使命
毎日が目まぐるしく展開していく中で、大きな使命感を持って仕事に励んだり、たくさんの人を導くリーダーも出てきました。
今までは、学歴や職業、生まれ持った家柄でカリスマ性を発揮していた人が多くいたと思います。
しかし、ネットの普及と共に、そんなことは関係なく、誰でも思いのままに発信出来るようになりました。
それに伴い、見ている側も自由に選択できるようになったことで、たくさんの人が使命感を持ったり、人を導いたり、注目を集めることもできるようになったと思います。
以前『ブログを始めて1年後も続けられている人は2%』という文章を目にしました。
100人がブログを同時に始めても、1年後には2人しか続けられていないということです。
ですから、もしかしたら、たった2人の投稿を見て、98人の人が、
『あぁ、あんな生活が出来てうらやましい』とか
『カリスマ性があってかっこいいな』とか
『自分は全然出来ていないな』と思ったりしてしまっているかもしれません。
しかし、98人はそういう生活をしていませんので、自分だけ出来ていないということではないでしょう。
かくいう私も、98人のうちの1人で、経済のこともお金のことも、政治もわからないし、人を導いたり助けることも出来ない。
それどころか、なにも長続きしなくてしてもらうばかりで、自分のお世話すらもさほどできていません。
これが私の使命ですって言えるものが何もなくて、できるのは唯一、部屋の掃除だけです。
ですので、
『こういうことをして人を助けたいんだ』とか、
『これで社会を良くしたいと思っている』という、
熱い思いを持った人が、時々とてもうらやましくなったりします。
私には何もないなと思ってしまうんですよね。
昔は、私にも何かそういうものがあるのではないかと思っていて、霊的使命とか生まれてきた意味を探していました。
ですから、その使命も果たせずに、私は毎日一体何をしているんだろうかとか、焦りや無力感に苛まれていたのです。
だから、無理矢理人を助けようとしたり、自己重要感を高めるために、頼まれてもいないのにお世話を焼こうとしたり、感謝されることをどこかで欲しがっていたこともあると思います。
しかし、そんなことは実は必要なかったと最近は思います。
使命というのは、何かをしたからとか、誰かに影響を与えたからということで果たしているわけではないと思うのです。
もしも、使命の本来の役割がそういうものだったら、私たちはいつも人や社会の役に立たないといけません。
例えばケガや病気、年を取って人のお世話にならなければいけなくなった時、使命を果たせていないじゃないかって思われるでしょう。
今はそういう風潮も強いような気がします。
社会貢献とか、何かに影響を与えることこそが素晴らしく、そうではない人に厳しい世の中は辛いでしょう。
なぜなら、人間だれしも、いつどこで人のお世話してもらう側になるかはわからないからです。
ですから使命とは、何か大きなことを成すことでもなく、
『命を授かった』
ということではないかと思っています。
使命とは文字通り、命を使うと書きます。
命を使って何かをしなくても、
『命を授かった』
これこそが使命の本来の意味で、長い短いもどんな生き方だったかも関係ない。
命を授かったこと、それが命を使ったということではないでしょうか。
私達は、いつも人間の小さな頭とそれぞれの固定観念で、物事を決めつけたり、ジャッジしています。
長生きするのが良いと思っている人は、死ぬのが怖いからかもしれませんし、健康に執着する人は、病気の不安を抱えている人かもしれません。
お金が好きな人は、自分に自信がない人かもしれない。
こうするのが良い、と思っていても本当にそれが良いかどうかはわからないこともあります。
何が正解で何が間違っているかなんて誰にも分らないし、というかそんなもの自体がないのかもしれません。
ですから、その生き方がどうとか、寿命の長さも関係なくて、どんな生き物でも、命を授かったこと、それがすでに使命を果たしているということではないかと思うのです。
ですから、私は今日何もしなくても堂々とこういいます。
『私は与えられた使命を果たしました』と。
きりっとした顔で(笑)
いかがでしょうか。
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