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感情を問う

“楽しい ”ってなんだろうか。
僕はいまだにわからない気がする。何を“楽しい”と呼べば良いのだろう。
笑っている時間は、あるけれど、これが“楽しい”ってことなのか、誰も教えてくれたことは無かったじゃないか。

思えば色々なことがそうなのだ。
涙が出た時のその感情、“悲しい”とか“寂しい”とか、いつの間にか名前を知っていた。誰かに、「その胸が痛い気持ちのことが“悲しさ”だよ」なんて、手を取るように教えられたわけじゃないのに。
いろいろなことが不思議だ。目に見えないものなのに、お互い持っていることは知っていて、当然のようにその名前をその人なりの解釈で当てはめている。

ちいさいとき、自分が見ている「赤」は誰かにとって「緑」なのではないか、と思って悲しくなったことがある。そうであったとしても、その人は小さい頃からその色に「赤」という名前がついている。だから、色名を言ってみて、間違えることは無い。ただ、その色と名前の組み合わせが根本的に違うなんてこともあるんじゃないか。今更、相手の目を自分に付け替えて、「君は『赤』が『緑』に見えてるじゃないか!」なんて言えない訳で。僕の見ている世界は僕だけのものになってしまう、そんな感じがして少し寂しくなっていた。

他人というのは不思議である。僕には変えられない。
本当にそこにいるのか、僕が見ている映像なのか、プログラムされた無機物なのか、意志を持っているのか、判断する術は無い。
それなのに人間として「同じ」と思ってしまうのは、それに安心するのは何故なのか。またはそれが一体一では無く集団になった時に生まれる「多数派/少数派」という考え方によって「異質」という存在が生まれ、それを苦しく思うのは、何故なのか。

僕に問う。僕に語り掛ける僕が見ている僕は誰なのか。頭が割れそうになる。


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