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伝える言葉

ふと、相手の顔を見ながら話をしていて、「今考えてしまっていることがばれていなきゃいいなぁ」なんて怯えることがしばしばある。
嘘をついている時は然り、そうでなくても一生懸命に、表情と仕草とつま先の向きと相槌の声の高さと間隔と…を気にしながら相手の前に立つ。
苦労といえば苦労だが、これだけのことで隠せるのなら安いものね、と思いながら日々向き合っている。そういうことは、ないだろうか。

人に自分の気持ちが「伝わる」ことなく「伝える」ことが出来ることは当たり前でありながら有難いことである。
自分の脳みその中身が四六時中透けて見えていたら、周りの友人は気味悪がるだろうし、見るに耐えないだろうな、自分も誰かの思考回路なんて見たくないな…なんて思う。

今は、「伝える手段」について、いろいろと、向き合わされている。

口で話すことは、多くの人にとっていちばん素早い手段だと思う。
けれどそれ故にとても疲れる。パッと出して、取り消すことのできないものとなってしまうから、一瞬一瞬の責任がどの手段より重い。頭と心を最大限にすり減らすような手段だ。責任をまだ知らない人がいるとしたら、その人はまだ疲れないかもしれないけれど、一度痛みを知れば、わかるようになってしまうだろう。
一方、受け取り手に立ってみると、会話というのは都合が良い。自分の気に入った部分や気になった部分だけを切り抜いて記憶すれば、無駄な苦しい部分があったとしても都合よく忘れられたりする。最も、この「忘れる」という作業が不本意に働けば、時間が無駄になってしまう恐ろしい手段でもあるのだけれど。得る情報は受け取り手のメモリと興味に因るので、内容の記憶に関して言えば都合の良いものになると思う。

対して、書いて伝えること、すなわち手紙はどうだろうかと巡らしてみる。
じっくりと考えて文字を綴り、間違えたと思えば書き直すことが出来る。筋道を確認し、行ったり来たりしながら書き換えて、整った状態で相手に伝えることができる。時間をかけることが出来るので、渡すか渡さないかという瀬戸際になるまで、比較的落ち着いて「伝える」かどうかの判断をし続けられる。最悪、気が変われば渡さない、という手段だって可能になる。
また、相手のリアクションを見るまでに、会話の数倍の時間がかかることはその見返りだとして受け入れなければならない。この緊張感は会話とは別物である。自分の心情の開示に緊張が伴うことは当然なので、どちらかの緊張は取らなければならない。仕方のないこととして受け入れる。
受け取り手からすると、相手の言葉たちが溢れることなく手元に残るという点で有利不利どちらにも転びそうである。相手と顔を合わせたその一瞬に脳みそを回転させて吸収する必要も無いし、存在として目の前に無機質に残っているので覚えておく必要がなく、いつでも完全な状態で内容を思い出すことが出来るが、逆に言えば簡単に逃げることも出来ない。破棄という手段によって若干の引け目を感じながら葬り去ることで、やっと会話の記憶の消去と同値となるのは、コスパが悪い。

伝えることというのは相手を傷つけうる。大切な人に大切なことを伝えようとするのに、それがきっかけで傷つけてしまうなら、それは等倍以上に自分に痛みの返ってくる行為になってしまう。
言葉は凶器だ。そのことを突きつけられ続けていた。
だからこんなに怖くなってしまうのか、と過去を呪いつつ、一方で言葉による癒しを知る機会が与えられてきたことも忘れない。それこそが、私が聖書に惹きつけられた始点であり、現在の信仰に繋がっていたりする。

誰かの言葉、何かの言葉、いつどこでその言葉が語られようと、人間はその一言で傷つき、癒やされ、また傷つけ、癒すことが出来る。
この言葉を無視しては生きられない。共に生きなければいけない。
食べ物と同じくらい身近にありながら、食べ物より関心が淡いものである。
周りにどのような言葉を置くかで、自分の中に生きる言葉も変わってくるのだと思う。周りの人にどのような言葉を渡すかで、その人も少しずつ変わってしまうのだと思う。
自分が傷ついた分、しっかり相手に渡す言葉を考えながら過ごしたいものだと思い直す夜です。大切な人に伝えたい言葉をまとめていますがまとめられずに、苦しいままなので思考の整理がてらにnoteを。

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