイが繋いで、また別の町があって。よくヨーロッパの旅人が街に到着する前に立ち止まり、その街のスカイラインにうわーとなる、なんてシーンを映画やなんかで見たりするが、その時の僕もまた、そんな気持ちになっていた。

 日本の都市形成は、その多くを山地が占めていることもあって、こんな印象にはならない。例えば静岡から東京へ行くとして、家や小さな町がちらほらとあり、いつ、自分が東京に入ったのか、標識を見なくては分からない。あるいは、山を超えていけば、また小さな集落が我々を出迎え、東京に近づくうちにだんだんと賑やかな人の暮らしを見て行くこととなり、やはりいつのまにかそこは東京、ということになっていたりする。新しい街に来た、という感覚を覚えることなく、僕はその街にすでに入り込んでいる。そうして、後になって、あるいは地名を見て、ああ、もう東京なんだな、と感じることになる。緩慢と人の暮らす町並みが続いているのだ。

 都市に関するものとして、スカイラインという言葉がある。空を背景として高層建築物が描く輪郭線のことである。
 メルボルンの街のスカイラインは、吸引力がある。その街に入る前に、ほら、ここがメルボルンだよ、と言わんばかりに旅人を圧倒する。その街のスカイラインに出会うまでは、人の手がさほど入っていない草原とか森だとかを経由する。だからそのコントラストに、いよいよその街中に入るという時のワクワク感を、明確に感じ取れることになる。
 一方で東京の街はどうか、というと、そんな感覚は弱い。とはいえ、個人的には飛行機で行く場所だから、羽田のあのごちゃごちゃした場所を空から見るといよいよ東京だなあ、と思うし、モノレールからの景色の、なんだか物寂しいごちゃごちゃ感を見て、その先に東京タワーなんかを見つけちゃうと、おお、東京だね、となることはなるのだけれど。

 同じような話で、江戸時代、船で江戸に入る人たちは、その湾曲する川筋を上っていくと、カーブを抜けて見える江戸城の大きさに感嘆のため息をついた、と聞いたことがある。江戸城、その背後に富士山。徳川家が計算して作った衝撃だ、と聞いたことはあるが、それだけ街のスカイラインは、人々に、その地を治める者の権威を知らしめる効果があったのだと思う。僕がメルボルンのスカイラインに心躍らせたように。

 だが、日本にはそうした例はあまり多くはないのではないか。むしろ江戸城の背後に富士山がある、というように、当時の人々の権威づけは、自分たちの外にあるものによってなされていた、ということも言えなくもない。

 先日の奈良旅で大阪とか京都にも足を運んだのだけど、そんなスカイラインにおおっすげ〜となることはなかった。いつのまにか奈良に入り、いつのまにか大阪に来ていた。家々は緩慢に続き、それを山がぶった斬り、トンネルを抜けるとそこは大阪でした、となっていた。スカイラインを認める前に、僕らは僕らの目指しているはずのスカイラインの中にいつのまにかいることになっているのだ。

 そう、日本の都市形成は山を越えることにある、と思う。
 ヨーロッパの一部やオーストラリアが平地ゆえに街のスカイラインを意識して、吸引力を高めていたのであろうことに対して、日本の街は山を超え、あるいはトンネルを抜けることから広がるごちゃごちゃ感が、街への手招きになっているのだと思う。だから、街の中にいてもヨーロッパではひたすらに中心となる聖堂などに目が行くが、日本の街は街中にいると視線は外を向く。街を囲むように山々が聳える。
 しかし東京レベルの都市はあまりに膨大で、(広大ではない)外縁が見えなくなっている上に、そこに東京タワーとかスカイツリーとか現代の高層建築があるから、我々の目線はあちこちに動き、むしろちょっと閉塞感を覚えたりもする。(だからスカイツリーに登って、我々は外への視線を満足させたくなる)
 街の境界、エッジの部分が面白いのはそうした外への視線があったからなのではないだろうか。以前、隅田川下りを経験したが、東京の街を外から見る感覚がとてもおもしろかった。それはエッジから街のごちゃごちゃを見ている感覚なのだと思う。だが、それはどこか一点に目が行く吸引ではない。あくまで私たちがこれから入る街が如何にごちゃごちゃとしていて、活気に満ちているのかを知らしめるものとして機能していたように思う。目線が否応なしに動かされるのだ。



 それは言うなれば迷路に入り込む前のワクワク感だ。

 メルボルンの街並みが王宮に入る緊張感とすれば、日本の都市は迷路に入る前の不安と高揚である。タチが悪いのは、その入り口がどこなのか、はっきりしていないことが多いということだ。はっきりしているとしても、それは山を抜けて、とか、川を超えたら、とか唐突に訪れ、その前後で周囲の雰囲気が様変わりする、というようなコントラストを持っていない。だから街中に入り込めば、自身の現在地を見定めることが難しい。迷子になっても一つの目印に向かえばなんとかなるという感覚が薄い。



 市ヶ谷に住んでいたときに、終電を逃した僕は法政大学のビルを目指して歩いたが、それはとにかく右に左にと振られて、なかなかまっすぐに歩くことが出来なかった。まだスマホもなかった頃だから、法政大学の高いビルだけが頼りで、迷いながら寮にたどり着いたのはその2時間とか3時間後だったと記憶する。それは多分に地形に沿って街並みが整備されてきた歴史があって、例えばそれは、先日の奈良行きで、商店街が途中変なふうに折れ曲がっていたこととも共通する理由なのだと思う。そこは川だったのか、斜面があったのか、そこを知る手掛かりまでは持っていないが、実に日本人らしい街の作り方だと思う。故に近代以降に作られた都市景観、再開発で問題となっている神宮外苑の銀杏並木の通りのように、真っ直ぐに貫かれた通りというのは古い街並みには少ない。曲がったり微妙な高低差があったり。それを迷路のようだと感じるのは至極当然と思うのだがどうだろう。

 そうした迷路に入り込むときに、私たちは山を越える。そうして中に入れば、反対にその山を見つめることになる。外への視線を持つことになる。
 その山の向こうは見えない。見えないことがさまざまな想像を掻き立てる。日本の物語にはトンネルを抜けるとそこは雪国的話が多い。異世界へと入り込む。そこは見たことのない楽園か、さもなくば悪夢が待っている。だが現実は、山を抜けても緩慢な都市の破片が地続きのように繋がっているだけでしかない。その夢と現実のギャップが、むしろ街に暮らす人々の視線を、山のあなた、つまりエッジへと向かわせるのかも知れない。

 そう考えたときに、僕が半径500メートルの世界を撮り続けていられる理由は外へと向かう視点にこそある、とちょっと偉そうに書いてみたくなる。
 休日の朝、その時間だけが基本僕の撮影タイムだ。遠くへ行くとしてもせいぜい車で小一時間が限度、それ以上になると撮影時間より移動時間の方が長くなる。
 だからもっとも時間的効率が良いのは家の周囲を撮るということ。
 撮りながら、あーちょっと遠くへ出掛けて一日中撮り歩きをしたいな、なんて考えながら見慣れた風景のなかからちょっと目についたものを撮ることばかりしている。
 その視点は、この見慣れた町で迷子になろうとする意識だ。ごちゃごちゃとした(けれど歩き慣れた)道を何度もなぞる。そうして、町を囲むように張り巡らされた境界の、外側へ出ることをいつまでも夢想する。いやいや、外に出たって撮るものはさほど変わらないくせに。まさに「山のあなたの空遠く 幸ひ住むと人の言ふ」を地で行っているのだ。
 今朝も僕は少し歩いて、山がきれいに見られるベンチに座っていたりする。この前旅をした奈良とか大阪の楽しさと、写真旅として感じた物足りなさを反芻する。山の向こうにあるものを撮りたいと思う。
 かなり強引なまとめ方になるけれど、僕の目線は、日本の町の形成の仕方に順応してしまっているようだ。第一、この町には中心がない。ランドマークとしての機能を持つ高層建築がない。唯一エレベーターが備えられているショッピングセンターもさほど高くはなく、実際として他のスーパーの規模感と変わらぬ存在感でしかない(それでも色々と取り組みはなされていて好感が持てる場所である)。人々の信仰たる神社は確かに堂々とした佇まいだが、町の中心にあるかと言われると、少し違う。
 だから僕の写真は足元から、外へ外へ。外へという憧れを持ちながら再び足元へと向いて行く。そのいつまでもまだ見ぬ世界を想像しながら撮り歩くことが、この見慣れた半径500メートルをなんとか新鮮なものに見えるようにしているのかもしれない。

 なんとまあ、強引な結びつけ、とは思うけれども。

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