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生き方(究極の体力保持)のスキル

1 頑張る 

 僕たちは、頑張って毎日を過ごしている。
 僕たちは、自分で自分の生活をコントロールできるのが大人だという教育を受けて育ってきた。
 
 何かがうまくいかない時、全部自分のせいにしてしまう。
 自分のせいにするということは、頑張るということだ。

 元気で、周囲も守ってくれる環境にあった若い頃なら「頑張る」だけでもよかったが、大人になるとそうはいかない。
 人も動物だから、疲れがたまることがある。
 疲れがたまるとうつっぽくなる。
 本当はそこで休みさえすればいいのだが、頑張るしか知らないと当然だが事態は改善しないのだ。

 頑張ることは自分は基本的な能力があり、
 この生き方でやれば課題を克服できるという感覚の「生き方」に当たる。
 その人はこれまで自分の踏み出す足先は自分でしっかりと固めてきた生き方をしていることが多いのだ。

 頑張って準備すればするほど、しっかりとした感触になり、
 自分の準備が悪ければ不安定な足元になり転んでしまうことがあることを実感している。

 自分が努力することで、人生をコントロールしている感、つまり自信を得ているのだ。
 しかが努力には当然エネルギーを使うのだ。

 うつ状態の時には、蓄積した疲労を回復するため、その努力を出来るだけやめなければいけないが、それができないのだ。

 そんな時ほど、頑張ることを一度止めてみるのだ。
 頑張りをやめると、確かに次の1歩がズブズブと地盤沈下し、このままどん底に落ちていきそうな、とてつもない恐怖を感じるかもしれない。
 ところが実際はズブズブと沈んでも、その下にはしっかりとした地盤があり、なんとかそこでとどまっていける、それが人間なのだ。
 
 頑張らなくても自分は沈まないということを経験した時、そこでしっかり休んで、次の1歩を徐々に踏み出すことができる。

 ただ、頑張るや努力するのをやめるのは、1人でチャレンジするのは怖いことだ。
 誰かがチャレンジする人の手をしっかり握ってあげていれば、頑張るからのしがみつきを乗り越え、準備せずに次の一歩に体重をかけることができるようになるのだ。
 


2 神様を信じる力

 論理的な人は、自分の論理で理解できないことを軽んじる傾向がある。
 ただ、論理では運命を理解できない。
 そんな時、人は宗教や占いなどのスピリチャルなものに助けをもとめる。一方で、そういうことを、非論理的、非科学的だと大変嫌う人もいる。
 しかし、理屈では理解しにくい宗教などのスピリチャルな要素が人に大きな影響を与える場合もあり、上手に使うことは必要かもしれない。

 理屈主体で考える人は、感情の力の存在を知らない人が多いかもしれない。
 感情の力は論理ではなく、イメージや直感で答えを導き、強いモチベーションを与えるのだ。
 感情の力は状況によって変化する。通常の状態なら、理性80に対し感情20も状態で理性的に行動できる。しかし、プチうつ状態なると、理性50:感情50になる。うつ状態では理性20:感情80になるのだ。 

 例えば、元気な時は理性的に考えるコンサルが助けになるが、
 うつの状態になると、弱った理性では自分を律することができなくなる。 
 そんな時は、感情にアプローチする言語を持っている宗教、あるいはそのようなアプローチができるカウンセラーが助けになる。



 
 現代社会は守られた社会あるので元気で過ごせることが多い。
 だから、論理だけで何とかなると誤解している。
 そこで成功してきている人ほど、自分の力ですべてを切り開けると妄信していのだ。

 しかしそんな人が、震災のような惨事に巻き込まれると、人生観が変わるのだ。
 惨事によって感情はうつ状態になり、論理では自分を含めた他者や社会を理解できなく、感情をなだめることもできない。
 そして将来もコントロールできないことを痛感し、自信が失われていくのだ。

 そういう惨事でも、戦場でも宗教を信じている人は強い。
 米軍では、メンタルヘルスの主体で活動するのは、牧師さんである。ではなぜ、宗教心が惨事に強いのだろう?

 おそらく宗教心がその人の根柢に、自分には仲間や愛する人がいて居場所があるという自信を育んでいるのだと考える。
 「自分は守護神に守られている」という信念を持っている人は、成功する度に、「自分は誰かや何かに守られていえる」という自信を、そのたびに補給していく。

 その為、心底の自信を持った人生を送りやすいと考えられる。
 もちろん、失敗することもあるが、その時は「守られなかった」と感じるより、むしろ、辛い時期を一緒に乗り越えてくれる誰かがいると感じるのだ。
 このように、信じる力は論を越えたものだ。そして、それを育ててきたのは、その人のDNA、教え、経験、時代などの運命的な要素があると考えられる。



 
 また、最近の研究で「首尾一貫感覚」が、人々が逆境に耐えるのに必要な感覚だということが分かってきている。どんなことにも意味があり、自分の置かれている状況を大体把握できていて、課題を自分の力で何とか達成することが可能であると感じることだ。

 このことから、意味を感じ全体像が把握でき、対処の可能性を感じていれば、人はそれほど動揺せずに活動を継続できる。

 ここで需要なことは、「感じていれば」という部分である。

 戦争や大災害のような、自分では何の対処もできないような状況に対しても、宗教の概念の中でそれを感じることができれば、心穏やかに過ごすことができるのだ。

 このように宗教は、辛い時の心の支えになるのだが、
 逆に今の様に世の中が不穏な時は、この構造を持つものに強く惹かれてしまいやすく冷静な批判精神が薄くなってしまう。

 不穏な時代、魅力的な世界に見える時ほど、冷静な人のアドバイスを求めると良いかもしれない。



 
 また、「今の自分の不幸があるのは、宗教で教えられている正しい行いをしていないからだ」という心理があるのだ。
 宗教で伝えられていることは理論的、倫理的に「正しい」ことが多い。
 しかし、人は動物であり感情があるので、「正しい」ようには生きられない。
 今の苦しさの原因は、自分の不徳なので、今の苦しさから逃れるためには、宗教の示す行為と考えてしまう。
 この流れは、他者から見たら、「宗教にはまるから不幸になっている」という逆の構造に見える。

 しかし実はうつになった人が、自己啓発系のセミナーや本などに「はまって」しまうことが多いのもこれも同じような構造である。
 自己啓発系が教えることは、倫理的にも論理的にも「正しい」ことが多い。
 自分で責任をもって改善したい、成長したいという自立心の強い人は、自己啓発系が好きであり、そこからエネルギーやヒントをもらう。
 ただ、それは元気な時である。

 うつになり、エネルギーが低下し思考が偏っているときは、自己啓発系のアドバイスは、理性では理解できても、意欲がわかないし、行動もできなくなる。
 それは人間の自然な姿なのだが、日ごろから自己啓発に慣れ親しんだ人は、
 今の自分の不調は自己啓発書の通りにやっていないからだ、
 もっとしっかり勉強して、しっかり取り組まなければと思ってしまう。

 こうなると、本来はきちんと休むべき時に、必死に自分を鍛える活動をつづけ、しかもそれができない結果が伴わない状態なので、さらに自信を失い、自己嫌悪を大きくしてしまう。
 そしてまた違う種類の自己啓発を探すのだ。


 
 さらに、不調をひたすら我慢するやり方のトータルな苦しさと、
 少し主張して理解してもらうのが気まずい雰囲気のトータルな苦しみを、実際に感じて比較しないと、自分の最適な正解はわからないのだ。

 メディアで紹介されていたり他の人がやってうまくいっていることが、自分にも「正解」だと信じていると、それがうまくいかないとき、自分を責めてしまったり、自信を無くしてしまいがちになる。
 すべてのアドバイスは、より苦痛の少ない生活を探すための正解でなくヒントなのだ。

 ヒントに従い、ある行動を工夫して前より少しでもましになれば、素晴らしい前進なのだ。
 やってみて効果を感じなければ、すぐにやめてほかを探す。その試行錯誤を積み重ねていくうちに、自分なりの対処の仕方、生き方のバランス感覚を身につけることができるのだ。



3 僕を信じる力

 不安より恐怖の方が心のエネルギーを消耗させる。
 こういう時はこうすればいいとう経験が、不安を解消させてくれる。

 胸を開き息を吸いながら「だいじょうぶ」、
 下腹から息を吐きながら「なんとかなる」、
 さらに息を吐きながら「あきらめるな」と繰り返しながら、

 僕は緊急時やパニックに陥いった時の呼吸法を日ごろから練習している。

 なぜなら、メンタルは元気なときにしか鍛えられないからだ。

 そして、メンタルを維持するためには、助けてもらうスキルも必要だ。

 そして、「逃げて寝む」「体力保持」「呼吸法」が、僕の最適な生き方のスキルだと信じている。

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