見出し画像

「人を裁くな」の本当の意味

はじめに

「人を裁くな」そう聖書に書いてあります。

これはどういう意味でしょうか。

「あなたのしているそれは罪ですよ」と言ってはならないということでしょうか。

だとしたら、バプテスマのヨハネや、イエス様の言動は、これと大きく異なることになります。

今、この言葉の本当の意味を、聖書から確認してみましょう。

罪を指摘してはならない?

マタイの福音書
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。

まず覚えてください。
間違った解釈の多くは、聖句を切り取ることから生まれるのです。

ここだけを切り取るなら、「他人を裁かない人は、神の裁きを免れる」というふうに見えなくもありません。
すなわち、「殺してもよい、姦淫かんいんしてもよい」と教える人は、けっして裁かれないという、偽りの教えさえ可能になるのです。

もちろん、このことは聖書によって完璧に否定されます。

マタイの福音書
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

今度は、切り取らずに、聖句全体を見てみましょう。

マタイの福音書
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう

結局のところ、この聖句は、兄弟の罪を取りける方法について教えているのです。
それにはまず、自分から罪を取り除くことが先決だと教えているのです。

「人を裁くのではなく、まず自分を吟味せよ。そうすれば、裁かれることはない。なぜなら、あなたも同じ裁きを受けるのだから。そうして初めて、兄弟を罪から救うことができるのだ」そう教えているのです。

国語の問題であれば、これを間違うことはないと思います。
ところが、聖書の問題となると、間違ってしまうのはなぜでしょうか。

罪を指摘しなさい

私たちを惑わすのは、人の教え、神学です。
今、聞いてきた教えを手放して、幼子のように聖書を確認してみましょう。

マタイの福音書
18:15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

エペソ人への手紙
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。

ヨハネの福音書
7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

聖書は、一貫して、罪を指摘しなさいと教えているのがわかるはずです。

これらの真理を私たちから引き離すのは、人の教えです。
悲しいことですが、教会で語られている説教さえ、私たちを聖書から引き離してしまうことがあるのです。

裁くとは何か、よく吟味する

聖句の一部だけを切り取るなら、偽りの教えが生まれてしまいます。
大切なのは、何が教えられているのかを、聖書全体から正しく判断することです。

ヨハネの福音書
12:47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

ヨハネの福音書
9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

一見、矛盾しているように感じられますが、そうではありません。

前者の裁きとは、来たるべき御怒みいかのことを指しており、今はそこから救い出すために来たのだと教えているのです。

後者の裁きとは、分離のことを指しており、人々がふるい分けられることを指しているのです。

このように、「裁く」という言葉には、「分離」「ふるい分け」の意味があることを理解するなら、次のような聖句もわかるようになるでしょう。

ヨハネの福音書
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

罪を教えることの大切さ

人が罪人であることを教えないでは、福音を伝えることはできません。

まず、罪とは何かを知ってください。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

罪とは、律法に違反することです。
この律法とは、神の律法である十戒じっかいのことです。

次に、罪の結果を知ってください。

ローマ人への手紙
2:12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。

律法を知っていようといまいと、律法に違反する人は滅びます
だからこそ、律法を教え、罪を指摘する必要があるのです。

罪を離れるように語らないなら、その責任は、語らなかった人に問われると聖書は教えます。

エゼキエル書
33:8 わたしが悪人に向かって、悪人よ、あなたは必ず死ぬと言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を、あなたの手に求める。
33:9 しかしあなたが悪人に、その道を離れるように戒めても、その悪人がその道を離れないなら、彼は自分の罪によって死ぬ。しかしあなたの命は救われる。

このように、私たちは人を戒め、罪から離れるように語る責任があります。

けれど、注意してください。
罪を指摘するとき、けっしてあわれみの心を忘れてはいけません。

私たちの目的は、断じて、マウントを取ることではないのです。
そのような心が少しでもあるなら、永遠の命を失うのは、あなたのほうです。

マタイの福音書
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

罪を指摘することの目的が、悪を成敗するためであってはなりません。
その目的はあくまでも、愛する兄弟姉妹を、しゅのもとへ帰らせるためです。

ですから、それが相手にとって受け入れやすい伝え方かどうか、極力注意する必要があります。

ガラテヤ人への手紙
6:1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。

兄弟を蔑んだり、憎しみを持って指摘するなら、
それは人殺しです。(第一ヨハネ3:15)

このような人は、罪に定められ、弁解の余地はありません。

ローマ人への手紙
2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身をに定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。

おわりに

「人を裁くな」この言葉の本当の意味を、ご理解いただけたでしょうか。

その意味は、「他人よりもまず、自分を吟味せよ」という意味です。
けっして、罪を指摘してはいけないということではありません。

この意味を取り違えたために、罪を指摘しなくなった教会がたくさんあります。
見かけは温厚に見えるかもしれませんが、それは兄弟を見捨てる冷酷な教会です。

皆さんの中には、(かつての私と同じように)律法という言葉を聞くたび、うるさく感じる人もいるでしょう。

しかし、間違ってはいけません。
多くのクリスチャンが、壮絶な勘違いをしています。

律法ができたから、罪が制定されたのではありません。
律法以前から罪はあり、それを教えるために、律法が与えられたのです。

ローマ人への手紙
5:13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。

律法が与えられたからこそ、私たちは罪を知り、罪から離れられるのです。
これに感謝しない理由があるでしょうか。

罪を教えてくれる教会は、本当の愛を持った教会です。
反対に、律法を捨てた教会に、愛はありません。

人を悔い改めに導く、本当の教えとは何でしょうか。

今、間違った教えをすべて捨て去って、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)

こちらの記事も参考にどうぞ。