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青森幻影

国内で縄文人の遺伝子を色濃く残しているのは、鹿児島と青森らしい。縄文人と聞くと、強い憧れと劣等感を感じる。私自身は残念ながら、血統的にも気質、形質ともに弥生人だと自認している。農耕民族よりも狩猟採集民族の方が格好いい。明日の保障がない世界を個で生きる力が強いように感じるのだ。しかも私の血液はA型だから、なおさらその繊細さゆえに畏敬の念を禁じ得ない。

北海道や沖縄よりも、私は青森に強烈なフロンティアを感じる。今でこそ空路や新幹線で近くなったのだろうが、とても遠い。震災のボランティアで東京を夜出て高速を突っ走り、早朝に花巻のICで降りた。この先青森までは途方もない距離に感じた。

十代後半、私は夜遅く吹雪の青森にいて明かりが唯一灯る居酒屋に入った。すこぶる腹が減っていた。ご飯はありますか、と女将さんに訊くと、残り物だからと無料で供してくれた時から、私は青森に情を感じる。その時を含めて、青森を訪れたのは二度しかない。

私は仕事でリンゴ農家を訪れた。みんなデカいし、無口で、圧が強い(ように感じる)。これ食ってみろと出されたのは岩牡蠣とモズクだった。牡蠣は天然物で異常に大きかった。モズクは私が知るモズクではなく、直径が3倍は太い別物だった。人といい物といい、異質だった。

リンゴ農家の青年は、羽柴秀吉こと三上誠三氏にそっくりだった。一代で財を築き、泡沫と揶揄されながら全国の選挙に立候補し続けた青森の人物である。豊かな黒髪、太い眉、二重の瞼、鼻筋、口髭。ああ、これが縄文の血かと思った。

弘前の若者と仕事をして、居酒屋に入った。女性スタッフのホスピタリティがこの上なく心地よい。若者は「弘前の女性は最高ですよ」と言った。

それから10年後、大阪で声をかけられた。「俺のこと憶えてませんか?」。彼は弘前で飲んだ若者で、私の名前まで正確に憶えていた。こちらは名前どころか顔も憶えておらず、その記憶力に驚愕した。しかも大阪である。私の能力が低いだけなのだろうが、青森すなわち縄文の異能として記憶されたのである。

桑田ミサオさんという90歳を超える女性が青森にいる。家でつくっていた笹餅がこのうえなく喜ばれ、家族の反対を押し切り工房をつくり、畑に小豆を撒き、野に笹を求め、60歳にしてひとりで餅をつくる生活に入った。思わぬ名声にまったく動じない姿は彼女が生まれ育った厳しい環境に根差し、表情と語り口がとても美しく、心打たれる。

最近、Instagramで工藤正市さんという方が昭和30年代の青森を撮った写真を追っている。没後発見されたフィルムを家族が最近発表し、海外からも大きな反響を呼んでいる。国境を超えた生きる本質がそこにあるからだろう。「私たち」はどんな生を経て今ここにいるのか。
instagram_shoichi_kudo_aomori

もちろん、私にはバイアスがかかっている。青森にわずか二度しか足を踏み入れていない者が抱く幻想、幻影にすぎない。人口流出は止まらず、平均寿命は全国最下位、津軽選挙といわれる不正が当たり前のように横行し、核燃料の再処理工場ができた六ヶ所村では目を覆いたくなるような地域社会の分断が起きた。

どこでも光と影はある。ブラジルでも、インドでも、青森でも。ユートピアなど存在したことはない。それでも、私が行きたい都道府県、第一位である。

遠く咆哮が聴こえる。


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