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カメラのある暮らしを綴りたいと思います。fujifilm、leica、大層なことは言い…

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カメラのある暮らしを綴りたいと思います。fujifilm、leica、大層なことは言いますが、中身はさほどかも知れません。

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【100枚超】これまで使ってきたカメラの羅列とその写真(2024.3月10日更新)

 どのくらいのカメラを触ってきたのか、レンズはどんなのを使ってきたのか、その忘備として、カメラ、レンズを羅列するだけの記事です。 ミノルタα7000 父親が持っていたカメラ。発売年から察するに兄が小学校に入って運動会などを撮るために買ったと思われる。それ以前の写真は、謎にプラスチックな、フォーカスも目測なカメラが家にあったので、それで撮っていたんだろう。  大学に行くと、写真学科の先輩や同輩がマニュアルカメラを颯爽と肩にかけて闊歩し、時々写真を撮ってくれていたのに憧れ、帰省

    • マップカメラの空き箱が届いた。

       マップカメラの空箱が届いた。  僕はこの箱にレンズを入れて送り返すことになる。 (見出しの箱は以前届いたときのものです)  送り出すのはXF18mm f1.4。  XF35mmf1.4に続く、新たな神レンズを目指して登場したレンズだった。  非常に写りのいいレンズだった。だから正直言えば、手放したくはない。  レンズそのものに対する不満と言えば、少々大きくてT5には問題ないが、pro2には辛うじて許容範囲内の大きさだったということくらいか。  そんななか、ライカが2台とな

      • 都市形成とスナップ

         オーストラリア、ジーロングという街に仕事で滞在していたときに、近くの大都市、メルボルンへ行くことがあった。  バスに揺られて1時間、ジーロングの街中を抜けると、あとはもう道は一本で、その左右は、ここは広大なサファリパークか?と思わせるほどの草原と、ポツポツとした木々。そこに野生らしきカンガルーなんかがたくさん佇んでいるものだから、見ていて飽きない。国土がでかい、ということがどういうことか、ということを実感する移動だった。  ほら、あれがメルボルンの街よ。  コーディネータ

        • トトロベビロテの雨休日。サツキとメイが既に死んでる説、否定されてるけど所々で彼岸を思わせる描写があるし、迷子メイがいる所もお地蔵様、言わば境界にいるんだよね。何よりなぜそれまで同じ服装だった2人がワンピースという死装束を想起させる格好になっているのか。もうそう思わせたい感がある。

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        【100枚超】これまで使ってきたカメラの羅列とその写真(2024.3月10日更新)

        • マップカメラの空き箱が届いた。

        • 都市形成とスナップ

        • トトロベビロテの雨休日。サツキとメイが既に死んでる説、否定されてるけど所々で彼岸を思わせる描写があるし、迷子メイがいる所もお地蔵様、言わば境界にいるんだよね。何よりなぜそれまで同じ服装だった2人がワンピースという死装束を想起させる格好になっているのか。もうそう思わせたい感がある。

          奈良はズルいと思う。

           タイトル画の通り、このゴールデンウィーク、関西まで足を運んでいる。  このふざけた?車両は奈良の生駒山にあるケーブルカーで、なんと通勤でも普通に使われている列車だ。これをかねてより見たい乗りたいと言っていた子どものための、まさにお接待旅である。  USJじゃないんだよ。生駒山山上遊園地なんだよ、我が子らは。  しかし何というか奈良の街はズルい。写真にしたいモノ、場所がすぐ近くに集まっている。  寺社仏閣、自然、商店街、古い街並み、鹿、鹿、鹿。カメラをぶら下げた観光客。地元

          奈良はズルいと思う。

          ライカM型が楽しい理由。

           AFがない。(135mmより長い)望遠がない。ズームレンズが(基本的に)ない。  挙げていけばキリがないが、ミラーレスや一眼レフとの根本的な違いは上記の3つだ。  裏を返せば、それらが可能であれば、他のカメラと大きな違いはない、とも言える。  もちろん、距離計連動するファインダーの特徴こそ、他の機構のカメラとの最大の違いではあるが、ライカの素通しのファインダーであっても、上記の3つが可能であれば、大きな差はないと言えなくもない。いや、逆にファインダーがズームレンズに連動して

          ライカM型が楽しい理由。

          書いては消してを繰り返している。ちょっと批判めいてしまうので、気をつけて書くのだけど、やはり書かない方がいいのか、と繰り返して下書きが膨大なことに。

          書いては消してを繰り返している。ちょっと批判めいてしまうので、気をつけて書くのだけど、やはり書かない方がいいのか、と繰り返して下書きが膨大なことに。

          日常を愛おしく思う瞬間にカメラはいらない。

           先日発熱をして、仕事を休んだ。夜中には39.7℃をマーク、接触の記憶もないが、もしかしてインフルかコロナか、と危ぶみ、家族とは別の部屋で休んだ。  その部屋は子供部屋だが、まだ幼い2人にとってはおもちゃのある部屋で、そこで遊ぶというよりはそこからおもちゃを取って階下に降りていく、今はそんなふうに使われている。  仕事を早引けして寝ていた僕の元に、ててて、と子どもたちがそれぞれにやってくる。 だめだよ、父ちゃん風邪引きさんだから、近づくとお熱出ちゃうよ。  そういうと、3

          日常を愛おしく思う瞬間にカメラはいらない。

          はたはた。

          はたはた。

          「私」が不在する写真。「私」を物語る写真。「私」が語る写真。

           トモコスガさんの動画を見ていて、目から鱗が落ちるような感覚を得た。  ここで語られていることは、考えれば当たり前のことなんだけれど、写真表現は自分の抱えている問題を浮き彫りにして表現する手段としても有効なんだよな、と。  そんなことをすっかり忘れていた。  僕はもともと文章を書くことを学んだ、というか好んだ人間である。(で、その程度かい、というツッコミはご容赦願います…汗)  なんならトモコスガさんと学科は違えど同じ大学、学部に通っていた。年齢的には、トモコスガさんが多

          「私」が不在する写真。「私」を物語る写真。「私」が語る写真。

          桜から鯉のぼりの季節へ。

          桜から鯉のぼりの季節へ。

          桜はなぜ美しいのか。

           桜の花を見る。  特にソメイヨシノはその花自体そんなにきれいだとは思わない。  ソメイヨシノの薄い色は、春の青空によく映えるが、花そのものを見るとなんとボンヤリした花びらなのだろうと思ってしまう。  たとえば色鮮やかなチューリップとかコスモスなどの方が、見ていてきれいだと思うし、桜同様日本の代表的な花である菊にしても、こちらの方が見応えがあると思う。ただ、それは花そのものの話であって、桜は花そのものではなく、花の持つ空気感を、僕らは見つめ、そして良いと思っているのではない

          桜はなぜ美しいのか。

          いい光が差し込んでいた。

          いい光が差し込んでいた。

          菜の花とF15イーグル

          菜の花とF15イーグル

          シャッター半押しという発明。

           シャッターを半押しする、という行為を当たり前にやってきた。  渡されたα7000で兄の徒競走を撮るときに、父から 「シャッターを軽く押せ。マークが点灯したらシャッターを深く押せ」  と習った。それが小学生のころだから、それから30年以上、半押しを当たり前のようにしてきたことになる。  ところがこの半押し、初めてカメラを持つ人にはちょいと分からないらしい。ピントを合わせるためにシャッター半押しするんだよ、と伝えても、全押ししてしまったりする。考えてみると、この半押しというち

          シャッター半押しという発明。

          花を花として撮るのはポートレートと同じ感がある。きれいなもの、かっこいいものを、いかにそれ以上として撮れるか。難しいのでやれないが、それでも桜は撮りたくなる。

          花を花として撮るのはポートレートと同じ感がある。きれいなもの、かっこいいものを、いかにそれ以上として撮れるか。難しいのでやれないが、それでも桜は撮りたくなる。