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現代詩『朝のリレー』をめぐるあれこれ

日夜、内在する記憶を掬い上げようと悪戦苦闘しているじぃじですが…
時にはふと記憶が降りてくることがあります。

例えば、今朝始発の電車の中で降りてきたのは「朝のリレー」。みなさんよくご存知のとおり谷川俊太郎の詩なんですけども…じぃじの記憶では次のTVCMによります。

これは2003年〜2004年にネッスルのCMとして放映されたもので、当時のコンテストを総なめにしました。

このCMにまず詩作の…

それから作曲は息子の…

それから朗読は…

…と、この3者が混じり合った動画コンテンツとして記憶しています。

ところが…

この詩は中学1年の国語の教科書にも教材として掲載されていたそうで…

これを観ちゃうと興醒めしてしまうじぃじです。

この有名な詩についてさらに掘り下げてみると…
次の論文に行きつきました。
なんとこの詩は1968年に書かれたそうです。

でも縦書きの PDF は読みづらいので全文を転載すると…

谷川俊太郎 「朝のリレー」 試論成立状況からのとらえ直し
Shuntaro Tanikawa "Asa no relay": From the situation of the composition
大野隆之
Takayuki Ohno

はじめに
谷川俊太郎の「朝のリレー」は長く定番教材として親しまれてきた。最もシェアの高い光村図書の中学年用教科 書では、一九八一年から一九九二年まで一〇年にわたり採録され、また教育出版にも採用された。 近年も平成一八 (二〇〇六)年版までの三省堂教科書にされていた。
この作品の受容者をさらに拡大させたのは、二〇〇四年、 この詩の朗読と映像を組み合わせたCMであろう。この CMはACCグランプリ(テレビCM部門)を受賞しており、現在も動画閲覧サイト等に数多く上がっている。 現代の 日本人に最も広沢に親しまれた戦後詩の一つと見てよいだろう。
その一方この作品の成立が一九六〇年代半ばであることについては意識されないし、言及される事もほとんどない。 これは他の多くの作品同様、 この作品が高い抽象度を持っているためである。 またこの作品については「教材」 という観点から論じられる事が多く、その場合「対句」という技法に関心が向けられ、成立等に関心が向けられ ることはほとんどなかった。 これは詩集というコンテクストから切り離された「朝のリレー」という単独の作品のと らえ方としてはほぼ妥当だと思われる。 しかしどのような文学作品であれ、具体的な時代の制約と特色の中で誕生し たのである。 特に一九六〇年代の谷川は他の時期に比較すると、現実の具体的状況にきわめて敏感であり、また具体 的な事象を作品化している。 「朝のリレー」という作品もまた、その成立は一九六四年という具体的な状況とその時期の谷川の関心対象、 思想が存在しているのである。
以下本稿では、「朝のリレー」 という作品を、もう一度初出詩集である 「祈らなくていいのか」に置き戻し、かつ 一九六〇年代半ばという具体的な状況から、 何を捨象し、どのように抽象化されたのかを明らかにしていく。

一、 教材としての読みと受容状況
「朝のリレー」を教材としてとらえた場合、「対比」 素材という試みもあるが、やはり第一連を中心に、を中心に取り上げられる事が多いようである。 例えば竹田博之氏は「朝のリレー」を「表現技法を教える教材」に 分類した上で、次のように整理している。

「カムチャツカの若者は男か女か」を問うことで、この時の対句の形がくっきりと浮かんでくる。
若者(男)・夜←→娘・朝 少女・夜 少年・・朝
そして、この「対句」によって朝と夜がぐるぐる回っている様子 (つまり「朝のリレー」)が見事に表現されて いる。 そういう点で、この時は「対句」という技法と、その技法を用いる効果を教える好例としてストックして おくことができる。

どちらがいい悪いの問題では無く、 このみやすい図式は国語科教育と文学研究とのスタンスの違いを明確にしてい る。すなわち国語科教育において重要なのは、 生徒達に教育目標、この場合は技法とその効果を教えることなのであ 作品はあくまでもそのための素材なのである。
他に「朝のリレー」が教材として有効であるとみなされる理由としてあげられるのは、題名の喚起する初々しいイ メージと、 明快な主題である。 例えば 「科学的 「読み」の授業研究会」は詳細な「朝のリレー」の指導案を提示して いる。この指導案ではやはり対句の分析に非常に力点を置きながら、 同時に生徒が提案する多様な読みを提示しているが、 最後の「主題読み」は非常にシンプルである。 題名の「朝」 は 「希望 未来をイメージする」。 「リレー」 は 「友情、連帯」を示す。 そして作品の主題は「若者たちの決意と連帯へのよびかけ」 であり、 「ぼくら若者達は、 連帯し、あしたへの明るい希望を持って、平和な世界をめざし努力していこう」といった「よびかけ」が二つ例示さ れている。
この「若者たちの決意と連帯へのよびかけ」 という主題に意義を唱えるのは難しく、 実際後に詳述するが、 新しい 世代に対するメッセージというのは、 谷川本人の明確な意図であったということも疑い得ない。
教材としての研究、 読解は以上のような、明瞭な対比と明確な主題という枠組みに収まっている。 たとえば やはり教材研究の立場から、 池田一彦氏は「谷川俊太郎 「朝のリレー」 私解」という論文を書いている。 池田氏 は新批評的な立場から、 作品外の情報を排除し、 「朝のリレー」の「の」という格助詞にこだわるなど、より精緻な 読解を試みており、教室でしばしば発されるらしい 「地球を守る」というのは具体的にどうするか、という問いか けに対し、「守る」 が本来「目守る」 であることを提案するなどの興味深い読みを提示している。 しかしストイック なまでに作品外の情報を遮断したが故に、大枠そのものは従来の教材研究を大きく逸脱するものではない。 「朝のリレー」は中学一年の序盤、 時には最初の教材であり、入学したての中学生達に未来や希望をしめし、連帯 をうながすという意味で扱いやすい教材と言えるだろう。 中学一年の教科書には他に、例えばヘッセの「少年の日の 思い出」のような、重大な事案とは言えないが、人間の暗部を示すような教材も含まれているから、バランスも考慮 されているのだと思われる。

以上のような教材的な読みに対して、強い不快感を示す詩人がいる。 関富士子氏の「詩を読む4) 谷川俊太郎 「朝のリレー」を読む」がそれである
関氏は「同人であり、 「音の梯子』 などの詩集があるが、インターネットを中心に活動する新しいタイプ 詩人であり、上記の批評もまたインターネット以外では閲覧できないものだと思われる。

関氏は別に教材研究的な読みに対して異議をとなえているわけではなく、 そのようにしか読めない作品に対して不快感を表しており、 その批判の骨子は以下の通りである。

「朝のリレー」には、まず初めに、読者に押し付けようとするテーマというものがあり、表現はそのためにねじ まげられているのだ。
さらに、明らかに意図的な比喩を、対句の繰り返し、断定的文末、 切れのあるリズムでたたみかけてくる。 のテクニック、いかにも詩的表現が、 言葉をいまわしいスローガンに堕すのはこういう時だ。

これはまさに教材研究の合わせ鏡のような批判である。 明確なテーマを持ち、そのために有効な技巧を用いるとい 「教材」としての価値そのものが、批判対象となっているのである。 そして「少年少女」 が学ぶのは「作者の意図」 「教育的意図」であり、それらは「時の感動とは無縁のものだ」としている。

それでは生徒達、また実際の読者はこの詩をどのように受容したのであろうか。ある作品の受容状況という問題を考える場合、 インターネットの普及は研究のあり方を大きく変えた可能性がある。 特に「朝のリレー」のようなよく知られた作品の場合、数多くの個人が、ブログ、掲示 ツイッター等さまざまな 手段で、 感想 批評を表現している。 これらは全て貴重な一時資料と言える。 その全てに目を通すのは物理的に困難 であるが、教材としての思い出にしろ、 CMの感想にしろ、この作品に対する評価は概ね好評である。 具体例をいく つか挙げると次の通りである。

実例 カムチャッカ 私が習ったときは、カムチャツカではなくカムチャッカだったような気がします) ってどこ だろう?朝もやの中のバスって? キリンの夢って?ってワクワクした覚えがあります。

実例二 カムチャツカという言葉が出てきた時に先生が 「カムチャツカはどこだ~?」 と生徒に聞いたのですが、 みんな聞いたこともなくて結局先生が「ここだよ」って教えてくれたんですが、 そのときの思い出で出てくる先生の顔 は中二の時の国語の先生の顔なんですよね・・・。

実例三 谷川俊太郎の「朝のリレー」のフレーズがラジオから流れてきたときは、思わず鳥肌が立った。

URLは注に示したが 実例一、二は学校での授業の思い出を語りあう掲示板であり、 実例三は工芸家のブログで ある。 他にも無数にあり、中には前掲した氏の批評を唱えるものまで存在するが、ここでは上記を典型的な ものと判断して採用した。
興味を引くのは、多くの一般読者にとって「朝のリレー」 の中で最も印象に残っているのは、教室で教えるような 「若者の連帯」というようなテーマや、「対句の構成」といった技法などではなく、冒頭の「カムチャツカの若者がきりんの夢を見ているとき」 という言葉の力そのものである。 「カムチャツカ」 という中学生にとっては聞き慣れな 地名 日本語においては促音化しやすい位置の「ツ」がはっきり発音される事、北の地名だとわかった後の「きりん」との対比のおもしろさ。 既に最初の二行でこの作品は、 中学生の関心を引きつけているのである。 グーグルで 「カムチャツカ」 を検索すると、 一位の検索語句は「カムチャツカツアー」という実用的なものだが、第二位は「カ ムチャツカの若者が」 であり、これは印象的な冒頭から詩のタイトルを検索しようという数多くの人々の行為から生 じ現象である。
実例でふれられているカムチャツカの表記については、 既に一九四六年に出されていたた内閣告示 「現代かなブ 「かい」が徐々に徹底されていく中、促音を小文字にあらためる過程で、もともと促音ではなかったカムチャツカも誤っ て小文字表記に書き換えられてしまったが、その後誤りに気付き、 再び大文字に戻された、といった事情であると考 えられ、それほど本質的な異同ではないが、インターネットでは何度か話題になっており、この問題に特化した考察 まである。これもまた朝のリレー」という作品にとって、冒頭カムチャツカの印象がいかに強かったかという 事の証左であろう。 また実例二に登場する教師は、生徒のこれまでの反応を反映させたよい工夫であると言えるだろう。

二、書誌
以上のように実際の受容者達は、確かに関氏の指摘するとおり「地球の裏側のまだ見ぬ同胞への連帯感」 などかき たてられていないようであるが、逆に関氏にとっては「テレビでよく見る全国各地の朝の映像」程度でしかない冒頭 新鮮な驚きとして受け止めたのである。
通常の作品論ならまず最初に確認されなければならない作業なのであるが、既に見たとおり「朝のリレー」は教材 としてであれ、CMの素材としてであれ、完全に外して受容されてきた。作品にもよるのだろうが、 少なくとも「朝のリレー」の教材研究についていえば、初出について言及されているものは管見の及ぶ限り存在しな そこでまず受容状況を確認したあと、この作品の初出とおおよその成立時期について考えておきたい。 この作品の初出は「谷川俊太郎詩集・日本の詩人一七』 河出書房版一九六八年であると断定してよいと思う。 す なわちこの詩集以前に何らかの雑誌等に掲載された形跡はない。 「谷川俊太郎詩集』というのは同名の書籍が何冊も あるが、この河出書房版はやや特異な性質を持っている。 というのは旧作のアンソロジーという性質と新詩集という 性質を合わせ持っているのである。 既刊詩集からは 『二十億光年の孤独』(一九五二) 六篇 『六十二のソネット』 (一九五三) 一二 『愛について』(一九五五) 一〇篇 『絵本』(一九五六) 四篇 愛のパンセ』(一九五七) 二 篇 「あなたに』(一九五七) 一二篇 『21』(一九六二) 四篇 『落首』(一九六四) 九篇、この後に「祈らなくていいのかー未刊詩集」と題された二八篇がおかれ「朝のリレー」はその中の一作である。 その他巻頭に八枚のカラー 写真があり、 一枚ごとにおそらく新作と思われる時が一つずつ付されている。 巻末には「歌」として「死んだ男の残したものは」 と 「風のマーチ」の歌詞がそれぞれ楽譜とともに収められている。 その他の余白にエッセイなどが挿 入されているが、刊行同年の一月には同じ河出書房から 『愛の詩集』が出版されており、またこの詩集に続く最終第 一八巻 『青春詩集』の編集も谷川が担当するなど両者の結びつきは強く、デザインから写真選定、付録のギフトカードにいたるまで、 谷川自身の意志を強く反映していると見られる。
「祈らなくていいのか」 は 「未刊詩集」とあるように、単なる未刊編の寄せ集めではなく、はっきりと一つの詩 集として構成されたものである。 まず季節をめぐる作品から、オリンピック、 実在した人物を素材とした作品 結婚 から家族に至る作品へとブロックが緩やかに接続している。 その合間に「宇宙」 や 「地球」をモチーフとした作品が 挿入されている。このうち「ワレンチナ・テレシコワに」 に描かれている女性最初の宇宙飛行は、一九六三年六月一 六日のことであり、東京オリンピックの開催は一九六四年一〇月〇日から二四日までである。一方後半に配置され ている恋から結婚、父親になることや家庭生活を描いた作品群は一九五七年の二回目の結婚から、一九六〇年の長男 誕生などを反映したものと考えられ、成立時期はやや古いものであると推定される。 「朝のリレー」については後に 詳述するように、オリンピックを描いた作品群と結びつきが強いため、その成立時期を一九六四年後半から、 一九六 五年にかけてであると推定するのである。

ここで最後に、「朝のリレー」が成立した一九六〇年代の状況について若干確認しておきたい。 まず国際情勢とし ては、 六一年にはベルリンの壁が建設されるなど東西冷戦は深刻化し、 六二年一〇月にはキューバ危機を迎える。 ま 六〇年に始まったベトナム戦争は、 六五年の北燥から本格化し、泥沼の様相を呈していた。
反面五七年のスプートニクに始まる宇宙開発は急速に進歩し、 六〇年代半ばには真っ青な地球のカラー映像が配信 されるようになる。 『谷川俊太郎詩集』 の巻頭写真のうちの一枚は人工衛星から撮影された地球である。
一方日本は敗戦から急速に立ち直り、高度経済成長を謳歌していた。 国際的地位も次第に回復し、 その重要な象徴が東京オリンピックの開催であった。 また若い世代には政治的関心が高まり、谷川の「死んだ男の残したものは」は 一九六五年の「ベトナムの平和を願う市民集会」のために作詞されたものである。
「朝のリレー」 そのものから、 直接的には上記のような時代性は一切感じられないが、この作品はこのような時代 に成立したものなのである。

三、東京オリンピックと谷川俊太郎
「カムチャツカ」の次におかれる「メキシコ」については、北に対する南である、という読み方がある。確かに「カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき」 という冒頭には明らかに北と南との対比が意図されており、 「経度から経度へ」という東西のつながりが強調される作品全体の中で、 南北の共感、 慢慢は重要である。 しかしそ れはこの冒頭部分で完結していると見るべきである。 というのはメキシコは現実に非常な寒冷地であるカムチャツカ 対比されるような気候ではない。 低緯度ではあるが、標高が高いために最低気温は一番高い六月ですら一二度程 度 一月の場合は六度を切る。 また 「もや」 というのは水蒸気を含んだ大気の温度が急速に下がり、 露点温度に達し た際発生するものであるから、娘は少なくとも体感的にはひんやりとした朝をむかえているはずである。 谷川はオリ ンピック前年の一九六三年にリオデジャネイロを訪問しているので、もし南を強調したいのなら、熱帯性のリオの方 がふさわしいし、きりんからの連想だとしたら、当然アフリカのいずれかの都市が選ばれるべきであろう。 以下は作品を成立状況から切り離した場合には決して出て来ない読みなのであるが、メキシコが選択された理由は、 東京オリンピックの次期開催地であるからではないかと思われる。 それは谷川だけの問題では無く、当時の日本人の 大多数にとって、 メキシコからイメージされるのは、何よりもオリンピック次期開催地であるというところだったろ う。 これは二〇一二年現在のわれわれがリオデジャネイロとけば、熱烈なサッカーファンをのぞけば、オリンピッ クをまず思い浮かべるのと同様である。後述するように谷川は「祈らなくていいのか」にオリンピックを描いた三 をいれているが、閉会式を描いた「やみの中に」は次のように閉じられている。

やみのなかに
まだ炎が見える
それはひとりひとりの心に燃え
やみの中に
もう明日が見える
よみがえる明日が

実際の閉会式では、会場の全ての電源を落とした後、 花火が上げられ、最後に電光掲示板には「SAYONARA」 「MEET AGAIN IN MEXICO 1968」 と表示された。
ちなみに「ローマ」は東京オリンピックに先立つ一九六〇年の開催地であるが、「ニューヨーク」でオリンピック が開催されたことはない。

谷川は記録映画 「東京オリンピック」(監督、市川崑) 脚本で参加しており、個人的な思い入れは強かったに違 いない。 また多くの日本国民にとっても、戦後復興と国際的地位回復の象徴という意義があった。 とくに一九四〇年 開催をし、その後敗戦を経験した日本にとって一九六四年の開催は特別な意味を持っていた。 それが典型的に現 れたのが聖火リレーである。 東京オリンピックの聖火リレーは、 ビルマ (当時)、マレーシア、タイ、フィリピン、 中華民国 沖縄と、 大東亜戦争の戦場をまわり、 過去の戦争の乗り越えと、新しい友情を表現しようとしたのである。 この主旨からいうと中華民国(台湾) ではなく、 中華人民共和国をまわるべきだったのだが、当時中国は台湾問題の ためIOCを脱退しており、実現しなかった。
最終ランナーもまた特別だった。 通常は有名人が担当するのであるが、この時は一九四五年八月六日、すなわち原 爆投下の日に広島県で生まれた無名の青年が担当した。まさに第二次大戦の最終的な乗り越えであり、 沖縄復帰 対 中関係などの宿題を残しつつも、新しい平和国家日本が世界に認知されたのである。世界をつなぐリレーという発 想はここから得られたのではないだろうか。

それでは谷川はオリンピックをどのようにとらえたのか。 それを最も直截的に表現しているのは、 開会式を描いた「祭 Oliynmpiad 1964」 である。

乾ききった砂の匂う褐色のからだ
熟れたぶどうの匂う白いからだ
熱い鉄と油の匂う思いからだ
男たち女たち
世界中から集まった若者たちの
裸の脚の林のむこう
旗は風にひるがえる

谺するファンファーレ
その静寂の一瞬に
秋の陽は輝きわたる
二千年の歴史をこえて
オリンピアはよみがえる
あふれるいのちのままに
おおいなる祝祭はよみがえる

言葉にならぬどよめきに
いま人間の心はひとつになる
若者たちは戦うだろう
武器無く

憎しみなく
しかも彼等は戦うだろう
ひたむきに
なおもおおらかに

第一連では三つの肌の色の視覚的印象を嗅覚的に表現する事で、 なまなましい生命力が表現されている。 これは 「人類」といった抽象的なイメージではなく、 具体的な生命であり、かつそれぞれが差異をもった他者である。 この 生々しい肉体に対して、 旅が象徴する 「国家」は後景に控えている。
第二連では、この具体的な光景が、長い歴史の中に位置づけられている事を示す。 これもこの時期の谷川の新しい 傾向なのだが、この問題については後述する。
第三連で印象に残るのは「武器無く憎しみなく」という部分であり、これはこの場所とは異なった場所で、憎し みあいながら武器を取る戦いが存在している事を暗示している。 もちろん現実のオリンピックにはその背後に政治的 な力が働いており、現に東京オリンピック開催中においても、中国は核実験を実行している。 しかし少なくともアリー ナでは、あらゆる色の肌が平等なのであり、かつ彼等の戦いは 「おおらか」なのである。
異なった色の肌をもつ若者たちが、 同じ目的のために集まり、心を一つにし、自らの肉体だけで競い合う。 このあ ふれんばかりの生命力の祭典は、 谷川が理想とした世界そのもである。 しかしそれはオリンピックという、 限定され た、非日常的な「祭」の中でのみ実現するものである。
オリンピックという密な空間で、しかも選ばれたアスリートたちによってのみに許される体験を、ごく平凡な日 常世界に拡大する事は出来ないだろうか。 その夢を語るというのが「朝のリレー」 の役割の一つであると思われる。

四、コンテクストとしての「祈らなくていいのか」
ある一篇の詩を単独の作品として鑑賞するのか、 詩集の中の一篇として理解するのか、という問題は常にあるが、 「朝のリレー」においてその問題は特に顕著である。 例えば昭和六二 (一九八七)年度版の光村図書の教科書の場合、 「朝のリレー」のリレーの次に配置されている教材は長田弘の「おおきな木」 であり、 その冒頭は以下の通りである。

おおきな木をみると、立ちどまりたくなる。
芽吹きのころのおおきな木の下がきみは好きだ。
目を見上げると、日の光が淡いの
一枚一枚にとびちってひろがって
やがて雫のようにしたたってくるようにおもえる。

これを連続的に学習する場合、まず「朝のリレー」 で地球的な視野から連帯を学んだ後で、身近な生命をしむ気 持ちを学ぶという展開が予想され、おそらく教科書編集者の意図はそういったものであろう。
一方「祈らなくていいのか」 においては、オリンピック三篇のあと、太陽に照らされた庭石を描いた短詩「石と光」 がおかれ、 その次に「朝のリレー」が配置されている。 問題となるのはその後の「月からの風景」である。 以下に引 用するのは全八連のうちの第三連と第四連である。

地球はかなたにかかつている
午前十時の午後五時の
暁とうしみつどきの
今日と明日との
まわりつづけるあやうい独楽

かなたに地球はかかつている
ナパームの閃光はみえず
黒も白も黄いもみえず
セザンヌのりんごもみえず
どんな廃墟もみえず

第三連からは、この作品が「朝のリレー」とくっきりと対になった作品であることが感じられる。 しかし 「朝の リレー」では決して描かれる事の無かった 「あやうい」という表現は、川本来の「地球」に対する両義的な 示している。
第四連にはいると 「朝のリレー」 という作品が、 何を避けることによって成立しているのかがはっきりとわかる。 このうち「ナパームの閃光」 は、 特にあからさまに同時代性を表現しているといえるだろう。
ナパーム弾は既に第二次大戦中に開発されており、東京大空襲で使用された「焼夷弾」も本質的には同じものであ る。 しかし「ナバーム」という語が日本人に一般的に知られるようになったのはベトナム戦争の時期である。 一九六 六年に放映された「ウルトラマン」でも使用されており、 怪獣を倒せる強力な兵器として子供たちにも認知されていた。
「黒も白も黄いも」はそれ自体は中立的な表現であるが、 「ナパーム」の直後に配置されているため、オリンピッ クにおいて描かれた他者同士の連帯より、むしろ差別という負のイメージを喚起するだろう。
「セザンヌのりんご」は人類の芸術的営為を象徴しており、 「廃墟」は実体としては「朝のリレー」におけるロー マの「柱頭」と同じものなのであるが、この作品においてはむしろ地球全体の中では人類の歴史など矮小なものに過 ぎない、という『二十億光年の孤独』の時期の感覚に近いものである。
この双子のような出自を持つ二つの作品は、 その後全く離れ離れとなった。例えば先に取り上げた関富士子氏 の批評には「詩集 「祈らなくていいのか」所収 (谷川俊太郎詩集「これが私の優しさです」 集英社文庫より)」とその出典が明記されているが、「これが私の優しさです』に収められているのは「祈らなくていいのか」 二八篇中、わずかであり、「朝のリレー」の次に置かれているのはファースト・キスを暗示する 「あげます」 である。 社会 への違和と反発を描いた「乞食」こそ所収されているが、他は概ね明るい作品であり、オリンピックのような時代を 反映する作品は一切排除されている。 仮に関氏が初出形で「朝のリレー」 を読んでいれば、おそらく全く別の となったのではないか。
また「月から風景」 のみならず、 この 『谷川俊太郎詩集』には冒頭口絵に作品が付されていることはすでに述べた が、地球の衛星画像に付された作品は次のようなものであった。

地球よ
おまえは私のものだ
おまえの陸は争いに満ち
おまえの海は神秘をかくし
おまえの空は時に明るすぎる(後略)

青い地球の画像は、早くから宇宙および宇宙の中の地球というモチーフをもっていた谷川にとっては深いもの であったと思われるが、その画像を見てまず思い浮かぶのは、争いに満ちた地上であった。
「朝のリレー」はこの時期のみならず谷川が一貫して持ち続けた地球に対する多義的な感覚からの要素を徹底的に 排除して成り立っている。 それは現実ではなく、 まだ実現していない理想なのであり、それゆえ次世代に対するメッ セージなのである。

「月からの風景」 および口絵作品をふまえた上で、「朝のリレー」を読み直すなら、表層の明るさとは異なった読 みの可能性もまた生じる。 例えば冒頭、 中学生その他の読者を惹きつけてきた「カムチャツカ」 は、また別の一面を持っている。 アメリカ合衆国のアラスカと隣接しているカムチャツカ半島は、冷戦期においては重要な軍事拠点であ り、一九九〇年までは外国人の入城は禁じられていた。 「カムチャツカの若者」の職業を想像する授業実践が有り、林業に従事しているというのがその答えであるようだが、実体としては「軍人」の可能も高いのである。 もちろん谷川がそれらを意図して冒頭においたと主張することはできないが、 逆に冷戦期に世界の四箇所を無作為に 選んだところ、偶然に米ソの都市、地域が含まれていたというのも若干無理のある読み方ではないだろうか。
また歴史をひもとけば一七世紀末にロシア帝国に征服されるまでは、カムチャツカはアイヌ人達の土地であった。 これはカムチャツカに限らず、 「朝のリレー」 四つの地域のうち、ローマをのぞく三箇所は、 一六世紀から一八世紀 にかけて白人の帝国によって、 先住民から奪い取られたものである。これもまた単なる偶然なのだろうか。 もちろん以上のような内容を、 中一の授業で展開する必要は全くないと考えるが、 仮にこのような事実をふまえた 場合、次世代へのよびかけ、という 「朝のリレー」 にこめた切実さがはっきりするように思われる。

五、伝統と次世代への継承
最初の短い結婚生活を終えた谷川は 一九五七年に再婚し、一九六〇年には長男、一九六三年には長女を相次いで 授かっている。 この個人史を反映した作品 「祈らなくていいのか」 後半に位置づけられているが、同時にこの時 期から、 次世代の継承というべきあらたな領域が谷川の仕事に加わっていく。 一つは絵本を中心とする児童文学の領 であり、 絵本 「しりとり』 と最初の話である『けんはへっちゃら』 は、 ともに一九六五年に成立している。 もう 一方の童謡 もしくは校歌のような次世代のために書かれた歌詞はそれよりも若干早く、最初の校歌 「四日市南高校 校歌」は一九五九年、レコード大賞作詞賞を受賞した「月火水木金土日のうた」は一九六二年に書かれたものである。 子供むけのアニメ 「鉄腕アトム」の主題歌 (一九六三年)などもこの流れに位置づけられるだろう。
新しい世代へ引き継ぐということは、論理的な必然として、 過去の伝統を尊重する事につながる。 「祈らなくてい いのか」所収の「パパ自讃」 には 「人類の子孫にして祖先たることに」という詩句がみえ、また既に見たように「祭 Olympiad 1964」 おいて、 オリンピックは同時代の人類の連帯であると同時に、大いなる歴史の遺産であるこ とが強調されている。 これは 「二〇億光年の孤独』 など初期作品における、単一の自己と、はるかな宇宙空間に浮か 地球が対比され、そこにおける人類の歴史はむしろはかないものに過ぎないといった認識とは異なるものである。 歴史の尊重と次世代への継承というモチーフがはっきりとするのは、校歌というジャンルである。 次に示すのはこ の時期書かれた校歌の中で「朝のリレー」の先行作品としての要素を持つ「静岡東高校校歌」 (一九六三年) の歌詞 である。 「朝のリレー」の成立は既に述べたとおり一九六四年末から六五年と推定されるから、一年もしくは二年前 に書かれた作品である。

東の空に日がのぼる
緑の丘に風が光る
新しい今日自由な今日だ
その今日に学ぶきびしさ
その今日に生きる喜び
あこがれやまぬ心いだいて
歴史をたずね 宇宙に問いかけ
ひとりひとりが明日を拓く
ひたむきに おおらかに 友よゆこう
ふるさとの誇りを胸に
われら静岡東高

川の作品としては平凡な印象を受けるかもしれないが、 実際に数多い谷川作詞の校歌は、概ね上記作品のように それほど新奇性を持たないものである。 谷川という表現者は常に自己の個性を押し出すわけではなく、むしろジャンルにあわせて役割をしっかり果たすというタイプであり、これが長年にわたる多くの領域での表現活動を支えたもの だと思われる。 この校歌についてのメッセージにおいて谷川は「作詞者の個性も、新鮮な表現という点では必要かも しれませんが、本当に大切なのはやはりその学校に内在している性格を探り、それにふさわしい言葉を見つけ出すこ とだろうと私は考えます」と述べている。 実際冒頭の朝のイメージは静岡市最東部に新設された「東高校」とい 校名にちなむものであるとみるべきであるし、 「緑の丘」 というのは何気ない表現であるが、この高校に隣接して 北東部にはこんもりとした丘が広がっており、 同窓会誌の『東』というタイトルや学園祭の「東陵祭」 という名称 もこれにちなむものだと思われる。 また「喜び」より前に 「きびしさ」がおかれているのは若干奇異な感じがするが、 同校ホームページには創立期の理念として「厳しく楽しく温かい風の学園をつくろう」とあり、 に反映したものであろう。
作詞者の個性を押さえる中で、 それでもなお浮かび上がって来たのが「歴史をたずね 宇宙に問いかけ」の部分で あろう。 「宇宙」という語彙は伝統的な校歌の歌詞にはあまり無いものであるが、他の校歌においても谷川が好んで 用いたものである。またそれにさきがける「歴史をたずね」 の部分にも谷川の強いメッセージがある。 作品前半 部で、かけがえの無い「今日」が強調されると同時に、「歴史」を継承し、「宇宙」という広大な世界 もしくは未来 に思いをはせるというのが、次世代をになう若者たちへの願いなのである。
もう一点この歌詞の「ひたむきに おおらかに」 の部分はオリンピックを描いた「祭 Oliynmpiad 1964」 と完 全に重なっている。成立からいえば、この校歌の方が先であるから、ひたむきに、 おおらかにという若者への祈 りの具現としてあらわれたのが、 オリンピックの選手達であったということなのだろう。

「朝のリレー」はこれら既に書き続けられてきた校の延長上にある。 谷川は校歌を依頼されるとかならずその学 校に赴き風土を感じようとしたとされるが、「朝のリレー」 とはいわば個別具体的な学校の個性を普遍化した。 「地球」という学校の校歌といってよい作品なのである。 基本的な枠組みは前掲 「静岡東高校校歌」 と同じであり、 かけがえのない 「今日」という一日が、朝のリレーという運動として描かれている。 また歴史の継承というモチーフは「ローマの少年は 頭柱を染める朝陽にウインクする」というきわめて象徴的、感覚的な表現に置き換えられて いる。そして空間的な隔たりそのものが、宇宙感覚を内包している。 地球の若者達が、 国家や人種、 時には不幸な過去ものりこえ、あたかも同じ学校の友人達と同じようにつながりあうというのが理想型であろう。もちろんそんな 事がそう簡単に実現するものではないという認識が川にあったというのは、既にみたとおりである。 それゆえにこ そ実現していない次世代へのメッセージなのであり、「祈らなくてはならないことなのであった。

おわりに
以上のように「朝のリレー」は一九六〇年代半ばという具体的な時期に、 具体的な状況や個人史をそれぞれ反映す る形で成立したものである。 しかもそれぞれはいずれも当時の谷川にとって重要なものであった。 しかしながらそれ らの同時代的な要素は慎重に捨象され、それゆえに半世紀以上の月日を超えて読み継がれる作品となった。 これまで見てきたとおり「祈らなくていいのか」という詩集は、六〇年代の川を考える上で重要な詩集であると 考えられるが、単独の冊子にまとめられる事はなく、 アンソロジーの一部という特異な形態で発行されたため、さほ 重要視されてこなかった。 またそこに収められた作品のうち、具体的な時代性を直接反映したものは、その後次々 と発行されるアンソロジーの中に再録される事はなかった。 東京オリンピックを描く作品群などは力をこめた秀作だ と思われるが、オリンピックが歴史の中に埋もれる中で、作品自体も忘れ去られたといってよい。 宇宙開発に対する 同時代のもまた同様である。
これに対して「朝のリレー」 は、 次世代へのメッセージであるがゆえに、同時代の具体性は捨象され、かつ現実の 負の側面をあえて描かないことで、いわば純粋培養されたような作品である。 そして 「地球」 や状況に対する多義性 を含み持った詩集の一部から、単独の作品として飛び立つことで、教室では教材として重宝され、 時に他の詩人の反 発を招くことになった。
このような受容のあり方を作品の「普遍性」とよぶことは、 特に問題がないようにも思われるが、一方で今なおこの作品が、時代性の中にあると考えることも出来る。 これまで特に強調しなかったが、 「朝のリレー」の特色として 国名ではなく、 都市名もしくは地域名をとりあげたという点がある。 これについてはまずこの作品の起源のひとつで あるオリンピックの都市単位という開催形式が上げられるし、また仮に国名で表記しようとした場合、「カムチャツ カ」は当時としては「ソ連」 と呼ばざるを得ず、 これでは冷戦がむき出しにされてしまう。さらにいえば国家と いう枠組みを経ずに、都市や地域を明示したことにより、 地球規模の連帯という主題がより受け取りやすくなったと 言えよう。
「朝のリレー」が光村の教科書に採用されていた八〇年代から九〇年代というのは、冷戦終了の期待やヨーロッパ 統合の可能性など、新たな国際化が夢想される時代であった。 その中で二一世紀という新しい世紀が意識されはじめ、 国家の役割は相対的に低下してくことが予想され、冷戦におけるイデオロギー対立さえ乗り越えれば、もはや人類の 対立軸が無くなることが期待され、「地球市民」 などという言葉が用いられる時代であった。現実にはそうはならな かったのであるが、「朝のリレー」 という作品はそういった次の時代への期待という空気によく合致していたのであ る。
メッセージというものはそれが達成されてしまえば役割を終える。 二一世紀に入っても「朝のリレー」が読み継が れ、新たな読者に新鮮なものとして受け容れられるとするなら、 実はそのメッセージが未だ実現していないことを証 明しているとも言える。 一九六〇年代に現実的な視覚イメージとして現れた、青く美しい地球と、その地上で行わ れている不合理な争いとの落差。 この矛盾の解消は残念ながら、今なお次の世代に先送りされつづけているのである。

谷川俊太郎「朝のリレー」試論-成立状況からのとらえ直し

子供の頃、1960年代の時代の空気をリアルに体験しているじぃじにとって、この詩の背景を知ると何か腑に落ちる気がするのですけども…

それでもじぃじにとって、この詩はネスカフェのCMの記憶が圧倒的に迫ってくると感じてます。

確か…TVの日曜洋画劇場の合間のCMだとじぃじは記憶してるのですが、冒頭のピアノの音は強いアテンションのニューアンスが含んだ優しい暴力に思えるのです。そして静かに語り始める朗読は朝の少し冷たい空気を思わせ、その声で子供たちのリレーの話が語られる。その空気が少しずつ胸に溜まりいっぱいになったところCMは終わり、なんだか不思議な晴れやかな余韻が残る…

このなんとも言えない感情を誰かにリレーしたいと、じぃじは願うのです。

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