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初めて西洋人に会った日本人は誰だったのか

私は出張で南インドにいた。1カ月の長丁場である。街を散策していると、一軒の小さな書店があった。現地語からヒンディー語、英語まで、狭い店内に雑然と並んでいるが、ほとんどはインドで出版された本である。たまたまアーユルヴェーダの入門書が目に留まり、ペーパーバックで手軽だったことから購入した。

サンスクリットで伝えられた難解な奥義を日本人が英語で読解するのは容易ではない。パラパラとめくっていると、Japan という単語が視界をよぎった。「仏教をはじめあらゆる学問を学ぶための大学が設立され、ヨーロッパからも日本からも学生が来た」とある。もっとも有名な大学は北インドのナーランダにあり、5世紀に設立、12世紀にイスラム勢力によって破壊された。

もしこれが史実に基づく本当の話ならば、日本人と西洋人(それぞれの厳密な定義はさておき)の直接的な邂逅、East meets West はこの時が歴史上初めてだったのではないか。私はそう思った。あくまでも、素人考えである。

大陸の文明は、主に中国や朝鮮半島を介して古代日本に伝来した。作物、言語、思想、鉄の精錬など。しかし、西洋文明がダイレクトに伝来するには日本は遠すぎた。遣隋使や遣唐使によって、中国でインド人やペルシア人には会っていただろう。しかし、ヨーロッパ人とはまだ接していなかったのではないだろうか。

北インドには、紀元前326年にアレキサンダー大王が軍を率いて侵入している。古代インドはすでに古代ギリシャと交流があった。そこに日本人が達していれば、それがヨーロッパ民族との初めての出会いだったかもしれない。

妄想を膨らませたまま帰国し、ナーランダに日本僧が学んだ記録をインターネットで調べたが見つからなかった。9世紀、真如という僧侶が天竺(インド)を目指したが、マレー半島で虎に襲われ亡くなったと伝えられている。

私は想像する。古代日本または琉球の海洋民族が漂流して大陸に流れ着く。きっと奴隷になっただろう。彼は逃亡する。並み外れたサバイバル能力によって西へと進み、やがて天竺に至る。そこでヨーロッパ民族と出会う。そうであって欲しい。僧侶の厚い信仰心よりも、名もなき漂流者のダイナミズムを感じたい。

最近、当時購入したアーユルヴェーダのペーパーバックが段ボール箱から出てきた。再読すると、「ヨーロッパからも日本からも学生が来た」といった記述が見つからないのである。「世界中から学生が来た」としか書いていない。しかし、確かに「ヨーロッパからも日本からも」と記憶しているのである。

300ページに及ぶ難解な英語の本を精査すれば見つかるのか。それとも、あれはねっとりとした異郷に飲み込まれた旅人の幻覚だったのだろうか。

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