普遍的題材を扱う音楽こそが《絶対音楽》であることについて

理解するのに難しいものがあるのは素敵なこと、とは書いたばかりだが、クイズではないのでより難しいものを作ろうと思うのは、また別の話だ。あなたが音楽家であるならば、このことは真正面から考える意味があるだろう。

伝えたいテーマが複雑であれば、伝えるプロセスや方法が複雑になるのは当然のことであるが、単純なテーマを複雑に伝える意味はない。複雑さは目的ではなく、複雑な内容を伝えるという目的に伴ってしまう結果でしかない。では伝えたい、伝えるべき内容とは何だろう? 大して伝えたいこともないのに、そこに伝えるべき何か重要なものがあるかのように振舞っているだけではないのか、と多くの「芸術家のように振る舞う人々」に対して疑わしく思うことがある。

人類が後世に伝える価値のあることとは、人類にとって普遍性のある問題でなければならない。そして人類の運命に関わること以上に人類にとって重要な問題はない。よって、それ以外の内容について、人の大事な時間を取らせることはナンセンスなことなのだ。しかし、現代の芸術の多くがそうしたテーマに向き合うこともせずに、大切な自分の時間と他人の時間を奪ってやまない。だが今日、芸術は豊かな人々の退屈を慰める暇つぶしのような役割しか果たしておらず、緊急に解決しなければならない課題へのヒントが芸術の中にあるなどと思われていない。人々の芸術に期待する関心ごとが、美しいもの、快のあるものに惹かれるのは致し方ないのであるが、快美であるだけでは芸術の名には値しない。一見して美麗が秀でているものや、心が奪われるほど精緻で複雑なものであっても、そこには人類普遍の課題を内容としないものには、本来の価値はない。その意味では、古くから伝わる古典の類であったとしても無価値なものは多い。

環境音楽の類は、家具のようにそこにあればいいのかもしれないが、普遍性のあるものではない。むしろ壁紙の模様の方が普遍的なテーマを伝えている可能性が高い。カーペットやキリムの模様は言うに及ばずである。こうした芸術は名状しがたいものであると同時に言葉そのものである。

その意味での〈言葉〉を芸術が失って堕落したのはいつ頃のことであろうか? ルノアールのような無内容な絵画やショパンのような音楽が芸術を僭称した頃であろうか? モネのような美術家が快美だけを追求し始めてからであろうか? それらは芸術の堕落を決定づけたであろうが、そうした芸術の内容の破壊が起きたのは、それよりずっと遡った遥か昔だ。おそらく芸術の堕落の最初は、ヒトの肉体の美を視覚的に模倣し始めたルネサンスの頃にはすでに始まっていたし、仏教美術に影響を与えたと言われるギリシア発のヘレニズムの美術も堕落の一種と捉えられることが可能だ。

すなわち、この論は、これほどかように大多数が美術であると認定するようなものも惜しみなく否定している時点で、偏った美術観(芸術論)であることは認めても良いのであるが、少なくとも、古典・古代のものであっても、それが本物の芸術であるかどうか、浅薄に「芸術的」であるだけの紛いものであるかどうかの区別をわれわれはつけられる見識と洞察とがなければならない。

音楽の世界では具体的なテーマ(標題)を持たないものを絶対音楽と称し、テーマ性を保持するものを標題音楽と呼ぶ慣習があるが、普遍的題材を扱う(真の)音楽に対する呼称が存在しない。題材はあっても普遍性のないものがほとんどであるし、標題があるからと言って、普遍的内容を伝えないわけでもない。つまり絶対音楽という呼称も標題音楽という呼称も、作品の本質的性質を伝えるものではなく、音楽という芸術に潜む本質を捉え損なっているのである。

マーラーの音楽は標題があってもなくてもその本質は変わらない。だが標題が付いていることで内容が限定されて伝わる危険性があると気付いたマーラーは、付けた標題を後からすべて外す決断をしたのだ。それにより、マーラーの交響楽の普遍性が確定した。ところが標題が外されたことは標題の不在を意味しない。もっと言えばマーラーの交響曲からことごとく標題は外されたが、曲の順番は残った。実は《順番》というものほど普遍的な記号は存在せず、また普遍的テーマをこれほどの正確さで伝えられるものも存在せず、それこそが普遍的題材の真骨頂なのである。この順番という絶対的な概念自体が維持される限り、マーラーの音楽的遺産は損なわれることなく伝えられるであろう。マーラー作品に限らず、《順番》から敷衍される「数字」という記号の持つ題材的な普遍性を理解することは、ほかのありとあらゆる芸術の謎を解く鍵である。げに、数字は外部の何かを指し示すと同時に、それ自体が意味を放射している極めて得意な記号なのである。

それさえ理解されないほど、この世界の芸術事情は混乱している。数字には単純さがあり、その単純さが多くの複雑な内容を包含しうるのだ(とりわけ10未満の自然数には潔いほどの単純さがある)。聖書がその典型的事例である。数字の謎がとけた人間は、その瞬間からその数字を使って、受け取った伝説的知識を伝達し始める。数字はまた歴史そのものである。そして歴史の真相の解明以上に重要な論件を人類は得たことがない。

数秘学とは、この単純明快な普遍的題材に不要な混乱をもたらした元凶である。数字の秘密(数秘)は、徒らに複雑化する必要はなく、最も単純な始源の様相を保持しているべきなのである。それは他のさらに複雑な内容を伝えるための、誰にでも解ける謎の形を留めておくべきものだからであり、数字の操作とは、その鍵を別の鍵の掛かった不要に豪奢な箱に隠してしまう愚劣な行いなのである。人々はその豪奢な箱の無駄な飾りに心を奪われて遠回りを強いられることになる。つまり伝統的な数秘学は真剣な探求者を欺く最初の地雷である。

数秘学の誤謬性・逸脱性は、それ自体に人を魅了する複雑さにあるのであるが、その恣意的な数字の操作により、どのような都合の良い結論も導き出すことが可能なまやかしと化して久しい。旧約において占いや呪いが憎むべきものであると明示されていることを思い出すがよい。所謂、ゲマトリアと呼ばれる文字(アルファベット)を数字に置き換えるというような「テクニック」も、その利用者を容易に過誤に導きうる落とし穴なのである。数字、とりわけ1から20前後の自然数というのは、そのまま操作を行わず、数字を数字とだけ捉えておくだけに止めるのが最も賢明である。その単純さは7の倍数で循環するという最重要の数的機能だけを後世に伝える。その単純さの中に潜む応用範囲の広さこそが、さまざまな歴史の謎を解く鍵なのだ。その鍵は例えば、聖書中、最初の「天地創造」の記述の中に出てくるものなのはここで断る必要もない常識であって、その循環する7という数字に、鍵の機能を保有させた。7という数字そのものがアプリオリに聖なるものであるというよりは、このような鍵としての機能を与えられたから聖なる数字として伝わったというのがむしろ正しい。しかし、それを言うなら8も6も聖なる役割を果たしており、7を軸とする数字の体系に於いて聖性を保持していない自然数はひとつもない。1も2も3もどの数字もその根本的なところで七の体系を支える重要な役割を果たす。

数字そのものについて話が外れてしまい、芸術の意味を語る文脈からすっかり逸脱してしまったが、この数字の秘密を理解することは、後に真の芸術がどういうものであるかを理解するのに欠かせないエッセンスである以上、避けて通れない領域なのである。したがって何処かで遅かれ早かれ詳述される必要のある部分なのである。それについてここで多少の言及があったことは、後に無駄になることはあるまい。芸術としての音楽の話に戻ろう。

グルジェフは芸術全般を対象として〈絶対芸術〉という語彙を用いて特殊な芸術、例外的芸術を語ったが、音楽の分野における絶対音楽の「絶対」は全く異なった意味、意図で用いられている。音楽の分野における「絶対」は、「標題すなわち描かれる対象を持つ種類の音楽」の反意語としての意味合いしか持っておらず、抽象的であるべき本来の純音楽を意図して用いられている。しかしこれは混乱でしかない。最初から「無題音楽」とでも呼べばよかったようなものを「絶対」(相対でない)と呼んでしまったのだ。残念ながら音楽史上、断じてグルジェフの語ったような〈絶対芸術〉の意味で「絶対音楽」が定義されている訳ではないのだ。

ここで必要なのは「絶対音楽」という語句の適正な定義への修正・転換なのであろうか? それは試みる価値のあることかもしれないが、グルジェフの語る芸術の絶対性は理解しづらく、音楽の世界で用いられている「絶対音楽」の定義はすでに広く認知され共有され歴史的語句となっている今、訂正することは困難極まりないことであろう。

音楽こそ、《真の芸術》に昇華できる素地を持っているのに芸術的でないもの(人類の運命にかかわらないもの)が乱立し、絶対・普遍の題材を扱うことができる音楽が、全く普遍からかけ離れた個人的課題ばかりを扱い、単に「題材を欠くもの」が「絶対」の名を恣(ほしいまま)にしているのである。音楽は、したがって二つのものを取り返さなければならない。まずは《真の芸術》としての音楽を。そして次に、その名に相応しい(標題の有無などと関係のない)「絶対としての音楽」の意味での《絶対音楽》という名前を取り返さねばならないのだ。

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