第1219回「バラは一輪でいい」

坂村真民先生に「一字一輪」という詩があります。

一字一輪

字は一字でいい

一字にこもる力を知れ 

花は一輪でいい

一輪にこもる命を知れ

という短い詩であります。

私の好きな詩のひとつです。

字でも、一字を書くのはとても難しいものです。

「花は一輪でいい」、その対極にあるように思うのが、

「百万本のバラ」であります。

私は昭和の終わり頃から、長らく修行僧の暮らしをしてきました。

修行時代は、世間の情報から遮断されて暮らしていました。

もっとも現代の世に生きているのですから、世間のことを知ろうと思えば知ることはできたと思いますが、私には関心がなかったのでした。

ある日、道場のお休みの日に、町に出て本を買いました。

千円の本だったので、千円を財布から出すと、千三十円だと言われて、どうしてか分からなかったのでした。

あの三十円は何なのか、長らく私には不明でした。

あとになって三パーセントの消費税が導入されたということを知ったほどでした。

そんな世間に関心のない者にも、町で流れる歌は耳に入ってきます。

どうも耳に残って忘れられないのが、加藤登紀子さんの「百万本のバラ」という歌でした。

歌にも全く関心がなく、自分で何か聞きたいと思うような歌もありませんでした。

それが何故かこの歌は心に残っています。

軽快なリズムですが、何故か、襤褸の衣をまとい、素足で過ごす修行僧の心に響くものがあったのでした。

それが何故なのか、あれから四十年近く経ってようやく、少しわかりかけた気がしました。

NHKの元エグゼクティブアナウンサーの村上信夫さんが、大人の寺子屋次世代継承塾というのを、毎月湯島の麟祥院で行っています。

おととしの四月から始まって、もう二十六回目になります。

私はなんと第一回のゲストとして招かれたのでした。

先日五月の会には、加藤登紀子さんが登壇なさました。

麟祥院でそのチラシを見て、なんとか行けないだろうかと思うと、どうにか予定も空いていましたので、申し込んで参加してきました。

加藤登紀子さんという、一つの時代を生きた人の話を聞いておきたい、その姿を実際に見ておきたいと思ったのでした。

いつも静かな麟祥院の本堂も、満席でした。

受付を済ませて、本堂の片隅に坐っていると、村上さんからお声をかけていただいて、なんと有り難いことに、控え室で加藤登紀子さんにご挨拶させてもらうことができました。

それだけで、もう十分幸せだと感激しました。

九十分、村上さんとの対談が行われました。

まずはじめに、二千十五年に行われた加藤登紀子50周年記念百万本のバラコンサートwithラトビア・リエパーヤ交響楽団の映像が本堂に流れました。

この歌はもともとラトビアの歌だったのでした。

この会に出るにあたって前もって加藤さんの『百万本のバラ物語』(光文社)を読んでおきましたので、加藤さんのお話もよく理解することができました。

とにかく情熱のあふれる方なので、内側から湧いてくるものを次々あふれるように語ってくださいました。

さすがの村上さんも言葉を差しはさむのに苦心されているほどでした。

百万本のバラの歌には、いくら言葉を尽くしても言い尽くせぬ思いが込められていることが感じられました。

まず悲しい歌なのです。

もとはラトビアの子守歌だったのです。

昔からの子守歌ではなく、一九八一年に「マーラが与えた人生」という題の歌だったのでした。

そのリフレインの歌詞を紹介してくれました。

神様あなたは、かけがえのない命を娘たちにくださいました。
でも、どうしてすべての子供たちに幸せを運んでくることをお忘れになったのですか? (加藤登紀子概訳)

『百万本のバラ物語』には、

「「マーラ」はキリスト教の女神様の名前です。

宗教が否定されていたソ連では、このタイトルに、もうプロテストの意味が込められていたのでしょう。」
と書かれています。

詩を書いた人は「68年にはソ連軍のチェコ侵入に抗議し、70年には独立を願って焼身自殺した人に詩を捧げたことで国外追放になったのです。亡命地で結婚し、家族と共に抵抗の詩人として生き抜く生活は容易なものではなかったでしょう。」

と書かれています。

更に加藤さんは「彼にとって、「マーラが与えた人生」という詩がどんなに大切だったか、でもそれがロシア語の歌になってしまって広がっていくのはどんな気持ちだったのか、想像がつきません。」と述べています。

もとの詩には、ラトビアという小国の苦難も込められてもいるのです。

ロシア語に翻訳したのがアンドレイ・ボズネセンスキーという方でした。

ロシア語では、グルジア(現ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータというフランスの女優に恋した話になっています。

このアンドレイ・ボズネセンスキーと加藤さんとの出会いの話は実に感動的でありました。

悲しい恋の話の背景には、これもまた悲しい国と国との争い、葛藤が込められているのでした。

百万本のバラは、自由を叫ぶ民衆の姿なのだと仰った加藤さんの言葉は忘れられません。

加藤さんは一九四三年満州のハルビンでお生れです。

一歳八ヶ月で終戦、二歳八ヶ月で日本に引き揚げてきたのでした。

この経歴を見るだけでもどれほどの苦難があったのか想像を絶します。

加藤さんはその時代を生きていたのです。

私のような世代には、「満州」といっても、単なる文字でしかありません。

そこに舞うほこりも匂いも、人々の声も聞こえてはきません。

しかし、加藤さんはその中を生きてこられたのです。

その重さは私などには分からないのです。

満州で終戦を迎えて帰ることがどれほどたいへんだったか、『百万本のバラ物語』を読んでも察するにあまりあります。

ただ加藤さんのお母さんがどんな状況でも「あなたと私」で向き合えば国は消えるのだと言っていたそうなのです。

どんな時でも一対一、国も宗教も関係なく一対一なのだと仰っていました。

それはアフガニスタンの為に命を尽くされた中村哲さんの考えも同じだと仰っていました。

そこで村上さんが中村哲さんの言葉を紹介されました。

「農業がある限り人間は生きていける。
電化製品は食えないけれど、札束は
やがて薪にしかならなくなるけれども、
食べ物さえあれば人間は生きていける。」

という言葉でした。

良い言葉だと思って、私はメモに走り書きで書き止めました。

そのときに、加藤さんが村上さんに「そんなにスラスラ読んでは駄目」と厳しく言われました。

エグゼクティブアナウンサーにこう言える人はそういないでしょう。

村上さんも論語に「仁者は其の言や訒」とある言葉は重重ご存じです。

「訒」というのは「口のきき方が重々しく、言いよどみがちなさま」を言います。

そんなにスラスラ読めないの言葉なのです。

そしてその折に、加藤さんがふと「マキ」とつぶやかれたのが私の耳に残りました。

何か意にそぐわないという感じが伝わったのでした。

この言葉が載っている加藤さんの『哲さんの声が聞こえる』(合同出版)という本で調べてみても、「薪」にルビはふっていません。

調べていると、加藤さんは「マキ」ではなく「タキギ」と読んでいることが分かりました。

マキとタキギとどう違うのか、いろいろ調べてみました。

『広辞苑』で調べてみると、「マキ」は「燃料にする木。雑木を適宜の大きさに切り割って乾燥させたもの」です。

「タキギ」は「かまど・炉などに焚く木。たきもの」とあります。

「マキ」は伐って長さもそろえて乾燥させたものです。

「タキギ」は、森や林で拾ってくるようなたきものなのです。

「食べ物さえあれば人間は生きていける」という状況にあるのは、加工されたマキではなく、まさに「タキギ」なのです。

時代を生きた人でないと分からない感性だと思いました。

戦後生まれの村上さんでもやはり届かないところだったのだと感じました。

私などは戦後の平和な時代に生まれ育って来ました。

「マキ」と「タキギ」の違いも辞書で調べないと分からない鈍感になっているのです。

分断を越えるのは何か、事前のアンケートにもあった問いです。

多くの方は愛と答えたようです。

私は愛だけでは難しい、智慧が必要だと思って智慧と慈悲だと書いたのでした。

加藤さんは、「おいしいご飯だ」と仰っていました。

更に加藤さんは老子なら「なにもしないことだ」というでしょうと仰いました。

これもまた深い言葉だと思いました。

最後に百万本のバラに関する質問があって、いろんな会話がある中で、ふと加藤さんが「バラは一本でいいの」とつぶやかれたのが心に残りました。

数え切れないほど「百万本のバラ」を詠われた加藤さんが「バラは一本でいいの」と言われたのが最も印象的でした。

重くて深い一輪なのです。

四十年近く前に、消費税の導入も知らなかった修行僧の耳になぜ「百万本のバラ」の歌が残っていたのか、その歌に込められた深い哀愁の一端を知って、少しだけ分かった気がしたのでした。

『百万本のバラ物語』に加藤さんは「この曲は売れなくてもいい、私の祈りですから。種を蒔くように広げたいの」と書いておられました。

深い祈りのこもったバラなのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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