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能力

以前知り合いに、いわゆるスピリチュアルな能力を自分は持っていると言っている人がいました。

私にはそのような特殊能力はありませんから、へぇーそんなんだ、ぐらいな気持ちでいました。

今は、スピリチュアルな話も市民権を得てきて、目に見えないものの話を堂々としても良いし、そのような能力を持っていることを、包み隠さず話してもよい時代になってきたと思います。

むしろ、その能力によって、多くの人を必要な道へ導く仕事をしている人もいるでしょう。

私はそこまで彼女の言葉に興味がなかったので、『私の前世は何?』とか聞いたことはなく、全くスピリチュアルな話はせずに、ただの友人の一人として関わっていました。

しかし、
『あなたの前世はこのようなもので、その時に出会っている』とか、
『あの人とは付き合ってはいけない』とか、
『あの人はあなたに対してこう思っている』といった感じで、

こちらが全く質問してはいないのに、どこからか見えたり聞こえるんであろうスピリチュアルな話を言ってこられて、話すのが次第に辛くなって何となく離れてしまいました。

人間も動物ですから、根元の部分でつながりがあるとすれば、私にも第六感とか、虫の知らせみたいな感じで、何かしらはあると思います。

ただ、私に『見えます』とか『聞こえます』みたいな自覚はないですし、もし感じていても、そこまで気にしていなかったりしているでしょう。

ですから、彼女が言っていることが果たして正しいのかどうかもわからずに、言われたことを答え合わせもできないまま、鵜呑みにもできなかったのです。

とはいえ私自身も、決して目に見えることばかりを大切にしているわけではありません。
心とか、思いの力の強さを感じているからです。

ただ、それはあくまで私がどう感じて、どう思っているかを大切にしているだけであって、周りがどうこう言うことではないかなと思います。

例えば、本当にスピリチュアルな能力があっても、その人を通じて話すときに、その人のフィルターを通っています。

もしかしたら話す人の固定観念や記憶や経験とか、何かしらに基づいた意見も多少は含まれているかもしれません。

例えば、何かに関する注意喚起を感じた時に、人を救いたいからその情報を発信するという愛の思いからか、もしくは、発信者自身に破滅願望のようなものがあり、それに基づいた発信なのかでもずいぶん変わってきます。

ですから、純粋に『私がどう思ったか』『私はどのように感じたか』『私はどうしたいのか』を基準に、周りの意見は参考程度に聞くぐらいでいいのかなと思った関係性でした。

ただとても不思議だったのは、それだけ能力があっても、自分の事はわからないらしく、なぜか占いや天然石に頼って一喜一憂していたり、いつも家族が不仲らしく、また部屋のゴミを片付けられないと言っていました。

本人はいつも、これだけ豪華なことをしたとか、たくさんの人から愛されているとは言っておられました。

一方の私は、豪華とは無縁の生活で、彼女のように波風が立たない生活というか、家族もいつも特に変わりなく、仕事も。
また、自慢できることも誇れる能力も特別なこともないです。

むしろ何もないこと、それが私は幸せだと感じてはいますが、人それぞれですから、もしかしたら彼女から見たら、私が幸せな人とは見えていなかったのかもしれません。

今はいろんな情報をよく知っているとか、そのような能力があったりすれば、うらやましく思ったり、自分もその特別な力が欲しいと思う人もいるかでしょう。

ですが、そういう力があっても、果たして幸せかどうかはわからないなと思うのです。

本当の幸せとは、やっぱり自分が決めることだから、相手がどんなに能力を持っていたり、先を見通す力があっても、
『私はこう思う』とか、
『私はこうしたい』という、
自分の素直な気持ちの方を大切にすればいいだろうなと思っています。
幸せの尺度に、能力は関係ないのでしょうね。

みなさんはいかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!





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