第1216回「明るくいきいきと – 木鶏会百回 –」

「木鶏」という言葉があります。

『広辞苑』で「木鶏」を調べると、

まず「木製のにわとり」という意味があります。

文字の通りです。

更に「強さを外に表さない最強の闘鶏をたとえる。」と解説されています。

これは『荘子』のなかにある木鶏の話がもとになっています。

講談社学術文庫の『荘子』全訳註にある現代語訳を引用してみます。

紀渻子(人の姓名)という人が、ある王の命を受けて闘鶏を飼育していた。

十日経ったところで王がたずねた。

「どうだ、鶏はもうよいかな。」

「いいえ、まだです。まだむやみに強がって気負っております。」

それから十日経って王はまたたずねた。

「いいえ、まだです。ちょっとした物音や物影にもいきり立ちます。」

また十日経って王はまたたずねた。

「まだです。 他の鶏を見ると、ぐっとにらみつけて血気にはやります。」

さらに十日経って王はまたたずねた。

「はい、もう完全無欠です。他の鶏が鳴き声を立てても、様子を変えることがありません。

遠目には木彫りの鶏とさえ映ります。本来の徳が欠けるところなく具わりました。

他の鷄も相手になろうとするものはなく、背を向けて逃げ出すことでしょう。」

という話であります。

私がこの度出版した『無門関に学ぶ』という本は、致知出版社から出したものです。

致知出版社では、月刊誌『致知』を発行されています。

この『致知』という月刊誌は、人間学を学ぶ雑誌であります。

書店では扱われていなく、定期購読のみの月刊誌です。

「いつの時代でも仕事にも人生にも真剣に取り組んでいる人はいる。

そういう人たちの心の糧になる雑誌を創ろう。

『致知』の創刊理念です。」

と致知出版社のホームページには書かれています。

私も有り難いことにご縁をいただいて毎月連載をさせてもらっています。

『禅語に学ぶ』という連載を担当しています。

この月刊誌『致知』をテキストにして人間学を学ぶ勉強会を木鶏会といいます。

多くの会社で行われているものです。

私のところの修行道場でもこの木鶏会を毎月行っています。

どんな勉強会かというと、『致知』の中のある記事をあらかじめ選んで読んで各自感想文を書いておきます。

木鶏会の当日は、四、五人ほどのグループに分かれて、そのグループの中で感想文を各自が仲間の前で発表します。

聞いている方は必ず「美点凝視」といって、お互いがお互いの素晴らしいところを認めるようにします。

発表が終わると、必ずみんなで拍手して讃えるのです。

「お互いがお互いの人間性を尊重しつつ共に成長すること」を願っています。

グループの中で、代表する感想文をみなで選びます。

そして各グループの代表感想文を発表するのです。

それを聞いて最後に私が総評します。

ある企業は、この木鶏会を取り入れることによって、社員の心が荒廃していた状態から立ち直り、今では、誇りを持って明るくいきいきと働く社風になったという話を聞いたことがあります。

また、ある大学の部活では、部員同士の絆が深まるなどによって全国優勝を果たすなど多くの実績を上げています。

今から八年前の二〇一六年一月に第一回を始めて、先日百回となりました。

第一回には、致知出版社の方にお越しいただいて、木鶏会の運営の仕方をご指導していただいたのでした。

今回百回になると、致知出版社の藤尾允泰編集長に伝えたところ、なんと藤尾編集長がわざわざ第百回の木鶏会にご参加くださったのでした。

まずはじめに私が話をします。

お互いが僧侶である前に一人の人間としてどうあるべきか、どう生きるべきかを学んで欲しいという思いを話しました。

僧侶といっても、特別な修行はしますものの、やはり一人の人間であります。

和尚さんになって多くの方から慕われるのは、修行の年数や、学問の知識などよりも、人間として魅力によるところが大きいと思います。

そこで、人間としての生き方を学ぶのであります。

皆が話し合っている間に、私は各グループをのぞいてまわりました。

修行僧達のそれぞれの考えを聞くのは、勉強になるものです。

今回の致知の特集は「倦まず弛まず」というテーマです。

道場六三郎さんの記事を皆で読んで感想を発表したのでした。

推薦感想文には、いい話がたくさんありました。

「鴨居と障子」と「環境は心の影」の話には、それぞれ感じることが多かったようです。

「鴨居と障子がうまく組み合わさっているからスムーズに開閉できる。

それが合わなくなれば、障子の枠を削る。

上の鴨居を削ることはしない。

鴨居とはお店のご主人で、六ちゃんは障子だ。だから修業とは我を削っていくことだよ」という道場さんの両親の教えであります。

修行道場であれば、鴨居は道場であり、障子は修行僧だというのです。

我々の修行も窮屈な暮らしに身を置くのは、我を削るためであり、我を削ることによって、他人の苦しみに気がつき、やさしくなれるのだという発表がありました。
これは修行の本質をよくついています。

我々は何か思い通りにならないことがあると、すぐに環境のせいにしがちであります。

しかし見方を変えると環境も変わることがあります。

自分の心を正すことがまず大事だという意見もありました。

理不尽だと思われることでもそれが自分の成長につながるという声もありました。

ただこれは難しいので、ほんとに理不尽で改めないといけないものがありますので、その点は注意しておかないといけません。

それぞれの発表があって、最後に各グループのパフォーマンスが披露されました。

百回記念であり、藤尾編集長もいらっしゃることもあって、皆かなり気合いが入っていました。

最後に藤尾編集長から、致知への思い、道場さんを取材されたときの話などをうかがいました。

二時間を越える熱い時間となりました。

第一回の時には、私は

「皆さんが明るくいきいきと楽しそうにやっているのが良かった。禅というものは、唐代の語録の問答をみても、もともとは、明るくいきいきとしたはたらきのものであったはず。

円覚寺で修行した人は、明るく元気でいきいきとした和尚さんとなって欲しい」と話をしていました。

百回を迎えてもまた、みんなが明るくいきいきしているのが良かったと思いました。

お寺の世界も後継者不足、寺離れ、少子高齢化などいろんな問題を抱えていますが、暗く沈んでいては道も開かれません。

まず明るくいきいきと人間としてどう生きるかをお互いに研鑽してゆきたいものであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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