私的芸術論再考

前書き。この芸術論を書くにあたっての背景。興味が無ければ次の段落までどうぞ。
昨年、学校の課題で文章を書く機会があった。何を思ったのか、私はここぞとばかりに芸術論を書いてみた。未熟で無知な私なんぞ、と思いながらも、自分の衝動のままに書いてみたところ、(課題の企画としては新聞のスクラップだったので記事も取り込みつつ、という形ではあったが)いい具合に自分勝手に書けたな、という爽快感があった。
誰かに読んで欲しかった。否定でもいい、批判でもいいから、誰かの意見が欲しかった。今まで批評など書いたことがない私だ。批評を書く者は偉そうだと思っていた。自分もヒールを数センチ盛るように書いた。自分に対して「書いた文章を他人に見せて良い」という許可が降ろせるのは他人から求められた時だけと決めていたので、課題以上のものにはせずにしておいた。
この文章が校内の文集に載り、全校生徒に晒されると知って、私は私宛の意見書やクレームや非難の類の一通や二通、靴箱に突っ込まれやしないだろうかとひやひやしながらも楽しみにしてみたのだが、来ない。読まれていないと言われたら納得、読んで立ち会うほどでもないと判断されたのなら反省。そんなこんなで批評も何も無く、ただ自分を露呈させただけの文章になった。このままでは成仏できないのだ。
世界情勢は変わり、一部”古い”部分もある。
とりあえず、17歳、夏、死と芸術に向き合った未熟者の文章を、ここで成仏させる。

 

 


 「芸術」は古くから人間生活の一部として大きな存在であった。その存在は嗜好品のようである。芸術の美しさに触れることで精神的に癒しを得たり、一時的に苦悩から解放されたりする。芸術と一対一で向き合う時間は、忙しない日常を送る私たちに余暇を与え、休息をゆるす。それ故に、効率主義化の進む昨今の世の中では時にその存在が否定され、芸術の自由さを失っているようにも見える。
 いつの時代にも共通することのひとつに、「孤独」というものがあると思う。大きいことであれ小さいことであれ、悲しみや苦しみは常に存在する。飢餓、天災、戦争、感染症。もしそれが無い世界に生きていたとしても、人生の終わりに思いを馳せたとき、なんとも形容し難い不安に襲われることや、身近な人が何かに苛まれる姿を目のあたりにし、無力感を感じることがある。人は、どんな世界でも、不完全な部分に気を取られ、いつまでも満たされることは無く、孤独を抱えてしまう生き物なのだと思う。
 「メメント・モリ」という言葉がある。ラテン語で「死を覚えよ」の意味を持つこの言葉は、死という文字が目に入るせいか、マイナスなイメージを持ってしまいがちだがそれは誤りである。死を意識させることで、生の時間の貴重さ、大切さを教え、今与えられたこの時間をどう使って生きるのかという問いを含む、いわば教訓のような言葉なのだ。中世の修道院ではこの言葉を日常の挨拶としていたところもあるようだ。
 メメント・モリというテーマは美術作品において、主に静物画においてよく用いられるテーマであった。そして人々の間でこの言葉は残り続け、現在、東京都写真美術館ではこの言葉をテーマとした写真展が開かれている。ルネサンス期のドイツの画家、ハンス・ホルバインの『死の舞踏』からはじまり、第一次、第二次世界大戦の戦地での写真、有刺鉄線に野生の動物がかかり息絶えている写真など、まさに死に迫るような空気がモノクロの平面に押し込められ、静かに並ぶ。乱されるような死を捉えた写真ばかりではない。花の首飾りをかけられて浜辺に横たえられた骸骨が穏やかに波にさらわれている写真や神学生が黒い服をまとい、真っ白な雪の上で軽やかに踊る写真。「やがて死がやってきてあなたをねらう」とタイトルが付けられた作品は、愛し合う2人の老夫婦が優しく互いを抱きあう写真であった。メメント・モリという一つのテーマにもかかわらず、多様な解釈の幅を持つ写真が集められていたが、この写真展を全体として眺めたとき、そして、死というものを思ったとき、そこには人間の終わりに対する孤独の存在があることに気付かされる。
 「メメント・モリ」、この言葉が現代のわたしたちに響くのは自明である。最悪の場合死に至る感染症の危険と隣り合わせでの生活を強いられるようになった。少し離れた国、ロシアとウクライナでは戦争が起きていて、爆撃や死者数の報道が日常的になされるようになった。元々死というものは隣り合わせではあるものの、ここ数年、目に見える形で身近なものとなっており、誰しも他人事とは思えず何処かで不安を抱くようになっているのだと思う。さらに、感染症は人々の繋がりを破壊する。不安を共有するために人と直接接することさえも許されない。孤であることが良いとされ、孤独を深め続けている。いつ終わるのかわからぬまま、孤独でいることを強いられ続けている。そのような孤独に寄り添い、「共感する」体験をさせることで人々を、そのひとときだけでも安堵させる力が芸術にはある。このとき、芸術は、生きていくうえで必要不可欠な存在では無いにしても、余裕を失った生活のある意味での逃げ道としてその存在が認められている。
 苦悩の中で創作された作品を見た時、自分の中の何かと共鳴して安心感を覚えたり心救われるような経験をしたことは無いだろうか。芸術には必ず創作者がいて、生み出された作品は創作者の人格や感情、思想に加え、彼が生きた時代背景や環境を、創作者の無意識のうちに大きく反映する。人は時に、その苦しみを昇華するように芸術を創作してきた。形を残すことでその歪な感情さえも意味をもち、微量の解放と希望とを感じていた。人生の背景は大きく違えど、作品を通して、創作者と鑑賞者の間で「苦悩の中での孤独」が共有されることで、孤独は孤独では無くなる。これこそが芸術の価値であると考える。この価値は現代においても普遍である。
 しかし、あくまで芸術は美しく、嗜好品である。個人が好きなように選び取ることが出来るものであり、鑑賞の解釈の幅も無限なものである。それが意図的に何かに利用をされたり、特定の意味を持つようになったものは芸術と呼ぶことが出来るのだろうか。ここに、現代の芸術のもう一つの姿がある。
 前述したように、現在ロシアとウクライナでは戦争が起きていて、武器を用いた戦闘が毎日行われている。このような国々では一見生活に余裕などなさそうであるが、人々の間には芸術が存在しているようだ。
 ある女性は、広場で掲げるプラカードに、文字ではなく絵を描いて反戦を訴えている。描かれる絵は鑑賞者に強烈なインパクトを与え、一瞬でそのメッセージを伝える。しかも、この場合、鑑賞者はゲリラ的なものになる。芸術に触れるために向き合う人が鑑賞者となるのではなく、たまたま広場を歩いていた通行人が鑑賞者となる。不本意な形で触れることになる人からすれば半ば強制的な圧力のかかった向き合い方をせざるを得ない。
 また、ウクライナのある建物の壁には、兵器を抱えた聖人のモチーフが大きく描かれ、ウクライナの人々の希望の象徴となっている。このモチーフは、スマホケースやトートバッグ、ステッカー等身近なグッズにもなっていて、それらのグッズの収益はウクライナに支援に当てられているそうだ。
 これらは絵であり芸術の一部のはずだが、真に「芸術」と呼べるだろうか。この揺らぎを感じさせる原因は、芸術の自由さを利用する形で芸術が手段として用いられているからでは無いかと考える。この場合、芸術はもはや形骸化され、大衆扇動や利益追及等、何かの目的のために使用されるツールとなる。これは嗜好品的であるべき「芸術」の姿とは程遠く、芸術と呼ぶことは難しい。
 このような形骸化された芸術は現在、日本でも身近に見られる。例えば、いわゆる「NFTアート」と呼ばれるものである。決して、NFTアートそのものの文化を否定する訳ではない。ワイドショーで取り上げられることも多く、 かの有名な坂本龍一も代表曲を1音ずつオークションにかけ、話題となっていた。その存在は案外自然に世間に馴染んでいくのかもしれない。
   ただ、その界隈でアート、つまり様々な形での芸術が、利益や換金目的で売買されることに、わたしはどこか強く違和感を覚えるのである。創作者と鑑賞者(この場合は購入者だろうか)間で利益をもたらしあう関係であることに違いはないものの、精神的な利益ではなく現実社会での利益と一致してしまうことで芸術の持つ特別な性質を殺され、本当の意味で芸術を求めている人たちの自由が奪われることに繋がりはしないかと恐れている。
現代社会では科学技術の発展により、さまざまなものが理性的に捉えることが可能になった。それらの根拠に基づいて、社会的な利益のために生活が効率化され、非効率なものは排斥される。最大の利益を目的に、人生を駆け抜けなくてはならない義務感に急き立てられる現代において、芸術の美しさは、現実とは少し離れた世界を覗かせてくれる。これは人間的な人生を送るために欠いてはならない時間だと思われる。しかし、その芸術さえも効率化の手段となったり利益の対象となってしまえば、この美しさは損なわれ、人々の孤独は深まったまま、社会の機械的部品になりかねない。
芸術を創作することが出来るのも、鑑賞することでその美しさを感じることが出来るのも、人間が持つ唯一無二の性質である。「芸術」が、人間の歪さ故の美しさを保つことを願いたい。
(2022夏 高校の課題にて。一部校正。)

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