エレン・G・ホワイトについて
はじめに
聖書だけが、唯一間違いのない、権威ある言葉である。
このことに、多くのクリスチャンは同意してくださることでしょう。
しかし、そうでない人たちもいます。
末日聖徒イエス・キリスト教会や、セブンスデー・アドベンチスト教会の人たちがそうです。
彼らは、それぞれに預言者が書いたとされる本を持っており、それを誤りのない神からの言葉として信じています。
このことについて、私はずっと触れるつもりはありませんでした。
しかし、寝ても覚めても、これについて言及せよとの強い思いが与えられるのです。
それで私は書くことにしました。
私自身は取るに足りない者ですが、もしかしたら主が何かを伝えたいのかもしれないと思って、寛容な心で聞いてください。
エレン・G・ホワイトの扱われ方
セブンスデー・アドベンチスト教会の人たちは、エレン・G・ホワイトという19世紀の女性を、預言者と認定しています。
彼女の書いた数々の印刷物は「証の書」と呼ばれ、預言者による誤りなき言葉として扱われています。
これについて、この教団のある牧師は、次のように言っています。
「神から選ばれた真の預言者の語る言葉は、聖書の教えと全く一致する」
実際、教団の長老がエレン・G・ホワイトの著書をすべて吟味した結果、聖書と完全に一致するという結論に至ったそうです。
また、この牧師自身、彼女の著書を長年繰り返し読んできて、聖書と食い違うことは一度たりとも見つけたことがなかったと言っています。
そしてこうも言っていました。
「もし皆さんが読んでいて、これは聖書と違うんじゃないかというものを発見したら、ぜひご一報いただきたい」と。
これが内部から見たエレン・G・ホワイトの姿です。
では、外部から見た場合はどうでしょうか。
外部から見たエレン・G・ホワイト
エレン・G・ホワイトの著書は、カトリックの影響をことごとく排除しているので、他の教団の神学書よりも、聖書の教えに忠実な部分が多くあります。
しかし、そのすべてが聖書と一致するかと言えば、私はそうは思いません。
たとえば、ペテロが水の上を歩いたという有名な話について見てみましょう。
主に呼ばれて水の上を歩いたペテロですが、途中で溺れかけてしまいます。
その原因について、証の書はどう教えているでしょうか。
「自己満足のうちに船の中の仲間たちのほうをちらっと振り返った」そう書かれています。
しかし、聖書にそんなことは書かれていません。
これが聖書の教えです。
また、岩地の家と砂地の家に関する有名な話についても見てみましょう。
二人の人が家を建てました。一人は岩の上に。もう一人は砂の上に。
雨が降ったとき、岩の上に建てられた家は大丈夫でしたが、砂の上に建てられた家は倒れてしまいました。
これについて、証の書はどう教えているでしょうか。
「自分に頼っている者は、砂の上に築いているのである」そう書かれています。
実際、教団の動画を確認すると、砂地の家について「自分に頼るのではなく、神様に頼りましょう」と教えています。
一方、聖書の教えはどうでしょうか。
二人の違いは「行い」です。
行いがあるなら、それは岩を土台としており、行いがないなら、それは砂を土台としている。
これがイエス様の教えではないでしょうか。
それなのに、教団の信徒全員が、エレンホワイトのせいで、聖書とは異なった解釈をしているのです。
こんなことでいいのでしょうか。
本当のへりくだり
証の書を読む方々に、聞いてほしいことがあります。
どうか、冷静に判断していただきたいのです。
皆さんは、証の書は聖書にまさるものではないと言っていたはずです。
聖書を「大きい光」、証の書を「小さな光」と呼んでいたはずです。
それなのにどうでしょう。
いつの間にか、聖書と証の書が食い違う場合、証の書を優先するようになってはいないでしょうか。
それどころか、食い違っていることさえ見えなくなっているのではないでしょうか。
ただの「参考書」だったものが、いつの間にか「預言書」に昇格し、それがいつしか「教典」になろうとしているのではないでしょうか。
このことは、外部の人が指摘する以外に、気づく方法はないと感じました。
それでお伝えしているのです。
本当のへりくだりとは何でしょう。皆さんはそれを教え、求めていたはずです。
それなら今、神様の前に本当にへりくだるときが来ているのではないでしょうか。
皆さんはそれができる方々です。
どうか、今一度、幼子のように聖書に立ち返ってください。
手放すべきもの
私たちクリスチャンは皆、神様の御前に手放すべきものを持っています。
セブンスデー・アドベンチストの方々へお願いです。
皆さんが外部の教会に対して、日曜礼拝を手放す必要を感じているように、私も皆さんに対して、エレン・G・ホワイトを手放す必要を感じています。
不快に思われるかもしれませんが、どうか寛容な心で聞いてください。
私は、セブンスデー・アドベンチスト教会の中に、ほかのどの教団にも見られないほどの「傲慢さ」を感じます。
これについては、おそらく多くの方が同意してくださることでしょう。
その傲慢さとは、
「自分たちだけが真理を知っている」
「そこに間違いは一切ない」
という態度です。
口ではそう言っていなくとも、態度で感じるのです。
それもそのはず。預言者が書いたという本を持っており、同調する信徒が2000万人以上もいるのですから。
しかし、それでいいのでしょうか。
これは内部にいては気づくことのできない姿だと思います。
だからこそ、私がこれを言うのです。とても言いにくいことですが、嫌われる覚悟でお伝えします。
どうか、教団の持つ「傲慢さ」に気づいてください。
皆さんは、聖書を研究していると言いながら、じつはとても怠惰な状態にあります。
エレンホワイトの教えに頼り切りで、自分では真理を探し求めることをしていません。
同調する大勢の仲間と一緒に、自己満足のぬるま湯に浸かっているに過ぎないのです。
今、初代教会の持っていた真理への渇望を思い出してください。
本当の信仰者の姿を思い出してください。
イエスのあかし
「イエスのあかし」を持つ者。
これを自分たちのことだとセブンスデー・アドベンチスト教会の人々は主張します。
その理由は、黙示録の別の箇所に「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である(19:10)」とあるので、預言者エレンホワイトを信じる自分たちだけが、「イエスのあかし」を持っているというのです。
しかし、どうか冷静になってみてください。
自分自身、とてつもない傲慢さをここに感じないでしょうか。
本当に「イエスのあかし」とは、エレンホワイトのことなのでしょうか。
神の言葉とエレンホワイトのゆえに、パトモス島に送られた──
これが本当に素直な読み方でしょうか。
もはや「こじつけて読むこと」が習慣になってはいないでしょうか。
傲慢さの源泉
セブンスデー・アドベンチストの成り立ちとして、再臨待望運動があります。
教団の持つ「間違いを認められない傲慢さ」は、ここから来ているように私は思います。
19世紀、ある学者たちによって、再臨の日が割り出されました。
それはダニエル書の七十週の預言と、二千三百の夕と朝の預言が、同じ年を起点とするという考えのもと、算出されたものです。
始め、1843年に再臨があるとして大運動が起こりました。
しかし、再臨はありませんでした。
次に、1844年に再臨があるとして再び大運動が起こりましたが、やはり再臨はありませんでした。
すると彼らはこう言ったのです。
「日時はあっていたものの、場所が間違っていた」
すなわち、1844年10月22日、主は計算通りに天の聖所へ来て、そこで調査審判が始まったというのです。
その証拠として、彼らは次の聖句を持ち出します。
この「幻」という言葉が、それぞれ違う単語で書かれているので、片や天の聖所に関する預言、片や終わりに関する預言だというのです。
しかし、それが素直な読み方でしょうか。
この書き方は、聖書によく見られる対句法(パラレリズム)です。このような書き方は、聖書の随所に見られるはずです。
そしてパラレリズムが意味することは、むしろその二つが「同じである」ということです。
それなのに、どうしてこの箇所だけは別々のことだと言い張るのでしょうか。
どうか、冷静になってみてください。
いつの間にか、聖書を読みたいように読んではいませんか?
そもそも、二千三百の夕と朝の預言を、BC457年から数える根拠も薄いですし、「夕と朝」を1年とする根拠も薄いのです。
それに、目に見えない「1844年10月22日」を、神様が正確に人々に伝える必要が、一体どこにあるのでしょうか。
「間違ってました」この一言が言えないせいで、教団は今も苦しんでいるのではないでしょうか。
こう言うと、「そうではない理由」を探し始める人が出るでしょう。
しかしそれは、「安息日を守らなくてよい理由」を人々が探し回る姿とまったく同じではありませんか。
「自分たちだけは特別なので、手放すべきものなど何もない」そう思いますか?
誰もがそう思うのです。
しかし、そうであってはいけないと私は思います。
おわりに
「一つでも間違いがあるなら、それは預言者ではない」これは教団の牧師が言っていたことです。
エレンホワイト自身、1904年10月2日、バトルクリーク教会で、会衆を前に次のように発言しています。
「私は昨日お話ししたように、預言者ではありません。私は指導者であると主張しません。私は単にメッセンジャーに過ぎません──」
この発言は、正しい発言でしょうか。
正しいなら、彼女は預言者ではないし、正しくないことを言ったなら、やはり預言者ではないのです。
とはいえ、「ああ、そうだったのですね」と言って、簡単にこれを手放せるとは思いません。
それは難しいことだと思います。多くの人は、見なかったことにしたり、理由をこじつけて、耳を塞ぐことになるでしょう。
しかし、違和感を感じていた人もいるはずです。
その違和感を、どうか無視しないでください。
まずは主に祈ってみませんか?
たとえ手放せなくても、「できません」「手放したくありません」と祈ってみませんか?
私自身、そうやってたくさんのものを手放してきましたし、今も、手放すべきものがありはしないかと、日々、自分を吟味しています。
どうか、主に頼ってみてください。
このブログを信じる必要はありません。
このブログにも、たくさんの間違いがあることでしょう。どんな神学書もそうです。
だからこそ、聖書を信じるのです。
私たちには聖書だけで十分なはずです。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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