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空間を愛する

人口密集地から少し離れたり、神社仏閣に足を踏み入れた途端、なんだか空気が変わったような感覚になった経験があるでしょうか。

自然の多い場所や静かなところ、機械の音がしないところは、ずいぶんと心地の良い空間だなと感じることがあります。

日常生活の中で、人工的なものに囲まれ、機械的な音が響き、自然から離れた場所に常にいると、そこから一歩離れた瞬間に、空間による際立った癒しを一気に感じられることでしょう。

一般的に、パワースポットと呼ばれる場所に人が行きたがるのは、そのせいかもしれません。

普通に考えたら、壁の内側も外側も特に空気の違いはありません。

それなのに、壁があるないに関わらず、ある境界線を越えた途端にまるで別世界のようになるのは一体何なのでしょう。

先日、お風呂の掃除をしている時に、私はどうしてこんなにも掃除がしたいのかなと考えていました。

部屋と部屋にあるものを大切に扱いたい気持ちもあるのですが、その時に、
『私は空間を掃除しているのだ』と感じました。

そして、同時にこの空間をとても愛しているのだとも思ったのです。

空間と言っても、前述の通り、壁があってもないようなものです。

いくらこれが私の居住空間だと言い張っても、空気が完全の遮断されることはありませんから、ここからが私の境界線です、というものもありません。

また、勝手に人の家に入ってはいけないというのは、あくまで人間レベルの話であって、他の生物にまでその権限は伝わりません。

身体であっても、量子力学の考えでみたとして、たくさんの素粒子が人間の身体という枠組みを形作っているだけでしたら、粒と粒の間には空間があるでしょう。

そう考えると、周囲の物や人と私との間に、完全な境界線などありえないのかもしれません。

ですが、日常の生活にはさまざまな境界線があります。
一人ひとりはもちろん、家族、学校、職場、土地や国、空や海に至ってもです。

わかりやすく境界線があることによって、無用な争いを避けることが出来たり、そこの属する意識、相手の境界内を尊重することに繋がるからです。

ですから、誰にでもわかりやすい境界線は必要でしょう。
ただ、その境界線自体にはあまり意味がないもののような気がします。

というのも、実は境界線などあるようでないのだ、とわかれば、自分勝手な生き方はできなくなるからです。

自分『だけ』が良ければ、私だけ得をすればいい、という考え方があるときに、そこには多くの問題をはらんでいます。

自分『だけ』が良くて、得をして、あとの人は損をしても平気だ、という考え方があれば、その考えが境界線を通り抜けて外に向かっていき、それが波紋のように広がるからです。

広がった波紋は必ず、自らのもとに戻ってきますので、壁という実体のないものをすり抜けて、結局発したものそのものが元に戻ってくるのです。

おそらく、その時に境界線があると考えていれば、防ぐことが出来たりすると思うかもしれませんが、それはあり得ないでしょう。

ですから、その境界線を悠々とすり抜けてしまうということを知り、発する思いに気を付けたほうがいいのではないでしょうか。

今目の前の環境をどのように受け取るかはそれぞれですが、良くも悪くも私たちは、自らが発したものをそのまま受け取ることしかできず、この瞬間をそのまま見ることしかできません。

愛を受け取りたいと思うなら、愛を発しないと受け取ることはできないし、与えてもらうことを望むなら、自らが与える人になるしかないのでしょう。

空間を愛するということは、その思いが外に伝わり、そのままのものが返ってくるのをを知ることです。

それに気が付いた人から、得たいものを得られる人生になるかもしれません。

境界線に惑わされずに、本質を見抜くことが出来れば、生き方は至ってシンプルでいいということに気が付くでしょう。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!

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