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母が母のままだったら私はきっと上京しなかったしヨーロッパにも住んでない

「母の日」がまた来たね。私にとってこの日って、毎年グサっと辛い憂うつな気持ちになる日です。

「お母さんありがとう〜大好き〜」と言える人たちが羨ましい。眩しい。そして子を行動をもって愛し、その子から尊敬される親御さんを心から尊敬します。

自分の親に関するネガティブな事って軽率に口にするものじゃないと私自身が私に思ってるから(この価値観他の人には押し付けません)、普段は言い控えてるのだけど。

自分も子供が居てもおかしくないいい大人だし、表明しても良い時期が来た気がして。そしたら少し前に進める気もして。

家庭内に限らず反面教師にしたいしして欲しいから、そろそろnoteにこれまでより詳しく書き残します。書ける範囲でだけども〜。

きっかけ次第でどんな家庭にも起こりうることだと思う。未然に防げそうなことは防ごう‼︎気分の悪くなりそうな人はここで閉じてね。

私の母は元々優しく明るく笑顔の素敵な人で、幼少期はそれこそ私も「お母さん大好き〜!」でした。好きすぎて離れるのが嫌でしょっ中泣いてたのが、小学2年生頃まで続いたくらい。

それがみるみる変わっていったのは、兄の癌の状態やその他のあれこれで家庭全体に余裕が無くなっていった時期と比例してる。

小学校低学年の頃は家に帰ったらよく、兄の病院に寝泊まりしてる母の代わりに母方の祖父母かどちらかが居て、3,4年生以降は鍵っ子になった。父は夜遅くまで働いてた。

そんな時期に、過去息子さんを亡くした(母の)親友が母を某新興宗教に誘い、母に時間のある時はその施設に入り浸るようになった。私もよくついていってて色んなものを見た。⇦私が後にクリスチャンになったきっかけと根拠に繋がる。

この頃これまた諸々あって、書けるものとすれば父が「父方の祖父母と縁を切る」発言と実際の行動を起こした事等。当時背景を理解しきれなかった私は、父に不信感を覚え生理的に受け付けられなくなった。※その後10年は一切話さなかった。

兄が15歳で亡くなったのが私が6年生になった始業式の日だったから、その前の一,二年程からは尚更家庭に不穏と緊迫が常にあったことは想像に難くないと思う。

兄と私は最後まで凄く仲が良かったのだけど、家庭の中心でありボンド役でもあった彼が居なくなったことで、家庭は完全に生気と団結を失った。

特に母は躁うつ状態になり、特に私と一対一になるとヒステリーで手に負えない状態になり、酷い暴言を繰り返すようになった。毎度本当に些細なきっかけでそれは始まる。昔と違い冗談も通じなくなったので言うのを辞めた。

「なんでお兄ちゃんが死んでアンタが残ったのか」「お前なんかと過ごす位なら死んだ方がマシ」等といった類の言葉を日常頻繁に叫ばれてた。私が家を出る18までだから軽く5年ほど。家を出てからも色々あったけどね〜。

叫ばれ続けて明らかに頭の回転が鈍くなった=多分脳萎縮したと感じる時期があった。⇦まだ調べてないけど近々脳検査しに行きたい。

母は母の親友にすら私を目の前にしない時にも「どうしてあの子が残ったんだろう」とメールしてた(一度机の上にあった携帯を盗み見した)位だから、一時の感情に任せてただけでもなく本当にそう思ってたんだと思う。

そしていつも私のすることなすこと全否定。私が楽しそうにしてると不満そうだった。

中2となれば私も反抗期だったし、きっと我が儘で生意気な部分があったのは否定しない。とはいえクリアに覚えてるのは、「私が超意識的に穏やかな態度を持続しても、優しい言葉をかけても、母は私に人格否定とヒステリーを繰り返す」ということ。

その前に昔から「隔世遺伝であなたには父方の祖父の悪い血が入ってる」みたいなことを言われてたけど、それをもっと酷く放たれたり。

「父ではなく違う人と結婚するかもしれなかった、全てが間違いだった」とか、「え、それ中学生の子供に言っちゃう?」と当時ドン引いたな〜今となればまぁ言いたくなる気持ちもまぁ解るけどね。

それにしてもとにかく母は私のことが憎くて仕方なくて、優しくしたって関係なくて、亡くなった兄には何もかも敵わないんだなぁといつも絶望してた。

兄の病気で仕方ないとはいえ、私が母の側に居たい時も孤独を耐え、自分のしたい様々なことも我慢してたこと、母に母友達が居ないことであらゆる情報がなく同級生の中私だけよく恥ずかしい思いをしてたこと等々...

母がそうだったように、私だってあまりにも多くを黙って我慢し続けてたなんて、想像すらしないんだろうなって。

それに子を亡くした母である彼女に寄り添う人は居ても、兄を亡くした妹である私に優しい言葉をくれる人なんか殆ど居なかった。

母の親友や祖父母に「お兄ちゃんが亡くなって辛い時期だから、お母さんにわがまま言わないで優しくしてあげてね。支えてあげてね。」と含みありげに言われた時とか、母は親友や身内にすら自分に都合の良いことしか話してないのだと悟ったよ。

周囲もめいいっぱいの思いやりのつもりだっただろうけど、聞いたことしか信じない・想像出来てない・更には兄の妹の私の辛さは無視なんだ〜、私のことは誰が支えてくれるの?と、呆然としちゃった。

そんなことばかりだった。母の狡さ自己憐憫さ、大人の愚かさ盲目さ、そんなの誰しもいつか知るもので私も例外じゃないけど、あの時期ああいう事を通して知っていくのはキツイものがあった。

家庭が安らげる場所じゃないから、外で何かあれば私には居場所がない。10代半ばなら尚更逃げ場もなく「本当に私が死ねば全て良かったのに」と何度思ったか。名古屋の高層ビルから飛び降りようとして、mixiで出逢った人に止められた日もあった。

もちろん母が兄の死やその他家庭事情でおかしくなってること位は理解してたし、自分の限りあるまで思考を繰り返し母のような病状についても調べまくった。

でも私だって辛い中をどうにか前向きに生きようと足掻いてる中、受け止めきれる重さじゃなかった。だから容赦なく言い返しもしたし、いつも泣き叫んでた。最大は部屋の壁に2メートルの穴を開ける位でなんとか留めてた。

そんなでも多分子供って母のことを完全に嫌いにはなれない。嫌いとは言うけど、心配もするしその実はただ愛されたいだけ。

時に一緒に買い物に行って、美味しいもの食べて、普通に話し笑い合える時間もない訳じゃなかった。中学までは洋服も買ってもらってた。

そんな隙間を見計らい何度か「本当に心配だから精神科に行った方が良いよ」と声がけしたこともあったけど、そうすると「お前が行け」といつもブチギレられた。「私も診てもらうから一緒に行こう」と話してもダメだった。

母は掃除もしなくなってたから、リビングや廊下に足の踏み場がほぼ無かった。父は何も言わなかったっぽい。じゃあ私が綺麗にしようと触ったら怒鳴られ、私が自分の部屋のゴミ箱に捨てたものですら全部確認され拾われ、「なぜ捨てたのか」説明を求められた。

、、等という、やっぱりどうかしてる!気が狂う!!!みたいなことが無数にあった。

こんな悩みを学校の先生に聞いてもらうことはできても、実質的な助けは得られなかった。本当ならそういう施設に保護してもらいたかったくらい。

自分で施設を探し直接電話する、とかいう発想がその時まだ自分の中になかったのか、受験に影響するかもとか考えたのか...そこはあんまり憶えてない。でもとにかく助けて欲しかった。

離れて暮らす母方の祖父に相談したこともあったけど、切なそうな顔をしながらも「それはあなた達家族で解決することだから、おじいちゃんには何もできない」というような事を言われて終わった。

高校に入り虐められ引きこもった時には、母に理由を聞かれ「まさか心配してくれてる⁈」と思い正直に話すと、「お前に問題があるからそうなったんだわ!」と凄い剣幕で言い返された。その時に「もうこの人には2度と心を開かない」とはっきり決意したのを鮮明に覚えてる。

その後全日制高校を上記のことに加えて「自分の将来を見越しても何のために通ってるのかわからない」と考えていた私は"通信制で高卒資格を取る"ということで辞め、週5バイトし月2自分のお金でボイストレーニングに通った。

そして16の時東京へ受けに行った数千人単位の大手歌手オーディションに通過し、東京でデビューに向け動き始める話が出た。私は行くの一択だったものの、事務所からの電話口で母に何度も断られその話は無くなった。

家の中ではサンドバッグのように扱われるのに、私が外に出て行く事は許さない。'もの凄く頑丈な鳥かごに自分が入れられ殴られ続けてる
イメージ'や'水槽の中ピンク色のソーダに溺れてるイメージ'がよく浮かんでた。

もし私がずっと愛され大切にされてたら。それを実感できていたら。きっと私は東京行きを反対されても反抗せず『時を待ちます』と素直に従っただろう、とその時でさえ思ってた。そもそも東京に行く発想なんか出なかったかも。

愛されてないと感じてたからその辛さを毎日日記に書き詩にもしてたし、結構得意だと思ってた歌にしたい・自分のような人に希望を与えられるかも?と考えたのが始まりだった。親元から逃げる手段としても絶対に行きたかった。

当時お付き合いしてた人には「君は爆弾を抱えてるから難しい部分がある」と言われてた。メンヘラとまで言われたことはないけどメンヘラだった。彼がもの凄く良い家庭環境に育った人だったから、輪に入れてもらえるのが嬉しくて同時にあまりの違いを実感して苦しくもあった。

そう、家庭の問題は家庭内だけにとどまらず、全ての人間関係に影響してくる。友人の悩みに対し「でも親が⚪︎⚪︎してくれるんだから良いじゃん」「家には居場所があるんでしょ」とか思ってしまったり、ごく稀にでもそれを口に出してしまったり。

今でこそキッパリ自分ごととは分けて考えられるけど、10代では中々難しかった。

火種。それだけでなく、あらゆる面で周りとの生活・感覚ギャップがあるから常に生きづらくなる。「お母さんがさ〜」「昔家族でね」「うちの風習は〜」みたいな話、親は尊い的な話を軽く交わせないって、人間やる上でかなりしんどい。

みんなそれぞれ色々あるのはわかってても、自分にないものを突き付けられる瞬間。その点結婚してからは大分楽になった。私にも居場所があり、共有できることがある。

それでもあまりに焦点の当たる母の日はまだ苦手かな。この日と前後はできる限り静かにマイペースに過ごしたい。もし自分に子供が出来たら多少変わるのかもね。今のところ予定はないけど。

教会でも「みんなお母さん大好きでしょ」の前提や、「お母さんに感謝しましょう」とか語られるのもけっこう辛い。口に出したことは一度もないけど、そういう人私以外にもきっと居るはず。

母の日辞めて!みたいなことじゃなくて、「お母さんと言っても色々な関係があると思いますが〜」等の一言配慮があるだけで、ホッとする。

話が逸れたけど、その後。母(当時私は父と話さなかったから多分両親)は、私が高卒資格を取ってもそのまま東京で夢追い人になることに大反対。愛知県内で家から通える学校へ行きなさいと言った。

フリーター夢追い人を止める親は、まぁわかる。芸能界だって反対するのも不思議じゃない。

でも注目すべきはそこじゃない。これだけ生と人格を否定し虐げ抜いてまだ引き留めておきたい・娘の学歴を気にするって、狂ってんな、ヤバいな、ありえない、信じらんない、なら死んだ方が全然マシ!という心境だった。

学歴は私の将来を心配してというより、親としての面子を守るためのように感じられた。実際本当に私のためだったのかもしれないけど、色々歪んでたからね。

私は全力で抵抗した。

結果、東京で進学・絶対寮に入る・寮の入寮費&半年分は自分(それ以外の寮費は祖父母)負担、学費親負担、生活費は奨学金を11年分借りて自分で返済。これが折り合いになった。(別記事に学生時代の詳細)

わたしがどうしても進学したかったなら解るけど、"進学したくなかったのに進学して借金"、その分時間も失うし理不尽だと思いませんか?昭和時代なら当たり前の価値観なの?

それも奨学金の保証人にすらなってくれなくて、機関保証という。後に父の年収を知ることになったけど、決してお金がない訳じゃなかった。いや平均値の遥か上、会社員としては日本でトップレベルに値する額で驚いた。

確かに兄の治療費や家のローンの支払いは大変だったと思うし、結果的に選択した学校も他より費用が嵩むところだったけど、「絶対進学しろ」と強いながら「うちにはお金がない」と言うのなら、母が多少パートなりと働く手もあったと思う。でも母は絶対にそれをしなかった。

それに新興宗教には献金してたのだと思うとさ、未だ私には理解出来ない。きっと私に必要以上のお金をかけたくなかったんだね。反抗期と全日制高校を辞めた事・言うことを聞かず東京へ行くことに対する罰だったのかも?

そして最初からここまで書いたのは書ける範囲内での事だけなので、本当にはこんな程度じゃなかった。

その後私は東京でクリスチャンになり(これはまた別で詳しく書くかな)文化服装学院のF工科課程を3年間通い卒業、みんながデザイナーやパタンナー等になる中私は「就活」と題してオーディションを受け、当時横浜にあった事務所に入れることになった。

そして祖父が支払ってくれると言ってくれた三ヶ月のエディンバラ留学とヨーロッパ14都市旅を経て、名古屋で一ヶ月アルバイトし、横浜に引っ越した。兄が亡くなってから、祖父は私に優しくてよく電話もかけてきてくれた。

事務所は歌手としてではなく俳優として。なぜか。16の時歌手デビューの話になったのはポテンシャルを買われたからで、21になったら私の実力では曲も作れないし、"当時のJ-POP界的価値観で"歌は無理でしょと思ったから。

それならば俳優、特に舞台からならハタチ過ぎの初心者始動もいけるのでは?と、そちらも簡単な道でないとはいえ目指すことにしたのだった。

でもどちらにしたってアルバイトしながらじゃなきゃ務まらない。ただえさえ関東一人暮らしにはお金がかかるのに、毎月必ずの奨学金分割返済。就職するつもりは鼻から無かったのに、11年って...酷い足枷だった。

引き落としのことを考える度に父母の顔が浮かんで腹を立て、時には悔し涙をし。電気やガス代が支払えない時もあり、リボ払いしたり、酷い風邪でも殆ど病院行かずにマスクして働いた(周りにも迷惑)。

奨学金の支払いさえ無ければ困窮にまで至らなかったはず。くぅぅ、、な感情、でもこんな状況、親子関係の推移から進学経緯、夢を追ってること迄、かなり具体的に話さないと周りには理解されない。一見自業自得だから。

「完璧でなくとも親は子を愛し全力」「親は間違ったことを子にしない」前提で話しするもん大体の人たちは。精神的な虐待や異常な束縛があったなんてまず思わないでしょ。

もの凄くしっかり説明しなきゃ「だったらフラフラしてないで就職しなよ」 「奨学金は結構みんな借りてるよ」「今から違うことで夢追い?笑」とかって返ってくるだけだから。そういうことが多過ぎた。

説明長くなる、最後まで聞かず茶々入れられる、あああまた心折れる、面倒くさい。で、あんまり人に話さなくなった。本当に理解しようと寄り添ってくれる人にだけ。

珍しい経緯を生きてきたのだから自己開示しなきゃわかってもらえないなんて当たり前だけど、もうね〜心身共にいっぱいいっぱいだった。

でももう30過ぎて、ここからは開示だ!って感じ。こんな色々があっての今の私です。長くなる口頭説明を減らすためにも、こうして書いておくのは便利なこと。

そして似たようなところ通ってる(/た)人に「あなただけじゃないよ」「未来は大丈夫だよ」って届けたい。そのためには説得力ある人生送らなきゃだけど笑

あ、お金はなかったけど、優しい人生の先輩方が仕事先にも教会にもあちこち沢山居たから、常に美味しい良いものは食べさせてもらってた。今よりもかも...笑

フェスとかLIVEとかママの居るクラブとか、色んなところにも連れてってもらった。 本当に本当に感謝してます。

あ〜また話が逸れた!それでね、色々すっ飛ばして書くと、その後25で結婚して渡欧した。クリスチャンとして俳優として参加したプロジェクトで出逢った人となんだけど、結局クリスチャンになったのも俳優目指したのも間接的に親の動向ありきなのですよね。

親子関係が辛かったから愛と軸を求めてクリスチャンになったし、親の意向で学校へ行ったから元々歌手目指してたのが俳優になったし。パートナーも親の二の舞にならなさそうな人柄の人を選んだ。

そして渡欧を軽々決められたのも、既に東京に居たとはいえ親元離れる寂しさとかが一切無かったから。5年くらいで帰国するという話があったのもあるけど、昔の「お母さん大好き」がずっと続いてたら、父とも良好な仲だったら、仮に上京してても愛知には戻ってたと思うんだよね。

彼らが愛憎余り?いつまでも自分たちの籠の中の鳥にしておこうとしたからこそ、その鳥はヨーロッパへまで飛んで行った。皮肉な話だなって思っちゃう。

同時に私の選択は何処から何処まで御心に叶ってた?私大丈夫?って神様に聞きたくなる。我が儘やミステイクもあったかもしれないけど、自分なりによく考えベストを選び尽力してきたと思ってるけど... 天国で話したい。

ここまで書いてきたけど、母も本当にあまりにも辛くてしんどくて、そんな中よく耐え抜き頑張ってきたと思う。子を亡くすってきっとこれ以上がないようなこと。それはよく理解しようとしてきたつもり。

兄が生きてたら母は明るく優しい笑顔の母のまま居られたのかもしれない。

でも。昔彼らへの手紙にも「あなた達も辛かったと思うけど私も〜が辛かった」ということを書いた時に、「そんなこと言ってないししてないのに!あんたが一人おかしかっただけ。」と後で言われたし、

最近になって話しても記憶の節々がないのかトボけられるから、彼女の中ではもう殆ど無かったことになってるのかもしれない。

でも片方だけなんてありえないし、私の記憶はほぼハッキリくっきり。日記も残ってるよ。

だから覚えてなかったとしても、一言でも真摯に謝ってもらえたなら、私の未だ深く傷付いた心にも理解を示してもらえたなら...それだけでもめちゃくちゃ救われるなぁと思う。

そしたら母の日も(毎年近い誕生日と共にプレゼントは贈ってるけど)また心から祝えるようになるかもしれない。

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