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毎日毎日、自分で自分の人生を生きていると実感できるように。

会社の全社昼礼で会長から、「自立と自律」についての話があった。

自立:自分の足で立つこと。   環境に左右されるのではなく、自らの意志で立つこと。

自律:自分を律すること

自分の足で立っていないということはつまり誰かに依存している状態だし、周りの環境に左右されて、流されて流されて漂って、ゆらゆらと、ふわふわと、自分の人生のようで実はそうでもない人生を生きているだけで。そうじゃなくて、どんな環境であれ、その中でどう歩むかは自分の選択だし、何をするか・しないか、誰と一緒にいるか・いないか、今日何を食べるかだって、全ては自分の選択である、という自覚をしているか否かで人生は大きく変わる、という話。

かといって、自立をしていても自分を律することができずにいるとその先には崩壊が待っていて、一時はよくてもその幸せは長くは続かない。それはたとえば自分の信念だったり、モットーだったりするのだと思うのだけれど(あとはもちろん社会的規範や法律も)、欲望に目がくらんで一時期あんなに成功していた人が…なんてことは確かによく聞く。

そんな話を聞きながら、今自分が仕事においてもプライベートにおいても、実にふわふわと心許ない感じなのは、結局のところ自立の部分なんじゃないかと思った。

前にも書いたことがあるけれど、私はとにかく人の目を気にする。なんで?と聞かれると、いろんな過去の出来事が心当たりとして列挙できるけれど(例えば転勤族であちこち引っ越すたびにそこでいかに早く気に入られるかが私にとっての生存戦略だったことだったり、中学でいじめを経験したことだったり)、結局のところ一番は、自分という存在に自信がないからだ。受け入れられないことに対して、びくびくと怯えているからだ。そしてそれは、自分の足で立てていないからだ。

強くないなあと、つくづく思う。

昨日ちょうど、伊佐さんとのちさんの『「自分らしい写真」のみつけ方』というイベントに参加してきたのだけれど、「自分らしさ」ってなんだろう、というのは、ずっと私の中で解けない謎だ。

…っていうところまで書いて、ふと気づいた。

あ、でもそういえばわたし、どう生きたいか、というのはちゃんとあるじゃん。noteにも書いたじゃん。すっかり忘れてた。これを見失っていたから最近の私は弱かった、のかも、と。

わたしの生き方、それは、

いつ何度も希望であろう 
(以前書いたnoteに飛びます)

そうだった。わたしは、だれかの希望でありたいんだった。何をうにうに迷ってんだ、わたし。  

会長が書いた文章に、こんな一節がある。

今、貴方がここにいるということは、誰かが貴方を必要として、そして、貴方の人生においても何かの必然があって、選ばれてここにいるということを自覚しよう。貴方にしかできないかけがえのない「何か」をするために、自分の道を自分で選択して、一歩を踏み出そう。

そして、こんな一文も。

毎日毎日、自分で自分の人生を生きていると実感できるように。

わたしにしかできないかけがえのない「何か」が何なのかはまだわからないけれど、少なくとも今この瞬間は、一緒にいる誰かに笑顔で接することだったり、話を聞くことだったり、写真を撮ることだったりするのかもしれない。

未完成で、不完全で、脆くて、弱くて、そんなわたしだけれど。それでもわたしなりに、できることはある。

うん、なんか、書いていたらちょっと、気持ちがまとまってきた。

あやうく「ああ、自立できてないなあ」ともわっとした気持ちで夜を迎えるところだった(いやもうすっかり夜なのだけれど笑)。

明日も、自分で自分の人生を生きていると、実感して生きていきたい。

#旅と写真と文章と #エッセイ

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