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一度も声を聞いたことがないあの子

こんにちは Erinaです!
記念すべき(?)2回目の投稿、なにを書くか悩みましたが幼少期のひきこもり具合をお伝えしていこうと思います。

教室にいるのが息苦しかった幼少期

「なんであの子はしゃべらないの?」

クラスメイトに幾度となく言われた言葉。
皆さんのクラスにも一人はいたんじゃないでしょうか、

【一度も声を聞いたことがないあの子】

それが私でした。


教室ではほとんどしゃべらないうえ、団体行動が苦手だった私は小学2年生のころには学校に行けなくなりました。無駄に勉強だけはそこそこできたので次第に「授業なんて受けても意味ないや。進〇ゼミやってるし大丈夫!」と謎に高をくくってました(-_-;)

母との闘い

学校へ行かせようとする母と、休もうとする私とで毎日闘いが巻き起こっておりました。とはいえ学校へ行ったところで教室(自分のクラス)へ入れるわけではないので保健室か図書室に避難してましたが。。

パートへ行く前に、私を学校へ行かせられるか否かというなかなかな苦行をこなしてから仕事へ向かう母。子供ながらにあらゆる知恵を使って学校へ行かなくてもいい理由を毎度考えてました。「お腹が痛いから」「テレビが見終わったら」「ポ〇モンカードを1ラウンドやったら」(当時兄とハマってた笑)

母もどうせ行く気がないことはとっくに承知しているので、次第にしびれを切らして怒り狂う。しかしパートの時間が近づけば家を出ざるを得ないことを知っていた私はひたすら時間稼ぎをする毎日。

母を怒らせたくないから学校へ行かなければという気持ちと、それでも学校へ行かず家でうだうだしていたい自分とで葛藤していました。今思えば結構壮絶な争いが起きてましたね。。車で学校へ向かう道中行きたくなさすぎて走ってる最中にドア開けたこともあったっけか、、、(え、あぶな。)

対人恐怖症というのか、とにかく他人と話すことが怖かった当時は家族以外の人と会話をかわすことはほとんどありませんでした。リアクションはうなずくか首を横に振るかの2択のみ。もはやそれが会話として成立しているとは言えないくらいのコミュ障っぷりでした。

訪れた転機

中学3年までそんな感じで、着々と卒業の季節がせまってきました。
ぶっちゃけ高校なんてどこでもいいやと思っていたので学校紹介のパンフレットを見たところで一切の興味を惹かれることもなく、そんな中先生に勧められた高校へ一度母と見学へ行ってみることに。

都会の方にある高校だったので家から1時間半くらいかかるところで、しかも最寄りの駅を出てからはバスか徒歩しかなく、交通費をケチるため歩くことに。歩くと20分くらいかかるので当然引きこもりだった運動不足の私は道中「しんどい・・・」を連発。軽やかな足取りで進んでいく母に対し足取りはどんどん重くなる。なんとかたどり着き、校舎へ入ると大人っぽい高校生たちが笑顔でお出迎え。

なんとなく直感で「この高校いいな・・・」そう思っていました。校舎きれいだし、教室なんかオシャレだし、学食のから揚げめちゃくちゃおいしいし、、、(大好物はから揚げ)

今考えると結構ふわっとした理由でしたが、なぜかそこでスイッチが入った私は「この高校に行く!!」と盛大に母に宣言しました。まあそんな偏差値高いところではなかったので勉強に関してはさして問題はなかったのですが、ひとつ大きな試練が。

中学も「相談室」なるところで日々を過ごしていた私は事情が事情なだけに、入試後に高校の先生と面談をすることに。
例によって家族以外との会話がほぼ皆無だった私はどうすべきか迷いに迷ってました。「他人と話さなくてはいけない・・・」そんな自分にとって高い高い壁。
そして受験日当日、筆記試験を終えていよいよ面談へ。
緊張で心拍数爆上がりの中、自分の番はあっという間に訪れて、先生2人と自分というまさかの2対1の状況。(この時点でかなり予想外でテンパった)

必死で記憶を呼び起こしましたがぶっちゃけ何を質問されたのかは全く思い出せず。。。←おそらく緊張しすぎて記憶が抹消されている

まあでも面談だったのでおそらく「なんでうちの高校を選んだのか」とかそういうごく一般的な質問だったと思われます。

質問を思い出せないので当然何と回答したのかも記憶にないのですが、でも聞かれたことに対して、首を縦に振るか横に振るかではなく、自分の声で、言葉で、しっかりと受け答えをしたことははっきりと覚えています。

のちに知ったことですが、先生方は事前情報で私が全くしゃべらない生徒だと聞かされていたのでとても驚いたそうです。
たしかにどういうわけかその時だけは、今までのコミュ障っぷりがウソのようにスラスラと話すことができたのです。
「この試練を乗り切らなければ将来絶対に後悔する、、、」
そんな思いが功を奏したのか、なんとか乗り切るに至ったのです。

おわりに

ついつい長くなってしまいましたがまあ私の引きこもり具合兼、コミュ障ぶりはこんな感じでございました。

今でこそ美容院も、コンビニも普通に行けるようになりましたが当時はそんな当たり前のことにすら、いちいち心臓が忙しくビートを刻みながら決死の覚悟で行っていました。笑

さて次回はそんなコミュ障の塊のような人間がなぜリラクゼーションサロンで働くようになったのかなどなどを語っていこうかと考えています。

長文失礼いたしました。また次回もお会いしましょう!


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