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超歴史的秩序/図像解釈/終末論/シンボリズム/ヨーロッパ精神史/J祖型論/Ω祖型論 (…

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超歴史的秩序/図像解釈/終末論/シンボリズム/ヨーロッパ精神史/J祖型論/Ω祖型論 (Theory of the Omega Archetype)/ルネ・ゲノン/エリアーデ/即興音楽/古典音楽/オーボエ・EH奏者/ピアノ http://entee.archivelago.com/

最近の記事

その指揮者は〈何〉を振っているのか

指揮には大きく分けて、2通りのスタイルがある。ひとつめは、目の前のオケを振るスタイル。(オケの経験のない人は、「目の前のオケを振るのは当たり前だろう」と思うかもしれないが、以下に述べるようにそれが当たり前ではない。)ふたつめは、あたまの中で鳴っている音楽をひたすら振るスタイル。ふたつ目の指揮者の場合は、常にオケが指揮を1テンポ遅れで追いかけて行く感じで、最初から最後までちょっとだけ指揮よりも出音が遅い。指揮とオケの音が一致して音楽が進行する類は、「オケを振って」いる結果であっ

    • Ranz des vache(ベルリオーズ「幻想」)を解釈する

      Fellow Orchestraの2024年の定期が終わった(2月12日祝・月)。メインプログラムはベルリオーズの幻想交響曲。自分は2ndオーボエ兼コーラングレパートでこのメインに乗ることとなった。 終わったコンサートの楽曲について、特に自分がどう考えて「そのように演奏した」のか、あれこれ書いても「いまさら」感は否めないかもしれないのだが、むしろ終わったからこそ今思い返して記録しておくのがいいようにも思えるので、あえて書き残しておこう。まずは自分にとって今回最も重い役となっ

      • 入手: Thomas de Hartmann, Op. 51

        先日(2024年3月上旬頃)米国のとある古書店から入手したトマス・ド・ハルトマン Thomas de Hartmann(以下、TdH)のヴァイオリンとピアノのためのソナタ Op. 51のスコアとパート譜だが、自分はこれがほぼ日本国内における唯一のコピーであると想像している。もちろん絶対とは言えないが、おそらくそういうことになると思う。以下、どうしてそのようなことが考えるのかの理由を説明する。 TdHが一連の「グルジェフ作品」における共作者(ピアノ・アレンジャー)としてではな

        • 即興ライブ「煉獄ファンネルへの旅」に寄せて

          未完成な作品が異彩を放つ。そしてその未完が深い意味を宿す。歴史的に「偉大なる未完成」、あるいは偉大なる失敗作なるものがある。それらはしばしばある種のジンクスと結びついて語られる。映像史においては『ドン・キホーテ』を映像作品にしようとすると制作が頓挫するとか、良くても完成まで気の遠くなるような迷走を辿るという話は有名で、古くはオーソン・ウェルズ、やや新しいところではテリー・ギリアムのものがそうであった。 似たようなものとして、ダンテの『神曲』を原案とするコンセプト作品が未完に

        その指揮者は〈何〉を振っているのか

          バーンスタインの初期マーラー・サイクルをついに聴く

          自覚があまり無いのだが、結局、自分はバーンスタインが好きなのかもしれない。家のBernsteinという銘柄のピアノに「レニー」とか名前つけているところにも現れているかもしれない。さて、自分の生まれて初めてのマーラー生体験は、中学生の時に来日したBernstein / New York Philharmonic (NYP)による第1番だった。1979年*であった。もう44年も前の話だが、それでも2楽章を踊るように指揮台の上でぴょんぴょん跳ねながら指揮していた彼の姿が忘れられない

          バーンスタインの初期マーラー・サイクルをついに聴く

          「成長」を拒んだわけではない、チャイコフスキー

          天才とは何だろう。 描くべき対象を獲得している者、描かざるを得ないテーマを持たされている者、そして、それを表現する手腕、技法を持っている者 そう考えると、チャイコフスキーも天才の一人であったと言えるかもしれない。 ベルリオーズの幻想交響曲を演奏することになったため、かなりまとまった数の同曲を渉猟しまくって聴いている。そしてベルリオーズは本当にロマン派の時代の作曲家と言えるのか、という(あまり重要でないが妙に関心のある)課題が自分の中で渦巻いている。だがそれが今回の話の本

          「成長」を拒んだわけではない、チャイコフスキー

          今さらながら、マーラー8番を知る

          正直に書こう。すごいとは思うけど、あまり聴きたい欲求を覚えないマーラーの交響曲は、長いこと第8番(だった)。楽曲の持っている(持たされている)意味や役割は非常に重要で、このピースがマーラーサイクルの「この場所」を埋めなければならないのは分かる。だが、音楽として理解しようと思うと、音や声が飽和し過ぎていて、なかなか曲が構造として見えてこない。たまに思うのは、この曲って、マーラーの頭の中で鳴った音がこの世界で未だかつて具現化していないんじゃないか、と思えてくることさえあった。何か

          今さらながら、マーラー8番を知る

          またもや行われる東京地検による国策捜査

          政治資金収支報告書への不記載やらノルマを超えたパーティー券売上げを懐に入れる「キックバック」などの問題が、大手メディアでもネットメディアでも盛んに語られており、一種の加熱状況を呈している。「政治とカネ」の問題と言えば、大概のリベラル派のジャーナルは正義の側に立って批判を展開することができる。 が、今回、東京地検特捜部がターゲットとしている自民党派閥が、安倍派と二階派と言われ始めていること、そもそもスクープの出所が赤旗であること、東京地検からのリークを大手メディアが鵜呑み的に

          またもや行われる東京地検による国策捜査

          文系/理系の区分をいまだに有効だと考える人々

          文系、理系っていう学問区分が好きだねー、一部の日本人は。特に「文系」を非科学的で「バカだ」と呼びたい向きにとって、この「文系/理系」という区分は実に重要なものみたいだ。「理系」はともかくとして、「文系」って何よ? 文系をきちんと定義できますか? そもそもこんな区分は日本独自のもので、(烏賀陽弘道氏も動画で言っているように)そんな区分が問題になるのは大学受験をする日本の高校生までです。しかもそれはまったく便宜的な区分に過ぎず、世界に目を向ければ何の普遍性もないものです。 「文

          文系/理系の区分をいまだに有効だと考える人々

          entée musical profile (long edition)

          1964年生まれ。5歳時に自由学園の幼稚園部〈幼時生活団〉にてピアノとソルフェージュを開始(ソルフェージュは全くダメでピアノは中の中)。卒園後は現在の「コダーイ音楽教室」につながる、町田市の音楽教室クオレにて故大熊進子にピアノレッスンを受ける。その後教師が次々に変わる中で、最後に高木和美に師事し、現在の即興音楽に繋がる音楽(湯山昭、バルトーク、ドビュッシー、ラフマニノフ、グリークなど)と出会う。 1982年、18歳にして、集団即興バンドArkas' Kophinoを結成、高

          entée musical profile (long edition)

          〈理解〉の対象としての音楽

          音楽に「理解」という言葉を使うのを嫌う向きはどこにでもある。 音楽は理解するものではなくて聴いて感じるものだ、などといういかにも容易に共感を得そうな言説の類だ。だが、膨大なエネルギーと集中を以て書かれた作曲作品は、口を開けていれば入ってくる餌のようなものではなく(耳を閉じていなければ入ってくるようなものではなく)、音楽への情熱的なコミットメントをもって対峙しなければ、それを真に把握・理解することなどできない。 特に音楽作品が一定のムードを伝え、快美を催させるだけの佳作とい

          〈理解〉の対象としての音楽

          普遍的題材を内包しうる即興音楽

          人生を通して追求してきたと思っているテーマでもあり、折に触れて言及している芸術分野における《普遍的題材》ということについて、即興音楽との関わりという文脈で一度は書いてみないといけないと思い続けてきたが、実際に即興演奏のライブを控えたこのタイミングで若干それに触れて見るのは、きっとバカバカしいことではないだろう。 漠然と前提的な説明もなしに「普遍的題材」などとぶち上げているように見えるかもしれないが、これは、人類が共通して抱えている宿命に関わるものであって、そうした題材以外に

          普遍的題材を内包しうる即興音楽

          普遍的題材を扱う音楽こそが《絶対音楽》であることについて

          理解するのに難しいものがあるのは素敵なこと、とは書いたばかりだが、クイズではないのでより難しいものを作ろうと思うのは、また別の話だ。あなたが音楽家であるならば、このことは真正面から考える意味があるだろう。 伝えたいテーマが複雑であれば、伝えるプロセスや方法が複雑になるのは当然のことであるが、単純なテーマを複雑に伝える意味はない。複雑さは目的ではなく、複雑な内容を伝えるという目的に伴ってしまう結果でしかない。では伝えたい、伝えるべき内容とは何だろう? 大して伝えたいこともない

          普遍的題材を扱う音楽こそが《絶対音楽》であることについて

          またしても米国にハメられる日本

          ウクライナは何年もかけて準備してきた米国にハメられて今のような状況になっており、武器消費を行うための米国の代理戦争を戦わされて、国民は散々な目に遭っているのだけど、表向きは「侵略者ロシアに対する抵抗闘争である」ことになっていて、それは大変分かりやすく広く受け入れ易い論法で誠に便利な説明だ。もちろん日本のメディアもその論調が主流である。さて一方、日本で目下起きつつあることと言えば、本質は先制攻撃に通じる道である「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」と称する、分かり切った欺瞞的な言い換

          またしても米国にハメられる日本

          集団が起こす事故の責任とは一体何か、を問う契機となる梨泰院圧死事故

          2022年10月29日深夜に起きた梨泰院(イテウォン)のハロウィン・イブ圧死事故。韓国で起きた事故だから殊更に言うのではない。このようなことはどこでも起きるだろうし、現に日本でも過去に起きている。「原因と結果」という、ある事象に関する生起の仕方の単純な見極めと、社会的人間たちの好きな、いわゆる「責任問題」という人類社会に特有の「犯人探し」や「責任者探し」との間の齟齬に、ある種の不快な既視感を覚えるから書くのである。 梨泰院事故が起きてすぐにテレビ放映で説明されたのが、道を狭

          集団が起こす事故の責任とは一体何か、を問う契機となる梨泰院圧死事故

          人類を救うなら疑似科学の勝利は善か?

          『多様化世界〜生命と技術と政治』を書いたフリーマン・ダイソンは、同著の中でカール・セイガンらの主張した「核の冬」セオリーが擬似科学であると見抜いた、と書いた(奇しくもこれを書いている今日9月12日は「核の冬」理論が発表された日だとラジオが言っていた)。「核の冬」とは、もし全面的な核戦争が起きたら核爆発によって巻き上げられる粉塵によって世界中が暗くなって気候が長期にわたって冬のように変動してしまうだろうという予想で、これは科学の視点からの核兵器の廃絶運動の後押しになるもので、多

          人類を救うなら疑似科学の勝利は善か?