見出し画像

言葉と聖書

自分の中に言葉が溜まる。とても不快な感覚だ。

脱するために、吐き出すように人に話す。話したあとの疲労感と後悔とは言葉にしがたい。取消不可能・編集不可能な「会話」は苦しいし難しい。あまりに現代的で無いなぁなんて思いながら、自分が本当に言いたかったことだけが残る身体の重さを無理に眠ることで誤魔化す。時間に解決してもらう。

本当のことを言おうとするほど、大事なものを守る為の上澄みだけが放出されていく。尽きる上澄液を生成するのに使う体力は異常なものである。本当の部分は重くて沈むばかりだ。出そうとすればするほど、飢えていく私がいる。

どうしたら伝わるのか。文章に残すことは有効だろうか。
いつか書き換えたくなったら上書きしてしまうのだろうか。そうしたら、過去の自分に嘘をつき続ける人間に、つまりは現在この時間の自分に責任を負わない人間になってしまうだろうか。

誰かに、この自分をわかってほしいと願うことはナンセンスだ。わかっている。それでも飢えて誰かを求めている私がいる。一人に耐えきれず、口を滑らせる。その後に、一層の飢えが襲うことを知っていながら、いや今日こそは本当に救われるのだという浅はかな希望に賭けて、言葉を口にする。一度声を出せば、私の中の誰かが言葉を繋いでくれる。制御不能な誰かが、その場の空気に合いそうな言葉を並べてくれる。ぼんやりとそんな自分の声を聞きながら冷えた相手の目を見ると、全ての気持ちが「疲れた」という言葉に集約されて、消えてしまいたくなる。

また、冷えた夜を過ごしている。
聖書を開いて、言葉を探す。
温かい言葉ばかりで無くて良い、今の僕に必要な言葉が欲しい。
神様の火に手を翳し暖を取るように、聖書を開いてみる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?