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普遍的題材を内包しうる即興音楽

人生を通して追求してきたと思っているテーマでもあり、折に触れて言及している芸術分野における《普遍的題材》ということについて、即興音楽との関わりという文脈で一度は書いてみないといけないと思い続けてきたが、実際に即興演奏のライブを控えたこのタイミングで若干それに触れて見るのは、きっとバカバカしいことではないだろう。

漠然と前提的な説明もなしに「普遍的題材」などとぶち上げているように見えるかもしれないが、これは、人類が共通して抱えている宿命に関わるものであって、そうした題材以外に人間が時間を取ることも考えることも無意味だと思えるほどに重要な内容を含む論件と筆者が考えるものである。それは人類の未来に関わることであり、また歴史的過去にも関わることである。過去に起きた、人類のその後の運命に関わるような大きな出来事の内容を知ることは、未来を占うことでもある。また未来を想像できる力は太古の過去を洞察する力に通じる。過去に起きたことは未来にも起きる。また現在起きていることは過去にも起きたことであるし、未来にも繰り返されることである。

こうした歴史的な反復、しかも普段口癖のように人口に膾炙するような意味での「歴史は繰り返す」というものとは、根本的に意味も規模も異なった種類としての〈歴史の反復性・循環性〉について知ることが、われわれの未来に待ち構えていることを知ることにつながる。謂わば、このような根拠を示すのが困難な内容の課題に関する知的固執が自分を突き動かしているのだ。それが私が即興音楽に血道をあげる理由だ。

そのようなことが音楽に、とりわけ即興演奏にどのような関連があるのか、と疑問に持たれる向きもあるだろうと想像するが、よくできた音楽というものが、始まりがあって終わりがある人生や文明、そして人類史と相似形になっていること(また西洋音楽の発展史が人類史と似た様相を呈していること)などと関連のある話をしているのである。音楽がわれわれの心を打つとき、それはわれわれの人生や文明をまるで神のような鳥瞰的視野で「追体験」しているからなのだ、という確かなビジョンがある。それはとりわけよく練られたマーラーのような成功した交響楽を通して、より確かに得られる感覚であるが、上手に即興的に演じられる音楽にも似たような効果があることも確かなのである。

個人や人類の歴史というものは、無人島に独りで暮らしているのでない限り、個々人が完全にソロで演じ切り、また描き切れるものでもなく、人生を彩るドラマは、非常に多くの同時代人との関わりの中で演じられるアンサンブルのようなものであり、また実人生や文明の営みがそうであるように、われわれが頭で考え抜いたものだけでなく、その場の即興的な一瞬一瞬の判断や行動によって作り上げられて行くものである。そして複雑に編み上げられて行く即興的なフレーズや力強く穿たれる脈動によって、人生のような、「一度限りの音楽」が織り上げられてゆくのである。それは他者に憧れたり、愛したり憎んだり、反目したり協力したりし合いながら出来上がってゆくものである。それは人生であり文明活動であろうが、それは音楽の内容そのものでもある。対立と融和などは音楽的クリシェである。それは聖なるものの顕現なのである。

即興音楽を楽しめることは、嘘のないドラマに立ち会ってその証人になることであり、また他者の人生を自分のことのように仮想的に「生きる」ことでもある。そんな即興音楽という、音楽に期待できる素晴らしい効能の側面を、即興音楽を愛好する人々は知っているのだと確信している。もしあなたが未体験なら、この珍しい組み合わせの集団即興音楽の作り上げる幻のような楼閣建設のプロセスを見守り、出来上がった作品に立ち会っていただけると幸いなのである。

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