第1217回「物我一体」

『岡田式呼吸静坐法』という本を読んでいると、

「岡田式呼吸静坐法はその静坐の結果が如何なる境界に至るかと云えば、要するに静坐は心身一致の修養法と云うことになる、一歩進めて云えば心も体も共に悠揚たる人になると云うのである、即ち道に合した人になるのである。」

という言葉があります。

更に「物我一体」ということについて説かれています。

「物我一体」とは「物我一如」とも言います。

物我一如とは岩波書店の『仏教辞典』には、

「ものとわれとが一体であること。万物あるいは衆生と自己との間に何の隔てもないこと。

究極・真実の世界における主体と客観との調和・一致を表す一表現。

このような思想は、明確に、東晋の僧肇の「物我同根、是非一気」〔肇論不真空論〕の思想にまで遡(さかのぼ)ることができ、さらには僧肇が拠り所とした『荘子』の「斉物論」の思想とのつながりを見出すことができよう。」

と解説されています。

『岡田式呼吸静坐法』には柏樹老師の説が紹介されています。

恐らく黄檗の高津柏樹老師のことではないかと察します。

「全体物と我と此の二つを互いに分立さして二面対待のものとして居る間は何事も真の妙域に達する事は出来ぬ、即ち物事を向こうに待(たの)むと云う事があっては、真の大道に達する事は出来ぬのである。即ち真修の達人と云う事は出来ぬ、無自性不可得であるから、無限でもあり、無窮でもある。

無自性だから花は花で見え、月は月と見えるのである。

尚森羅万象山河大川も我とする事が出来る。

斯の如き境界に至ったなれば、我を無限大にも出来れば、又無限小にも出来る」

と書かれています。

そこから、実際に物我一体となった例として大相撲の大浪という力士のことが書かれています。

大浪という力士は体格にも恵まれ、力量も抜群だったらしいのですが、惜しいことに、いざという時に臆病になってしまい、特に目上の者には力を発揮できず勝てないという悩みがありました。

小結はもとより大関まで昇進できるほどの実力はあったけれども前頭で止っているということでした。

今の言葉でいえばメンタル面に問題があったということでしょう。

そこで、なんとか大浪が一層強くなる方法がないだろうかと柏樹老師へ相談したのでした。

柏樹老師は、それは容易なことだ、大浪が大勝できる方法を授けようと言いました。

聞いていた大浪は笑いました。

自分が何年も相撲の道で鍛錬してきていながら、今の状態であるのに、禅の道を究めた大和尚でも、相撲のことまで分かるはずがないというのです。

蛇の道は蛇、相撲道のことはお坊さんの知ったことではないというわけです。

しかし、まわりの者達が、柏樹老師は禅門の巨匠であるから、信じてみるようにと言われて従いました。

もっとも大浪ももし本当に勝つ道があるのなら伝授してもらいと思ったのでした。

老師は大浪になんという名前かと聞きました。

大浪だと答えます。

老師は、名ばかり大浪ではいかぬ、真の大浪とならないといけないと言います。

どうしたら大浪となれるのかと問われて、老師は物我一体となる法を教えたのでした。

その時皆寺に泊まっていたので、寺の本堂に行って、仏前の柱に寄りかかって坐禅せよと教えました。

ただ強いて痛い足を折り曲げて坐る必要はない、自分のできる坐り方をすればよいと言いました。

最初から結跏趺坐して背骨を立てるのは無理だから、そのまま出来る坐り方でよいと言ったのです。

そして観念するのです。

いやしくも真の大浪であれば、島でも山でも洗い流す勢いがある、自分のみならず、本堂の柱から鐘から木魚も灯籠も仏像もなにもかも大浪になってしまう、そうしてついには、世界の森羅万象が大浪になってしまうと観念して、更に自分が大浪だという心も忘れてしまって尽天尽地一面の大浪の当体となれと教えたのでした。

言われた通り、大浪は一心不乱に仏前の柱によりかかって坐禅して観念したのでした。

ところがいくら坐って大浪だと思っても、依然として木魚は木魚、仏像はやはり仏像のままです。

どうしても大浪にはなりません。

どうしたら良いか一意専心に工夫しますが大浪になりません。

夜も更けてゆきますが、自分は大浪ですが、木魚はやはり木魚のままです。

これでは骨折り損のくたびれもうけだと思って座を立とうとしたら、賽銭一文が手に触れました。

その一文を見て、たとえわずか一文でも、九厘に足せば一銭になるし、わずか一文でもこれがないと千円にもならない、この自分とてこの一文に劣ってなるものかと、一層奮励して余念に渡らず観念して夜が明けようとして、外で大浪大浪とよぶのでハイと返事をしました、

もう朝になっていました。

大浪大浪と呼んだのは、櫓太鼓の音だったのでした。

それからは不思議にも自分と自分が大きくなったような心地がしました。

その気持ちで土俵にあがると相撲でも大勝利を得たのでした。

一意専心して三昧に入って目に触れるものみな大浪だと観念して物我一体の境地に至ったのだと説かれています。

最近あるアスリートの方が、知人から坐禅をすすめられて、とある名刹で坐禅したらしいのですが、足が痛いだけで棒で叩かれ、何も得られなかったという話を聞きました。

足が太いと無理に足を組むのは難しいのです。

力士だとなおさらです。

柏樹老師は、柱にもたれてもといって指導されたのはさすがだと思いました。

そうして物我一体の心境に至ることが大事であります。

ひとつの公案工夫の方法であります。

岡田式静坐法もその至るところは同じであると説かれていました。

岡田式静坐では大浪とか隻手とかいう問題を持たせるわけではありませんが、ただ静坐して身心の一致を得て、自然を我が物とし、我を自然にするのであるというのです。

坐禅によっても得られるように静坐によってもこの境地を得ることができると説かれています。

形にとらわれて何が本質かを見失ってはなりません。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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