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【言語心理学】本当に自分に合った〇〇を見つける方法


■なぜ生まれた場所や性別が無条件にいいと思えるのか?


左脳が理由を作るのはこれまで受けた影響や経験で理由が作られてくるということ。例えば福岡出身の人が福岡が大好きだいうのも地元で生きているから。なぜ生まれた土地をそんなに無条件に愛せるのかが分からないのだが、世界中でほとんどみんなそう。

しかも恐ろしいことにチェチェン共和国で戦争があったときに、もう何ヶ月もたっていい加減亡命生活がキツイとなったときに、戦争がまだ行われている場所へ帰ると言って帰ったチェチェン人がいっぱいいた。戦争バリバリやっているところになぜ帰ったのだろうと当時思ったのだが、そのぐらいやはり自分がただ生まれた場所はすごくいいところだと思ってしまう。

性別でも自分の性別はいいぞと思ってしまう。
特権階級とかでも、上のポジションに生まれたから偉いみたいことを無条件に思うという心理があって、それを証明する理屈を左脳で考えるという感じだ。
絶対女が良かったと思ってるのも違うかもしれないということ。やはりその答えを出すにはどうやっても、もう一方を結構やってみてこちらがいいとなって初めてわかる。

よい理由で本当によいとは言いきれないという感じだ。
少なくとも言えることは、人は1つの経験の接触時間が長くなれば長くなるほど無条件に愛情抱く愛着を抱くということが言える。今住んでいる場所が本当にいいのかどうかというのは1000箇所ぐらい、同じ年月それぞれの場所にいるとランキングが出てくる。それで初めて分かると思うといい。

■感じたことなら正しいと言えるのか?


他の場所も比較して、左脳が作ったり、言ったりするかもしれないけど、感覚で心地よいと感じているものもある。その見分け方。

まず感覚、つまり感じるという作用は独立して先に起こるのかそれとも認識や知覚に左右されて二次的に起こるのかという違いがある。ほとんどのケースで一時的に起こると思われているが、実は2次的に起っていると思った方がいい。

知っているからこそそう感じるという癖の連続でその感じ方が磨かれている。その感じ方そのものが磨かれた今のこの状況では正しいと言われたら、正しいですと言えるけれども、その磨き方が正しいのかと言われると、感じ方の方向が間違っているということはたくさんある。だからよいということに惑わされないことが大事。

今培っているこの感情は過去から今まで培ってきたものなので、過去から今の集大成で感じているから、別の人生を歩んでいて、別の過去から今までを歩んでいたら、違う感じ方をしているはず。別の人生では良いと思っていないということもある。

一方で、3番目の人生でも4番目の人生でもいいと思っているということもある。どういう状況にあろうがよいという感じ。自分はもう絶対そうですということ。そこを探っていくみたいな感じ。日本人として生まれたから米が好きだけどアメリカ人として生まれても、「俺ハンバーガーとか違うわ。おにぎりやわ。」とか。それオランダ人とか全部の外国人になって感じていって、やはりおにぎりだということになったら、その人が本当に好きなものはおにぎりだと言えそう。当然実際には全部の外国人になることは無理なことだ。なので、頭の中で何回もやり直すしかないという感じ。

■〇〇をやめてみる


自分に合っているかどうかを知る1番手取早い手段はやめてしまうこと。もうお米を食べないとしてみて、5年10年と経って、調子はいいかもしれないとか、体調のことじゃなくて、なんかいい食生活かもしれないと思うかもしれない。もしそうだったなら、お米はいらなかったということ。

必要だと思っているが本当はいらないものはたくさんある。なぜ必要なポジションにあるか、しかも重要なポジションにあるかと言うと、重要なポジションにあったからよい理由を作っているということだ。よい理由によって重要なポジションに上がったのではない。

なぜあそこのラーメン屋に行くのかと言うと、行列があるからおいしいと思った。だから美味しいような気がしてきただけであって、純粋にそのラーメンを家で出されて食べたら美味しいなぐらいで終わったりする。行列は分かりやすいから、多分みんなあまり分からずに、みんなが並んでいるから美味しいというのを感想で書いてきてそう。

そういうことの自分バージョンが自分の中でいつも起こっている。自分の中が行列だらけで大渋滞が起こっている。だから感覚を当てにしてはいけない。感じる力を信じてはいけない。

■確信や感動は正しいと言えるのか?


確信は感覚と一緒にしてはいけない。確信というのはある物事に対して、感じる方向ではあるが、感じることは働いていないので、確信は信じてよい。だから米のない国の人に生まれまくって、やはり米が最高と思えるに違いないというのが確信なので、本当の事実という感じ。

感動は疑いの余地はあるが、どうかというと結構信じてよい。感動は割とジャンルの幅が広い。個性の違いが如実に現れる物事というのは信じてよいという考え方をしていて、感動というのは人によってポイントが違う。感動とはどんなことなのかというと、日本人が富士山を見るとわぁって感動するけれど、山というのは冷静に考えるとただ土が盛り上がっているものだ。自然の風景は思わずこう声が出るみたいな感じがするけれど、グランドキャニオンはただのひび割れみたいなものだ。でも、どう考えても100%みんなわぁとなる。全てではないが1つ言えるのは、でかいから。

美術館とか行くと、美術館の絵は大体大きい。大きいとよいという認識がある。だから個性は関係がなく、大きいイコールすごい。富士山の形で小さかったら、ただの裏山とかになる。

建物でも、人類の傾向として高い建物を建てがちだ。それは物理的に目に見えるものだけではなくて、会社を起こしたり、売上を高めていくというときに、どこまでも高めようとするとか、会社規模を大きくしようとしたりする。

スポーツのチームを作ったとなると、なるべく勝っていきたいとか、優位なポジション取っていきたいとかなる。そういう傾向にある。大きくすることはよいことだという理解が我々の頭の中に入っている感じ。

一方小さくても、植物の芽が出た時とかわーっとなることもある。赤ちゃんとか猫とかもそう。みんなに共通しているメカニズムを外れたところで考える方が考えやすいかもしれない。



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