見出し画像

たかがオリンピック、されどオリンピック

私のオリンピックは、この言葉に尽きました。

初めてのリオオリンピック、1年延期された2度目の東京オリンピック、母国開催、コロナ禍、いろんな論評、国民感情、私が住むオランダの町の洪水、自分のコンディション、レース、etc…

いろんなことを思う人もいるし、いろんな意見があるし、日本人として日本の皆さんが犠牲になってこのオリンピックが開催をされている背景があることも理解しています。
それでも、いちアスリートとして、日本人として、
あの日東京で見たあの景色、あの人の波の中を走った時間は、Power of Sports、Olympicの狂騒を肌で感じ、最高のエクスペリエンスでした。
まずは、オリンピックのスタートラインに笑顔で立たせてくださった皆さんに、ここで感謝を、ありがとうございました❤️

画像1

「たかがオリンピック」
自転車競技、私の走るロードレースは、日本国内ではマイナー競技で、メダルの獲得も期待されている競技でもないし、いくら母国開催とはいえテレビ放送もなく、ネット配信しかない競技です。

そして、事前に周知されていた東京都含む1都3県の観客自粛。
レース1週間ちょっと前の帰国、トレーニング以外ホテル隔離。
スタートエリアでも厳重な規制と、もちろん無観客。
自分でも不安だった私のパフォーマンス。
脚の状態は、わからない。レース強度で走り続けてどこまで持つかわからない。

だから、観客もいないんだろうし、誰も私の結果なんて見てないし、良くても悪くても、このオリンピック自体を楽しんで、自分が私、レースしてる!って思えるように✌🏻
ヨーロッパでいつも私が走ってる位置でレースが出来るように🤞🏻
純粋に誰かのためにじゃなくて、自分がしたいレースをしよう✊🏻
“One of those race”
そう、たかがオリンピックって思うことが、私のマインドセットであり、気休めでした。

画像2


とはいえ、頭のどこかというか、大部分では「されどオリンピック」っていう考えが渦巻いていて🤯
前回のNoteで書いたように、脚の血管が乗車姿勢によってねじれることで、血流が阻害され脚が痺れ踏めなくなる。という選手としては致命的な症状に数ヶ月前から悩まされ、その診断を受けたのが6月頭でした。
手術以外での治療法はなく、バイクポジションの変更が唯一の改善方法でした。

今回のオリンピックでの私のパフォーマンスは、
ここから苦しみや逆境を乗り越えて💪🏻みたいなドラマになるようなストーリーに映るかもしれないですが、その渦中にいる本人としては、全然ドラマはないし、実際は目の前の現実を受け入れるまでは感情のジェットコースターでした。

画像3

トレーニング中に脚が痺れてくる現状を受け入れられなくて、涙は出てくるのに、
コーチからは「じゃあ出んの辞めれば?」って言われる度に、私の絶対に出ていい走りをしてやるという気持ちが燃えました。

「たかがオリンピック」という、どこか心のスペースを持ちつつ、99%の私は「されどオリンピック」「私が出て、絶対に良い走りをしないと自分が許せない。」という確固たる意志がありました。
そんな気持ちだけで、オリンピック直前、1ヶ月の高地トレーニングをしていました。

画像4


そして無事に納得の行くトレーニングを終えて、日本帰国のためにたった1日戻ったオランダ。その日に大雨で川が氾濫、私が住む街の中心部が全て水に浸かってしまいました。
私の住むアパートの建物の1階は完全に水没してしまい、出国のために必要なバイクとスーツケースを、一夜明けてもなお膝よりも上まで来ている水の中を歩いて、空港に向かいました。

画像5


自分の住む街が水に浸かったまま、逃げるようにオリンピックに向けて出国しないと行けなかった時は、言葉で表せないとても複雑な気持ちになりました。

日本に着いてからも、私が住む街の状況を毎日確認しては、水は引いたけど、街のレストランやカフェ、教会も全て泥まみれで、変わり果てた街の様子と、そこに住んでるのに逃げるように日本に来てしまって何もできない自分の無力感と、いつも顔を合わせる街の人たちの絶望感を思うと、言葉になりませんでした。

オリンピックのために、しかも母国に帰国したのにも関わらず、心はオランダに置いてきたような状態と、コロナによって日本に入った時点でトレーニング以外は外出禁止、人との接触禁止、という状況で、もちろん家族とも会えずに、オリンピックという日を向かえました。

画像6


そして、隔離されたスタート地点から東京都内の道に出た瞬間、目を疑う光景が広がっていました。
いつもヨーロッパで走るレースと変わらない先導車に続いて、いつもヨーロッパで戦う選手たちがいるプロトンの中にいる私が、大袈裟ではなく本当に途切れることなく続く人の波の中を走っていました。日本で!!

画像7


人もまばらで、歩いてる人が気にもとめないような東京の日常の中で私たちのレースが通り抜けるのだろう。と、観戦自粛のニュースを見聞きして勝手に想像していました。(想像力😅)

そんな私の勝手な想像を良い意味で裏切った光景が広がっていました。
都内から富士スピードウェイに行くまではラインレースでしかも時速40kmくらいで一瞬しか通らないロードレースにも関わらず、沿道の右も左も人だかり、人と人の隙間を探す方が難しいくらいの観客がいました。

選手、選手に関わる人、関係者、家族、観客、コロナ、えらいさん達、ボランティアの方、全く興味のない方、楽しみにしてる人、
etc…. 
みんなそれぞれの想いと考え、意見、それぞれの不満とそれぞれの楽しみ、が交差する中、自分の意見や発言をすれば炎上したり叩かれたりすることが多々あるのを見聞きしたうえで、
私は誤解恐れずに、
「東京オリンピックを開催して下さって、あの場でレースさせてもらって、レースを見て下さって、そして何より応援してくださって、ありがとうございました!」 
の一言です。

画像8

そして、自分自身振り返って思うと
日本国内で言えば、21位という結果は、数字だけでは全然パッとしないし、他のメダルを量産する、メダルコンテンダーがいる他競技からすれば、マイナー競技のカテゴリに入ってしまう自転車、ロードレースという競技です。

画像9


だから私は拠点をヨーロッパ、いわゆるロードレースの本場に身を置いて6年目、
母国日本で本当のロードレースを見てもらうために帰ってきました。いつもの私のレース、走りを見てもらうために、それをモチベーションに帰ってきました。
言葉で説明するのは難しいし、ここがこうで、ここはどうだから、すごいんです!なんていちいち解説するようなヤボなことはしません。そこでレースをすることの難しさを、理解してもらわなくてもいいんです。
わかる人にわかってもらえればいい、そういう訳でもないんですけど。

ただただ、
自粛要請が出ていたにも関わらず、あれだけの観客の中、スタートからゴールまで何万人いや何十万人の日本に皆さんに、レースを、通りすぎる一瞬とはいえ、見て頂いて、レースが通りすぎる音や風や匂いを感じてもらって、
初めてロードレースを見た皆さんから、ただ単純に
ロードレース🚴🏻‍♀️自転車🚲
「わーすごーい🙌🏻 速ーい、カッコいい🤩」っていうポジティブな歓声を聞けて、
皆さんからの熱いパワーをもらえて、
1人でも多くの日本の子どもたちに、「自転車ロードレースってすげぇんだよ!カッコいいんだよ!乗ってみたい、やってみたい!」って思ってもらえること。
そして、ここから自転車、ロードレースに興味を持ってくださった方や子どもたちが、私のレースを見てくれたり、自転車を始めてくれるだけで、今回の私のオリンピックのミッションは大成功です。

画像10


個人的には、ここに来るまでいろんなことがありました。話せることから話せないこと、笑えることから本気で笑えないことまで。苦境を乗り越えて💪🏻みたいな感動ストーリーは残念ながらありません。(※当社比)

誰かにこの頑張り、私がやってることを理解してほしいとも感じません。
プロアスリートとして、わかってる人にだけわかってもらえればいい。そんな考え方は良くないのかもしれません。
プロアスリートは、みんなに好かれるような人間にならないといけないのかもしれません。

でも私は、プロアスリートの與那嶺恵理である前に、1人の人間である與那嶺恵理を応援してもらえ、
私の周りにいる人たちを笑顔に、私のことを支えくれる大切な人たちと、このオリンピックの時間を共有できたことが幸せです❤️ 
ありがとうございました😊

画像11

10年前、5万円のシティバイクで、つくばから富士山までサイクリングをした、ただの大学生が、
10年後、黄色のピカピカに整備されたバイクで、オリンピックという舞台で、東京から富士山の麓までロードレースしたっていう、そんな不思議な私のストーリーはまずここで納得して一区切りです。

そして、このNoteで私のオリンピックジャーニー、余韻の浸る時間は終わりです。
またヨーロッパというロードレースの戦場に戻って、所属するチームとのビジネスに戻ります。

画像12

「たかがオリンピック、されどオリンピック」
ありがとう❤️

全てを力に変えて。
與那嶺恵理 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?