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下天のうちをくらぶれば―呉座勇一『武士とは何か』

たとえば、「人間五十年」ということばを見ると、多くの人は「織田信長公」を思い浮かべます。それはきっとこのことばが、私たちのイメージする信長公の人生に寄り添うものだからでしょうし、あるいは、このことば自体が私たちの印象をつくりあげたとも言えるでしょう。

もちろん、戦国時代は今とは違って録音録画など願うべくもないですから、誰が何を言ったかなど、伝聞や物語のカタチでしか伝わりません。しかも、それは伝言ゲームよろしく、変化し放題です。

それでも、「その人がこの言葉を発したこと」が「あ~わかる、わかる。あの人、言いそうだよねぇ」という思考の枠組みはおそらく今も昔も変わっていなくて。

「歴史」を学ぶとき、史実とフィクションは分けて考えなくてはなりません。もっと言えば、「一次史料」と「二次史料」、「物語等」もきっちり分ける必要があります。でもその上で、それぞれから浮かび上がるものを丁寧に掬い上げたとき、見えてくるモノはとてもおもしろくて。それは、個別に見ていたときよりもゆたかな世界を見せてくれるのです。

今回ご紹介するのは、そのおもしろさ、豊潤さが遺憾なく著された書籍です。

■『武士とは何か』について

■呉座勇一 著
■新潮選書
■2022年10月
■1500円+tax

平安後期から戦国時代にかけて、政治・社会の中心にいた中世武士。日常的に戦闘や殺生を繰り返していた彼らのメンタリティーは、『葉隠』『武士道』で描かれた江戸時代のサラリーマン的な武士のものとはまったく異なっていた。史料に残された名言、暴言、失言を手がかりに、知られざる中世武士の本質を読みとく画期的論考。

本書は、武士の興りともいえる「源義家」から、戦国=中世の終わり「伊達政宗」まで、33の中世武士たちの名言から、彼らの本質を読みといていきます。

私たちが知る「武士」というと、貧乏旗本の三男坊だったり、「成敗!」とか言ったりします(何か偏っている)。が、それは江戸時代という、日常的に戦闘や殺生のない時代の「武士」の姿であり、中世という荒々しさ全開の時代の武士たちの生き様や思考はそうではないのだと、筆者は言うのです。

それを、彼らの発言から読み取っていこうと。

彼らの発言というと、史料だけでなく「物語」や「伝承」にも踏み込むことになります。ですが、筆者は躊躇なくフィクションの枠組みを咀嚼し、その限界も理解した上で、中世たちの武士たちのメンタリティを掴み上げてきます。

呉座先生の他の著作も拝読していますが、史料の扱い方―読みや限界点の取り方がとても論理的です。ですから、フィクションの域まで入り込んだ本書へも、読むときあれこれと期待が高まっていました。そして、読んだあと、その期待が裏切られることはまったくありませんでした。

■「武士とは何か」という問題について

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