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回帰と帰宅の日曜日

受験生というのはなんとも縛られる生き物だなぁと、最近強く思う。

今年の自分は高校三年生。大学受験に向けて週2日塾に通い、高校生として平日5日間は学校へ通う。日曜日の教会を楽しみに1週間耐え、月曜日からはまた高校生と大学受験生の顔をしている。

毎朝乗る電車の時刻はだいたい同じだし、塾への電車も変わり映えはしない。まして景色も変わらず、時に雨が降っていたり空気の水分量がなんとなく違ったりするものの、突如として始まるビルの解体工事以外に代わり映えのしない街並みの間をずんずん歩く。
わたしを飲み込もうと口を開ける建物の形は当たり前だけど毎日変わらないし、授業の内容に違いはあれどチャイムで区切られた時間の中を押し流されて一日が終わる。また今日が終わる。眠り、叩き起こされて始まり、終わる。

さらっと書いたけれど、こういう生活の中で日曜日はやっぱり楽しみである。日曜日の朝、乗る電車は確かに変わらない。線路も景色も駅の着メロも変わり映えはしないのだけど、それを苦としない日が日曜日であり教会であるように感じている。変わらないで居てくれるから、思うように変われなかった自分は安心する。日曜日に、静止した場所に戻ってきて、その前に立って初めて、自分は少しは進んでいることに気がつく。

受験生は変わることを強いられる生活だ。進むという一方向に顔を向けさせられ続ける。

そしてどれだけ早く変化できるかが、受験生としての価値を測る最大の基準になってくる。遠くに行くためには今、どれだけの速度を出せるかなんだよ、今休まずに進み続けないと君が行きたいところには辿り着けないよ、と言われているみたい。

自分の速度は値であったとしても、結局は他人と比べた自分、である。もっと言えば常に目視できるのは他人の速度、周りの世界の速度だけで、自分の速度だと思っているものは常に他人との差分である。一歩引けば、本当は自分だって自分の速度で進んでいるのに、他人が早すぎると、あるいは早すぎるものばかり見ていると、自分は静止してしまっているんじゃ無いかと不安になる。下手にギアをかけて自分の車体を壊すのが先か、道を気にせずに速度を出して前方不注意で事故るのが先か。そんな人生に思えてくる。

不安の中で、日曜日のことを思えば、道路も標識も見えるようになる。安全運転で行きましょう、というカーナビのアナウンスが聞こえるみたいなものだなと思う。

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