【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と…

【公式】臨済宗大本山 円覚寺

鎌倉にある臨済宗大本山円覚寺です。 YouTubeにてお届けしてます「毎日の管長日記と呼吸瞑想」を中心に毎月の「日曜説教」、短い法話の「一口法話」などお伝えさせていただきます。 【公式ホームページ】https://www.engakuji.or.jp/

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第1249回「ゆったりと大らかに」

夏期講座の三日目は、帯津良一先生にご登壇いただきました。 帯津先生は、1936年埼玉県川越市のお生まれで、八十八歳でいらっしゃいます。 東京大学医学部を卒業され、東京大学医学部第三外科にお入りになり、更に都立駒込病院外科医長などをお勤めになっています。 1982年、埼玉県川越市に帯津三敬病院を設立されました。 そして2004年には、池袋に統合医学の拠点として、帯津三敬塾クリニックを開設されています。 日本ホリスティック医学協会名誉会長、日本ホメオパシー医学会理事長という先生でいらっしゃいます。 統合医療とか、ホリスティック医学という分野を開発されてきた先生であります。 昨年インターブックスという出版社から対談本の企画があって、何度か対談をさせてもらって、このたび『心とからだを磨く生き方』という本を作ってもらったのでした。 その対談の折に、帯津先生に夏期講座の講師をお願いしてみたところ、なんとこころよくお引き受けくださったのでした。 『心とからだを磨く生き方』という本は六月十一日の発売なので、まだ書店やインターネットでも買えない状況だったのですが、特別にこの日に合わせてお寺で販売してもらいました。 多くの方がお求めくださり感謝しています。 無事に夏期講座を終えることができたのですが、今回は思わぬ事態が生じました。 夏期講座の数日前に、帯津先生が体調を崩されているという知らせが入りました。 ご高齢なので、ご無理をしてもらうことのないように、頭の中で登壇してもらえないことも想定し始めていました。 しかし、だいじょうぶそうだと言うので、前日鎌倉のホテルでお目にかかりました。 お目にかかるととてもお元気そうでしたので安堵しました。 実際には話をうかがうと、熱を出して軽い肺炎の症状も出ていたというのですから、そんな軽いものではなかったのだと分りました。 発熱されてコロナ感染症の疑いもあるというので、PCR検査も受けられたそうです。 その時のお話も感動しました。 帯津先生はなんとしても六月二日に円覚寺に行くんだと強く願ってくださっていて、PCRで陽性になってはたいへんだと思われ、検査を受けて結果がでるまでの間お部屋で延命十句観音経を唱え続けていたというのであります。 大きな声で三十分ばかり唱えていたのだと仰ってくださいました。 観音様の祈りが通じた、延命十句観音経はやはり有り難いと仰ってくださいました。 そんな状況だと講演はだいじょうぶかと心配したのですが、その前の日も都内で二時間ほどの講義をなさってきたと仰るのでした。 とてもお元気そうにお見受けし、先生ご自身もやる気に満ちていらっしゃるのでお任せすることにしました。 帯津先生にとっては二度目の円覚寺なのですが、前回の時のご記憶はないようでした。 あの当時は、帯津先生はあちらこちらとてもご講演の多い時期だったと思います。 それに帯津先生はお忙しいので講演などに行っても、観光などはいっさいしないのだそうです。 おそらく時間の前に来て、講演だけしてそのままお帰りになったのだろうと思います。 今回は、なんと私の話から聞くと仰るのでした。 ご体調のことを考えると私の話も九十分もありますのでイスに座って聞くだけでもたいへんなことです。 先生の講演の前にお越しいただければ十分ですと何度も申し上げたのですが、先生はだいじょうぶだと仰って、やはり九時の私の講座から出てくださったのでした。 帯津先生のご講演も九十分、立ったまま、よく通るお声で見事なご講演でありました。 私は傍で拝見していましたのが、なんといっても姿勢の美しいのには感激しました。 腰がしっかり立って背筋がスッと伸びていらっしゃいます。 原稿も見ずに九十分の講演はさすがであります。 多くの方が感動しているのがよく分かりました。 姿勢の良さというのは対談の時からずっと感じていました。 前日の会食の折にもお酒もお召し上がっていらっしゃいましたが、イスの背もたれにもたれるということは一度もなかったのです。 居住まいを正して食事を召し上がっていました。 太極拳や気功、呼吸法を実践なされているので、自ずとよい姿勢になっているのだと思いました。 寺は階段が多いのですが、どんな石段でも手すりを使うこともなくスラスラとのぼりおりされていました。 体調の悪い時も診療やお仕事を一日もお休みになることはなかったそうです。 仕事をしながら、講演をしながら体を治してゆかれるというのです。 その日の私の講座は、信心銘の一節を講義していました。 その中に、 「大道は体寛かにして、易無く難無し 小見は狐疑す、転た急なれば転た遅し 之れを執すれば度を失して、必ず邪路に入る 之れを放てば自然にして、体に去住無し」 という言葉があります。 意訳しますと「真実の道、大道はそれ自体がゆったりと広々としていて、歩きやすいとか困難だとかいうことがない。 物の見方の狭い人は小さいことに気をかけて心配してしまい、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠ざかってしまう。 物にとらわれると尺度を失ってのめりこんでしまったりして、間違った路にはいりこむものだ。 手をはなせば、もともと自然で、道そのものは行くこともとまることもない、何をしていても道から離れることはない」 という教えです。 更に 「性に任せて道に合い、逍遥として悩を絶す 念を繋くれば真に乖き、昏沈して不好なり 不好なれば神を労す、何ぞ疎親を用いん 一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪むかれ」 と続きます、 こちらも意訳しますと、 本性のままに任せていればそれで大道と一致し、ゆったりとのんびり歩いて何の悩みもなくなってしまう。 心を何か一つの対象にくくりつけ、とらわれてしまうと真理に背いてしまう。 そうすると心が暗く沈みこんで思うようにゆかない。 思うようにゆかないとますます精神をすりへらしてしまう。 元来道に遠ざかったり、近づいたりする必要はない、道の中にあるのだ。 真実への一つの道を行こうと思えば、六官の対象を嫌うことはない」 というものです。 「大道は体寛かにして、易無く難無し 「真実の道、大道はそれ自体がゆったりと広々としていて、歩きやすいとか困難だとかいうことがない。」 「性に任せて道に合い、逍遥として悩を絶す」 「本性のままに任せていればそれで大道と一致し、ゆったりとのんびり歩いて何の悩みもなくなってしまう」 帯津先生にお目にかかっていると、こんな言葉が実にしっくりとします。 実に大らかでゆったりとしていて、それでいて真実の道にかなっていらっしゃいます。 お見送りするときに、私が「先生、今回は円覚寺に来たことを忘れないでください」と申し上げると、「今度は忘れないよ」といって、しっかり握手してくださいました。 帯津先生とのご縁に感謝します。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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      第1248回「因果はくらませない」

      夏期講座の二日目は、小川隆先生にご登壇願いました。昨年に続いて二度目であります。 かつて鈴木大拙先生が、円覚寺の夏期講座では毎年ご講演なされていたという話を聞いたことがありましたので、ただいまの禅学の世界を代表する小川先生に、当分毎年お願いしようと思っているのです。 こちらもいつも親しくしてもらっていますので、無理を言ってお願いしました。 こころよくお引き受けくださり、有り難いことであります。 私はここしばらく、禅の悟りと現実の暮らしに於ける倫理とのかね合いについて考えていました。 素晴らしい悟りを開いたと認められるような方が、日常の振る舞いが現実の世間に受け容れられないことがあったり、立派に修行された方だけれども修行僧を指導するには問題があるとか、なかなか難しいことがあります。 禅の悟りは、世俗を超えたものです。 常識で推し量ることの出来ない世界であります。 しかし、現実には生身の体のある限り、この二元対立の世界で生きてゆかねばなりません。 そんな問題について考えていて、小川先生は、その百丈野狐の公案を選んでくださったのでした。 今回も実に綿密な資料を用意してくださいました。 当日の資料から百丈野狐の現代語訳を引用させてもらいます。 「百丈和尚の接化の際、いつも一人の老人が大衆とともに聞法していた。 大衆が退けば、老人も退いた。 それがふとある日、退かなかった。そこで百丈が問いかけた。 「わが眼前に立っておるのは、はて何者か?」 すると、老人いわく、「はい、私めは人ではございません。過去、迦葉仏の時、かつてこの山〔百丈山〕に住持しておりました。 ある時、修行僧が〝修行を徹底した人も因果の道理に落ちるか?〟と問いましたので、私は〝因果の道理には落ちぬ〔不落因果〕〟と答えました。 それで、その後五百生もの間、野狐の身に堕ちてしまったのです。 どうか和尚、今、私に代わって一転語をお願いいたします。 野狐の身より脱け出したいのです」。 そして問うた。「修行を徹底した人も因果の道理に落ちましょうか?」 百丈は答えた。「因果の道理には昧まぬ〔不昧因果〕」。 老人はその言下に大悟し、礼拝して言った。 「私めはすでに野狐の身より脱け出して、裏山に居ります。 恐れながら和尚に申し上げます、なにとぞ、僧侶の死去の際のならわしにしたがって、後事のお取り計らいを願います」。」 というものです。 そのあと、百丈和尚は、お坊さんたちを裏山に連れて行って、その岩の下にあった死んだ狐をとりだして、お坊さんの葬儀のように火葬したという話です。 この百丈和尚については、「一日作さざれば、一日食らわず」という言葉で知られています。 お釈迦様の時代は、土の中にいる生き物を殺すからという理由で農耕は禁じられていました。 土の中には必ず虫がいますから、農作物を作ればどうしても虫を殺すことになります。 虫を殺さないようにしようと思ったら鍬は振れません。 ですから、お釈迦様は出家者に農耕を禁じておりました。 けれども、禅を実践するお坊さんたちが集まって増えてきて、とてもインドのように、食事などを皆布施してもらって暮らすことができなくなりました。 そこで中国では農作業をするようになりました。 そのときにお釈迦様が禁じていた畑を耕すことも、仏道に適うのだという教えに変わってゆきました。 それが百丈懐海禅師の頃であるといわれております。 因果の問題はくらますことができないのか、それとも修行すれば因果を超越することができるのかというのがこの問題であります。 耕作の問題にしても、お釈迦様の教えに基づけば、生き物の命を殺める行為となりますので、その行いの報いを受けることになってしまいます。 しかし、百丈禅師は、この現実の世界を越えた悟りに徹すれば、罪もないのだと言っているのです。 これが空の世界でもあります。 空の世界には、罪を受ける者もないのです。 この問題に関連すると思って、私はその日の講座でアングリマーラの話を致しました。 アングリマーラは、百人もの人を殺すという恐ろしい罪を犯しました。 尊敬していた師であるバラモンから百人の人を殺してその指で首飾りを作れと言われて、殺人鬼となってしまったのでした。 百人目に実の母に出会って殺そうとしたところ、お釈迦様の止められてしまい、お寺に入ってお釈迦様の教えを聞いて悟りを開いたのでした。 時の王様はかの殺人鬼をとらえようとしてお釈迦様のお寺に行きました。 しかし、お釈迦様は、「かれは今までの罪を悔い改めて今や慈悲の心に満ちている」といってアングリマーラを引き渡しませんでした。 そこでお釈迦様が仰せになったのが、 「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。」 という言葉でした。 これはまさに悟りの世界は、世俗を超えた真理であることを示しています。 しかし、現実には、アングリマーラは町に出ると、多くの人から杖で打たれ、石を投げられて大けがを負わされてしまいます。 因果はくらませないのであります。 今回小川先生も、大珠慧海禅師の言葉を示してくださいました。 一心に修行すれば、過去の罪も消えるのかという問いに対して、大珠禅師は、仏性を見ていない人は、罪は消滅しないけれども、修行して仏性を見た人は、お日さまが霜や雪を照らすように過去の罪も消えると答えているのです。 たとえ罪が山のようにあったとしても悟りを開けば、山のように積んだ枯草もわずかの火でたちまち燃えてしまうようなものだと言っています。 宗教にはこういう世界もあります。 これが救いであります。 どんな罪を犯した者も阿弥陀様は平等に救ってくださるという世界です。 しかし、現実には因果をくらませないのであります。 今の世であれば、当然現実社会の法律に照らし合わせて裁きを受けなければなりません。 不落因果と不昧因果とどちらがよくて、どちらがダメだという話ではありません。 その両方にとらわれないことです。 相反する二つのものは、常に同時に存在しているというのが真理であります。 最後に小川先生は、 「なにもおもはぬは仏のけいこなり なにもおもはぬ物からなにもかもするがよし」 という至道無難禅師の言葉を紹介してくださいました。 何も思わないのが仏の稽古であり、何も思わぬ態度でなにもかもするがよいというのです。 なにも思わぬは空の世界であり、不落因果の世界です。 その空の世界に目覚めておいて、その上で、現実の世界、因果の世界を生きてゆくというのであります。 白い画用紙に絵を描くようなものだという譬えは分かりやすいものでした。 白い画用紙は空の世界です。 その上に、私たちはいろんな絵を描くのです。 それは不昧因果の世界です。 いろいろ考えてきたことが、よく整理することができたのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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        第1247回「感動の話」

        運が良い、運が悪いということはあります。 栗山英樹監督の出会いは、私にとってはとても幸運なことでありました。 野球についてそんなに詳しいわけでもありませんが、何故か思いがけずにこんな幸せに恵まれたのであります。 先日5月の末、円覚寺の夏期講座に栗山監督にお越しいただいて講演をしてもらいました。 円覚寺で栗山監督が講演する、普通であれば考えられないようなことであります。 予約は早い段階で満席になりました。 朝は強い雨が降っていましたが大勢の方がお見えくださいました。 とてもお忙しいご様子でありましたが、なんと私の講座からお聞きくださいました。 久しぶりに緊張したものでした。 世界一の監督が傍で聴いておられる前で話をするのですから無理もありません。 それでもどうにか自分の講演を終えて、栗山監督にお話いただきました。 その日、私が栗山監督から何度も言われた言葉がありました。 それは「ほんとうに私のような者が、円覚寺で話をしていいのですか」という言葉です。 「ほんとうに良いのですか?」 「野球しかしりませんよ」と何度も仰いました。 こちらとしては、栗山監督がお話くださる、それだけで有り難いことなのです。 栗山監督は熱く語ってくださいました。 まず私はそのお姿に感動しました。 WBC優勝の話が中心でしたので、おそらく監督は、この話を昨年の優勝以来、何十回もなさっていると思います。 しかし、まるで今回初めて話をするように新鮮で、しかも熱い思いの入れようで話をされるのです。 だからその熱意が伝わってくるのでありました。 あの大会中に右手小指を骨折した源田壮亮選手の話には改めて涙を誘われました。 これは昨年対談した折にも触れたことです。 監督は、源田選手を二試合は休ませましたけど、最後まで起用し続けられました。 昨年の対談の時の言葉を記します。 月刊『致知』の2023年十月号にある言葉を引用します。 「試合中に相手と交錯して小指が完全に逆に曲がってしまい、医師の診断は全治3か月でした。 心の底から一緒にやらせてあげたいと思っていたんですけど、ショートという大事なポジションですし、情に流されてはいけないと予かねて思っていたので、2日間考え抜いて、本人とも話しました。 その時、相当痛かったはずなのに、彼は最後まで決して「痛い」とは言わなかったんです。」と栗山監督は仰っていました。 私が「普通はとてもじゃないけどプレーできないですよね。」と申し上げると、 監督は「にも拘かかわらず、「できます」と。 だから聞いたんです。 「僕はファイターズの監督時代の10年間、自分のことよりも人のため、チームのためにすべてを尽くせる選手をつくりたかった。 でも、なかなかつくれなかった。源ちゃんはなんでそんなに強いの?」って。 そうしたら、源ちゃんがグワーッと号泣して、「監督、僕は今回、自分が出て日本のためになろうと思いました。 いままで日本代表に選ばれても、なかなか試合に出られなかったので、今回は僕で勝つんだと思って、ここに来ました。 この想い、遂げさせてください!」と言ったんです。その目は本当に信頼するに値するというか、並々ならぬ本気度を感じました。」 こんな心の震えるような話を監督が熱意を込めて話してくださったのでした。 感動しないわけはないのです。 更に更に感動したのは、なんといっても大谷翔平選手の話でした。 2016年日本ハムが日本一になった時の話です。 ソフトバンクは、2014年、2015年と日本一に輝いていてその年も11.5ゲームの差だったそうです。 そのチームに大差をつけられているのです。 栗山監督は、そんな状況で「何か大きなことをしでかしてやるぞ」と思ったそうです。 それが「1番、ピッチャー、大谷翔平」だったのです。 栗山監督の『信じ切る力』には次のように書かれています。 「ソフトバンクの本拠地で流れた先発と打順のアナウンスに、球場がどよめきました。 良かったな、と思いました。 これで勝ち切ったら何か意味があるな、と思ったのです。 選手たちがどう思ったのかはわかりません。 文句を言いたかった選手もいたかもしれない。 しかし、面白いと楽しんでくれたのだと思います。 こんなことが、本当にやれるんだ、と。」 と書かれています。 更に本には、 「とんでもないことだな、とみんな思いながら翔平を見つめていたら、もっととんでもないことが起きました。 初回の先頭バッターとしてバッターボックスに入った翔平は、いきなり初球を右中間スタンドに放り込んだのです。 ホームランを打ち、ゆっくりベースを回って、歩いてベンチに帰ってきました。そして、悠々とピッチングの準備を始めました。 この試合を2対0で勝利しました。 実は前日、翔平を呼んで僕は伝えていたのでした。 「明日、1番ピッチャー、大谷で行きます」 翔平は、ドラフト後の交渉のときのようにじっと黙って僕の話を聞いていました。 「まあ翔平、いろいろ言われるかもしれないけど、いきなりホームラン打って、ゆっくり帰ってきて、1対0で完封すれば、それで勝ちだから」 翔平はうなずいて、何も言わずに出ていきました。 そして、試合当日、「ホームラン打ってきまーす」 とベンチで僕に告げて、打席に向かったのです。ホームランしか狙っていなかった。 そして、その通り打ってしまう選手がいるのです。 やっぱり、本当に野球はすごい。 想像をはるかに超えることが起こるのです。 こういったことの中から、「これは何かが起こるぞ」というムードになっていた選手たちが、優勝することを信じ始めた。」 という話でした。 そして私がもっと驚いたのはそのあとの話です。 栗山監督はある映像を映されました。 それは大谷選手が黙々とバッティング練習をしている映像でした。 なにも不思議もない映像です。 しかし、それはその日本ハムが日本一になった年のクリスマスの日の映像なのです。 栗山監督は、日本一になるといろんな祝賀の行事が続き、十二月頃になるとようやく落ち着いて、クリスマスには家庭のある者は家族で過ごし、独身の者は彼女と食事したりするものだそうです。 それはそうだと思います。 しかし、その大谷選手がバッティング練習しているのはクリスマスイブの午前1時の映像なのです。 そんな時にも黙々と一人バットを振っている姿なのです。 あの華々しい活躍には誰にも及ばぬ努力をしているのだと分かりました。 ここまでやっているのなら、野球の神様も応援してくれて、良い運もめぐってくるのだと思いました。 感動のお話でした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1246回「無事の人」

          岩波文庫の『臨済録』は、ただいま入矢義高先生の訳注でありますが、もとは朝比奈宗源老師の訳注でございました。 先代の管長であった足立大進老師が、この現代語訳を担当されたとうかがっています。 『臨済録』の示衆のはじめの方にある臨済禅師のお説法を朝比奈宗源老師の訳で拝読してみます。 「そこで師は言った。 今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず真正の見解を求めることが肝要である。 もし真正の見解が手に入れば、もはや生死に迷うこともなく、死ぬも生きるも自由である。 偉そうにする気などなくとも、自然にすべてが尊くなる。 修行者よ、古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自由の境地に導く実力があった。 わしがお前たちに心得てもらいたいところも、ただ他人の言葉や外境に惑わされないようにということだ。 平常のそのままでよいのだ、自己の思うようにせよ、決してためらうな。 このごろの修行者たちが仏法を会得できない病因がどこにあるかと言えば、信じきれない処にある。 お前たちは信じきれないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、万境のために自己を見失って自由になれない。 お前たちがもし外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。 お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。 お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。 ただ、お前たちはこれを信じ切れないために外に向って求める、(そんなことをして) たとえ求め得たとしても、それは文字言句の概念で、活きた祖師の生命ではない。 取り違えてはいけない。お前たち、今ここで、して取れないなら永遠に迷いの世界に輪廻して、愛欲にひかれて畜生道に落ち、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。 お前たち、わしの見解からすれば、この自己と釈迦と別ではない。 現在、日常のはたらきに何が欠けているか。 六根を通じての自由な働きは、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。 もし、よくこのように徹底することが出来ればこれこそ一生大安心の出来た目出度い人である。」 というものです。 このうちで、「古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自由の境地に導く実力があった」というところは、原文は「古よりの先徳の如きは、皆な人を出す底の路有り」となっています。 今日では「人を出す」は、「人にまさる」という意味であることが分かっています。 小川隆先生は、講談社学術文庫の『臨済録のことば 禅の語録を読む』には、「わが道の先人たちには、みな余人に勝るすぐれた路があった」と訳されています。 自己と釈迦とは別ではないことのたしかな証が、六根を通じてのはたらきが何も欠けていないことだというのです。 『宗鏡録』にこんな問答があります。 異見王が波羅提尊者に問いました。 「何をもって仏とするのか」。 尊者は「本性を見るものが仏である」と答えます。 王は「ではあなたは本性を見たのか」と問います。 波羅提尊者は「わたしは仏性を見ました」と答えます。 王は、「では本性はどこにあるか」と問います。 波羅提尊者は、「本性は作用するところにある」と答えました。 王は、「如何なる作用であるのか。いま見えぬではないか」と言います。 波羅提尊者は「いま現に作用しているのを、ご自分でわからないのです」と答えます。 更に波羅提尊者は「作用すれば、八処に現れる」と言います。 それは「母胎にあっては身といい、世に出ては人という。 眼にあっては見るという、耳にあっては聞くという。 鼻にあっては匂いを区別して、口にあってはものを言う。 手にあってはものをつかみ、足にあっては走る。 拡大すると世界を被い、収斂すると微塵に納まる。 わかる者はこれが仏性だと知り、わからぬ者は精魂と呼ぶ」と答えたのでした。 見たり聞いたりするはたらきが仏性だと説かれたのです。 さてこの臨済禅師のお説法を小川先生は分かりやすく次のように要約されています。 一、「人の惑わし」を受けるな、 二、己れの外に「馳求」するな、 三、自分自身を信じ切れ、 四、その自分自身は「祖仏」と別なく、「釈迦」と別なきものである、 五、といっても、何も特別のものではない、それは「祗(まさ)に你、面前に聴法せる底」、すなわち現にこの場でこの説法を聴いている、汝その人のことに外ならない、 六、その汝の身には途切れることなくはたらきつづける「六道の神光」が具わっている、 七、それを如実に看て取る者が、つまり一生「無事」の人なのである。 ということなのです。 盤珪禅師は、今この話を聞いている時に、外で鳥の声が聞えてもちゃんと鳥の声だと聞ける、それは聞こうとしなくても聞けているのであり、それが素晴らしい不生の仏心がみんなに具わっている証拠だと示されました、 明快なことは明快、これ以上明快なことはないほどです。 理解できることもまた理解できます。 しかしながら、これで本当に納得できるかというと、やはり難しいものです。 それにはいろんな修行や回り道が必要なのであります。 多くの事、多事を経験してこそ無事になるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

        第1249回「ゆったりと大らかに」

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          第1245回「戒は不要?」

          仏教の修行の根本は、戒定慧であると言われています。 戒によって、正しい生活習慣を身につけ、禅定を修めて心を静まらせて、正しい智慧を身につけるのです。 それによってこそ慈悲の行いもできるようになるものです。 仏弟子となるのには、戒を受ける必要があります。 我々僧侶となるには、必ず受戒を致します。 一般の信者さんもまた、仏教徒となるには、戒を受けます。 はじめお釈迦さまの頃は、お釈迦さまのもとで出家したいと願う者には、お釈迦さまが「来なさい。自分のもとで梵行を修せよ」と言ってくださると、それでよかったのであります。 漢訳で「「善来、比丘。梵行を修すべし」というもので、「善来比丘具足法」と言ったりします。 これで具足戒になったのです。 具足戒というのは正式に出家した僧侶が守るべき戒律を総称したものです。 そのはじめは、かつて一緒に苦行していた五人の修行者に対して、お釈迦さまが「来なさい。自分のもとで梵行を修せよ」と言えばそれでよかったのです。 一緒に修行しようという思いがあればそれで、必ず良い方向へと修行を進めてゆくことができるのです。 だんだんとそのように仏弟子ができて、サンガという仏教教団が形成されてゆきました。 そこで仏法僧の三宝が成立しました。 仏さまと、仏さまの説かれた教えと、その教えを守り実践する集団であります。 次にこの三宝に帰依することによって、教団に入れることになりました。 これを三帰依と申します。三帰戒ともいいます。 三つを拠り所としようと思って修行することで自然と規律も調ったのでした。 それから更に戒が増えてゆきました。 殺生、偸盗、邪淫、妄語などから、さらに戒が増えてゆくのであります。 五戒とは、 第一不殺生 命あるものをむやみに殺さない 第二不偸盗 人のものを盗み取ることをしない 第三不淫欲 道に逆らった愛欲を犯さない 第四不妄語 嘘偽りを口にしない 第五不飲酒 酒に溺れて生業(なりわい)を怠ることをしない の五つであります。 先日花園大学で栗山英樹監督と話をしていて、大谷翔平さんのことが印象に残りました。 大谷さんは門限を知らなかったという話であります。 栗山監督は、大谷さんが入団後、外出時の「大谷ルール」を作られ、外出は許可制にして門限も設けていたそうです。 大谷さんが二刀流をやるにはどうしても練習で身体に負荷がかかるので、休む時間をしっかり取らせるために作られたそうなのです。 実は、何人かの選手にも同じようなルールを作ったそうなのですが、これを最後まで守り切ったのは、大谷さんだけだったとのことです。 栗山監督の『信じ切る力』には、 「超スーパースターになろうとしている翔平に会いたい人は多い。 しかし、それをすべて許していたら、間違いなくおかしくなると思いました。 ただ、本当に行きたいのであれば、行っても構わないと思っていました。」 と書かれています。 大谷さんが入団して2年目の7月、仙台で完投勝利をした夜、栗山監督のもとに大谷さんから連絡が来たそうです。 花巻東時代のキャフプテンが仙台に来ているので食事をしにいってもいいかという連絡でした。 栗山監督が「どうぞどうぞゆっくり食べてきなさい」というと、大谷さんが門限は何時ですかと聞いたそうなのです。 ということは、大谷さんは2年目の夏まで、門限を知らなかったというのです。 門限が必要なかったのだということです。 『信じ切る力』には 「翔平を見ていて、思ったことがありました。 ストイックに身体を鍛え、練習し、外出もしないし、遊びにも行かない。 しかし、それは彼が生活を律しているのではない、と僕は感じていました。」 と書かれています。 どういうことかというと、 「みんなで食事をしたり、お酒を飲んだり、女の子と騒いだりする一瞬の楽しさよりも、スタジアムに来ている 万人が「すごい」と驚いたり、喜んでくれるプレーができる。翔平が目指しているのは、それなのです。」 と書かれているのです。 大きな目標を掲げて、それに向かってひたすら努力しているので、細かな門限などの規則は必要なかったということなのです。 そんな話を聴いて私は盤珪禅師のことを思っていました。 戒は多くなって二百五十もの戒にまで増えてゆきました。 盤珪禅師のもとに二百五十の戒を守っているという僧がやってきました。 盤珪禅師はその僧に二百五十の戒を守ることは究極ではないといいました。 自分たちは律を守っているのだというのを表看板にしておいて、律宗は究極の教えだと思っているのは、他人に自慢するようなことではない、むしろ恥ずかしいことだというのです。 なぜかというと、もともと律というのは、決まりを破るお坊さんがいたから「〜をするな」という形で律ができたものです。 また新たに悪いことをするものが出るので、律が増えていったのです。 もともと戒というのは、お釈迦様の最初は、三帰依、仏・法・僧の三宝に帰依するという、それだけでよかったのです。 もっと言えばお釈迦様と一緒に修行しようという心さえあればよかったのでした。 盤珪禅師は、酒を飲まないものに飲酒戒はいらないのだと説かれました。 そのとおりです。 酒を飲んで周りに迷惑をかけたお坊さんがいたから、飲酒戒が出来たのでしょう。 もっとも酒の場合は、よっぱらって人に迷惑をかける以前に、アルコールを体に摂取することによって、精神の集中、瞑想ができなくなります。 酒を飲むというだけで、研ぎ澄まされた瞑想の心は乱れてしまいますから、飲まないに越したことはありません。 一所懸命に修行しようとしていれば、飲むなと言われなくても飲まなくなるものです。 戒を保つというのは、不心得なお坊さんのために作ったものだというのです。 もともと本来、生まれながらに具わっているのが不生の仏心です。 その仏心のままでいれば、戒を破る心など起こすはずがないというのが盤珪禅師の教えでありました。 大谷さんも多くの人に喜んでもらえるプレーをしたいという高い目標を持って努力しておられたので、門限も必要なかったのでしょう。 戒も意識しないのが理想でありますが、現実にはやはり道に逸れてしまいそうなことが多いので、私などはやはり戒を意識して暮らすように努力しています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1245回「戒は不要?」

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          第1244回『心とからだを磨く生き方』

          帯津三敬病院の名誉院長である帯津良一先生との対談本ができました。 本のタイトルは『心とからだを磨く生き方』、サブタイトルには「「よい呼吸」が人生100年を支える」と書かれています。 また本のオビには「トップ対談 禅×医療 医師と禅僧がやっている健康術 よく眠る・よく呑む・よく動く」と書かれているのです。 このオビの「よく呑む」だけは帯津先生のことで、私はほとんど呑むことはないのです。 目次を紹介します。 第1章は 「いつまでも健康でいるヒント」というテーマです。 医師と禅僧の養生法 呼吸法が元気のもと コラム1 調和道丹田呼吸法 吐く息に気持ちを込めると健康にいい 身体の中の汚れたものを吐き出す コラム2 貝原益軒が『養生訓』で伝えていること シンプルで効果的な真向法 コラム3 真向法とは コラム4野口体操とは 日常のちょっとした運動が大事 休肝日を作らなくても元気でいる方法 お酒を飲みたいから続けていること 脳梗塞には気をつけている 睡眠方法は自由でよい コラム5 岡田式静坐呼吸法とは 五木寛之流生活術 お寺の道場でもアレルギーが増えてきた 健康診断の数値が悪くても気にしない 認知症は怖がりすぎない YouTubeで法話をする コラム6 帯津良一氏が開発した新しい呼吸法「時空」とは コラム7 横田南嶺老師が力を入れている「イス坐禅」 認知症は病気というよりも老化現象 最新技術にも好奇心を持ち続ける というのが第一章です。 第二章は「がん治療を支えるホリスティック医学」というテーマです。 内容の詳細は省略しますが、 第三章が「品位ある生き方をめざす」で それぞれの死生観 仏教への関心が芽生えたとき 小学生でも坐禅になんとなく引かれていった 急に身近な人や自分に「死」が迫ってくると驚いてしまう 例外なくきれいな死に顔 ある「戦友」の選び取った死 私は「死後の世界がある」と信じています 六〇代以降は人生のゴールデンタイム まるで隣の部屋に行くように亡くなるということ 好きなことをやって、自然にあちらの世界に行く 最後に考えておきたいこととは となっています。 目次の小見出しを見るだけでも、おもしろそうに感じるのではないかと思います。 本の校正作業は、なかなかたいへんな作業ですが、どうにか無事に出版することができました。 対談の本ですので、校正は私が話した部分を担当すればいいので、自分だけの著作よりは半分の労力ですみます。 帯津先生のお話になったところには手を入れないようにします。 まえがきが帯津先生、あとがきを私が担当しました。 なんといっても帯津先生は、今年米寿をお迎えになります。 本に書かれているご経歴には、 「1936年埼玉県川越市生まれ。東京大学医学部卒業、医学博士。 東京大学医学部第三外科に入局、都立駒込病院外科医長などを経て、1982年、 埼玉県川越市に帯津三敬病院を設立。 2004年、池袋に統合医学の拠点、帯津三敬塾クリニックを開設。 日本ホリスティック医学協会名誉会長、 日本ホメオパシー医学会理事長。」 と書かれています。 私もそんなご経歴の帯津先生との対談の話をいただいて、驚き恐縮したのでした。 しかし、なんと帯津先生のまえがきを読んで更に驚いたのでした。 まえがきにはこう書かれているではありませんか。 「横田南嶺師は超一流の著名人です。 一度もお会いしたこともないのに、そのご尊顔はよく存じ上げていました。 それだけ各種のメディアに登場していたのでしょう。 その上に、鎌倉の円覚寺の管長さんという肩書きです。 どう見ても雲の上の人です。 だから、対談のお話があった時は、一瞬信じられませんでした。 私などではお相手は無理でしょう。と思ったのでした。 しかし、どうやら本当の話であるとわかった時は、そこはかと無いうれしさが漂ったものでした。 人間とは勝手なものです。 それでもある種の怖気は共存していました。」 と書かれているのには驚いたのです。 帯津先生の方がはるかに有名であることは明らかであります。 しかし、こういう一流の方というのは、こんな謙虚なお心をお持ちでいらっしゃるのであります。 そのあと「まえがき」には次のように書かれています。 「そして、まもなく、致知出版社の会合でごいっしょすることになりました。 しかし広い会場で1000人を超える大集会です。 まだまだ怖気が優先です。 この席では常に少し離れたところに居て、お会いしないことにしました。 しかし、ご老師様のほうが一枚上手でした。 一瞬の虚を突かれて声をかけられてしまったのです。 思わず、「あなたのような偉い方と対談する資格はありませんが、よろしくお願い申し上げます」 と挨拶してしまったのです。 そうしましたら、 対談が急に楽しみになって来ました。」 と書かれています。 この時のことはよく覚えています。 ずっと離れたところに帯津先生がいらっしゃるのを拝見して、すぐに駆け寄ってご挨拶させてもらったのでした。 「私のような者と対談してよろしいのですか」というようなことを仰せになったので、私は「先生、それは私が申し上げたいことです。私のような者と対談してよろしいのでしょうか」と申し上げたのでした。 そんな出会いがあって、都内で何度か対談を重ねたのでした。 私の「あとがき」には、こんなことを書いています。 「帯津先生に初めてお目にかかったのは知出版社の会合でありました。 帯津先生に接して、なんと自然な方だ、大らかな方だと感じました。 対談をしてみてなおのこと、帯津先生は自然体でいて、すべてを包み込むような大らかさがあって、それでいて強い信念を持っていらっしゃると思いました。 初めインターブックスから、帯津先生との対談の企画についてお話をいただいた時には、驚きました。 私にとって帯津先生は仰ぎ見る方であります。 円覚寺では毎年夏期講座を開催していますが、私の記憶では千人を超える方が集まって、円覚寺に入りきれなかったことが二度ありました。 その一回は、帯津先生が講師としてお越しいただいた時でした。 その時には私はまだ円覚寺の管長ではなく、修行道場の指導者という立場でしたので、会場には皆入いりきれないからということで、修行僧たちと共に帯津先生の講演を拝聴せずに、道場に帰っていったことを覚えているのです。 あのとき残念な思いをしたけれども、この度対談のお話をいただいて、帯津先生と何時間もかけて直にお話を聞けて、ご一緒に食事までさせていただいて至福の時を過ごさせていただきました。 私の生涯の中で忘れ得ぬ思い出となることは間違いありません。」 と書いておきました。 出会いというのは不思議なものです。 もう二十年も昔に、帯津先生の講演を聴けなかったと残念に思っていましたが、その分、それをはるかに上回る喜びがあるものです。 帯津先生に巡り会えた、それだけで大きな喜びとなりました。 出版社はインターブックス、私の初めての著書『いろはにほへと』を出してくれたところであります。 インターブックスの松元社長は、円覚寺で学生の頃から坐禅をなされていた方であります。 有り難いご縁であります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1244回『心とからだを磨く生き方』

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          第1243回「運」

          運が良い、運が悪い、そんなことを感じる場合があります。 その運というのは、そもそもどんなものでしょうか。 例の如く『広辞苑』で調べてみます。 「運」には「①天命」という意味があります。 方丈記の「おのづから短き運をさとりぬ」という用例があります。 天命というと、「①天の命令。上帝の命令。 ②天によって定められた人の宿命。天運。 ③天から与えられた寿命。天寿。」 という意味があります。 それから「運」には、 「②めぐってくる吉凶の現象。幸・不幸、世の中の動きなどを支配する、人知・人力の及ばないなりゆき。まわりあわせ。」 という意味があります。 これがよく使う「運が悪い」の運であります。 それに「③特に、よいめぐりあわせ。幸運。」があります。 「運が向いてくる」という用例があります。 運にまつわる言葉もいろいろあります。 運が開く 運の尽き 運は天にあり 運を試す 運を天に任せる などなどが『広辞苑』に出ています。 「運が開く」は、「あるきっかけから、運が好い方に向く」ことです。 「運は天にあり」とは「運は天にあって、人力ではどうすることもできない。」という意味です。 「運を試す」は、「運がいいか悪いか、試しにやってみる」こと。 「運を天に任せる」というと、「成行きにまかせる」という意味であります。 「運の尽き」となると「運命の終り。滅びる時の来たこと」となってしまいます。 妙心寺の山川宗玄老師の晋山式で、老師が法堂に御入堂になって、まず第一声あげられたのは「人間万事塞翁が馬」という言葉でした。 ある人が飼っていた馬が逃げてしまい、となりの国に行ってしまいました。 人々は皆これを気の毒に思ってなぐさめました。 ある占いに精通していた老人は 「これがどうして幸福にならないと言えようか、いや、きっとなる。」と言いました。 数ヶ月たって、その馬がとなりの胡の駿馬を連れて帰ってきました。 すると、人々は皆これを祝福してくれました。 しかし、その老人が言うことには、 「これがどうして禍となることがありえないだろうか、いや、きっとなる。」と言いました。 その老人の家には、良い馬が増えました。 するとその老人の息子は乗馬を好きになって乗馬中に落馬して太ももの骨を折ってしまいました。 人々はこれを見舞いました。 しかし、 「これがどうして幸福にならないと言えようか、いや、きっとなる。」と言いました。 それから一年が経ち、胡の人が大軍で砦に攻めてきました。 体の丈夫な若者は、弓を引いて戦いましたが、砦の近くの人で、死者は10人中9人になりました。 この老人の息子だけは足が不自由なことが理由で、父子ともに無事でした。 人生はどうなるのか分かりません。 こういうのも運というのかも知れません。 この老人の息子にとって幸運だったことが、他の人にとっては不運となっていることもあるでしょう。 野球というスポーツも運がいいとか、悪いとかあるように感じてしまいます。 栗山英樹監督の『信じ切る力』にも 「野球は運が左右するところがあるのは、事実です。 例えば、本当は低めにフォークボールをワンバウンドで投げようとしたのに、高めに抜けてしまった。 ところが、バッターもそれを想像していなかったので、ストライクになって見逃し三振になった。 これこそ、たしかに運ですが、僕はその運をコントロールしたいと思いました。 コントロールできないかもしれないけれど、選手のためになんとかしてあげたいと思ったのです。 運さえもコントロールできるほどの努力をすればいいのではないか。 運さえもコントロールできるほどの生き方はできないものか。 運が左右される要因を見つけなければいけないと思ったのです。」 という言葉があります。 「運さえもコントロールできるほどの努力をすればいいのではないか。」という言葉に感銘を受けて、対談の折にも紹介したものでした。 運を左右する要因というのは何でしょうか。 これも栗山監督の『信じ切る力』には、 「神様が手伝ってくれるところまで、やり切ったのか、と問うてみるべきだと思うのです。 求められていることは、そんなに難しいことではありません。 昔、おばあちゃんが言っていたような「嘘をつかない」「人を思いやる」 「苦しくなっても、誰かのために頑張る」でいい。 すごくシンプルな、人間として当たり前のことです。 でも、これをみんなが守ったら、きっとみんながもっと前に進めると思うのです。」と書かれています。 「運鈍根」という言葉もあることを思い出しました。 こちらも『広辞苑』に載っています。 「好運と愚直と根気。 事を成しとげるのに必要な3条件としてあげられる。」と解説されています。 運を幸運と解釈されていますが、必ずしも幸運だけとも限らないでしょう。 不運や逆境の中から道を切り開いてきた方もいらっしゃるものです。 どのように切り開くかというと、それが「鈍」と「根」、即ち愚直と根気だというのです。 「鈍」というのは『広辞苑』では、 「①刃物の切れあじが悪いこと。 ②にぶいこと。のろいこと。 ③つまらないこと。ばかげていること」 という否定的な意味が書かれています。 「愚鈍」というと、「頭の働きが悪く、することもまがぬけていること。のろま」という意味が書かれていて、よい意味ではないようです。 「愚直」も「正直すぎて気のきかないこと」とされています。 しかし、禅で使う「愚」というのは、悪い意味ではありません。 禅では「その智や及ぶべし、その愚や及ぶべからず」という『論語』の言葉もあって、高い次元でつかうことが多いのです。 『論語』に「仁者は其の言や訒」という言葉があります。 「訒」というのは「口のきき方が重々しく、言いよどみがちなさま」を言います。 禅の語録にも出てくる禅問答にしても、何も丁々発止の如く、すぐに答えがでるだけがいいのではありません。 宝峰の元首座という方は、口を開いて何か言おうとして、五斗のお米を炊いて炊き上がった頃になってようやく答えが出たというのです。 私も修行道場で修行していた頃に、先代の管長から「閑古錐」という言葉をいただいていました。 閑古錐は、『禅学大辞典』には「閑はしずかなの意。 古錐は古いきり。世事俗情にひきまわされない悠悠たる真の道者。真実の佛者に対する尊称。 閑道人」という解説があります。 尖った錐ではなく、すり減ってしまったような錐になるようにと諭されました。 今思うと有り難いお言葉です。 そうして根気よくコツコツ努力してゆくことしかないのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1242回「人は変われる」

          栗山監督との対談を終えた次の日には、大本山妙心寺の管長さまの晋山式がございました。 こちらは円覚寺派の管長として参列いたしました。 新しい管長様は、岐阜県美濃加茂市伊深の正眼寺の山川宗玄老師でいらっしゃいます。 栗山監督との対談の折に、栗山監督が、はじめに川上哲治さんの話をなされました。 川上さんというと、巨人軍の監督として有名な方です。 王貞治さんや長嶋茂雄さんらを率いて読売ジャイアンツの監督として、「V9」(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成された方です。 その川上さんが、よく禅寺で坐禅していたことが知られています。 その坐禅に通っていたのが伊深の正眼寺僧堂で、当時の師家であった梶浦逸外老師に参禅されていたのでした。 栗山監督は、そんなことにもとても関心をお持ちでした。 栗山監督が、日本ハムの監督になられたときに、読んでもっとも参考になったというのが川上さんの最後の著書『遺言』だったと仰っていました。 その梶浦老師にもついて修行されて、正眼寺の老師になられた山川老師が、このたび妙心寺の管長に就任なされることをお伝えしました。 そんな山川老師の晋山式にお招きいただくのは光栄なことです。 その日の午後は、八幡市の円福寺僧堂に参りました。 円福寺の政道徳門老師とは懇意にしてもらっていて、私が取り組んでいるイス坐禅にご興味も持ってくださり、どのようにしてやるのかご下問になったことがありましので、今度お寺に参りましょうと約束していたのでした。 そこで妙心寺の儀式を終えて、その午後に参りました。 一時間ほど、いつものイス坐禅の要領をお伝えしました。 イスでどのように坐るか、イスで坐ることが、どうしたら坐禅になるのか、最近研究してきたことをお伝えしたのでした。 更に今年も多くの修行僧が入門してきたとのことだったので、更に一時間ほど股関節をほぐして坐禅をしやすくなるワークを行ってきました。 質疑応答もいれると三時間近くかかりました。 円福寺の僧堂にも政道老師を慕って、多くの修行僧達が集まっています。 みな熱心で、そして何か暖かな雰囲気がしていて、お参りしてもこちらが気持ちよくなります。 それから、政道老師が雲水の一人一人にお声をかけられる様子が、なんとも我が子に声をかけておられるかのごとき、慈愛が感じられました。 今の時代には、いろんな修行僧が入門してきます。 ここ最近の変化は大きなものです。 指導する方も今までのようなやり方では難しい状況が出てきます。 講習が終わった後も政道老師といろいろとお話させてもらいました。 やはり一人一人の修行僧に真摯に向き合っておられる老師のお姿に感銘を受けました。 いろいろ話してお互いに共通して思ったことは、「人は変われる」ということです。 いろんな修行僧がいて、今はたいへんだなと思うことがあっても、どこかで変わることがあるものです。 それを信じて、今難しいからといって指導する側があきらめてはいけないということであります。 これは栗山監督のご著書『信じ切る力』にも書かれています。 対談の折にも紹介した言葉にこんなのがあります。 「たくさんの選手に接してきたわかったことは、人は絶対に変われる、ということです。」 という言葉です。 これは、私が今年出版した『はじめての人に送る般若心経』でも、最も伝えたいことです。 「空」という空しく、寂しい感じがするかも知れませんが、これは固定した変わることのない実体はないということなので、逆をいうと、いかようにも変化しうるということでもあるのです。 今ダメだからといってずっとダメなままで続くとは限りません。 栗山監督の『信じ切る力』にも 「自信をなくしている選手は、今なくしているだけなのです。 もともとは自信を持っていたのです。 だから、それを思い起こさせるようにしていました。」 と書かれています。 失っていた自信をどう取り戻してもらうか、どう気づかせてあげるかが、指導する者の務めだと思っています。 何かをしてあげるといっても素晴らしいものを誰しも本来もって生まれています。 ただ気がついていないだけなのです。 これも『信じ切る力』には、こんな言葉があります。 「僕は、「監督は気づかせ屋さん」という表現をよくしていました。 本人は気づく。 でも、気づかされている感じではない。 実は監督はそう持っていくのだけれど、本人は自分で気づいたと思っている。これが、ベストな形です。」 ということです。 指導するということは、そんな気づかせ方ができるように日日修行するのだと思っています。 それからこんな言葉もありました。 「子どもの頃は、誰しも1000くらい、「これだけは誰にも負けたくない」というものを持っているのだと思います。 ところが、生きていくにつれ、年齢を重ねるにつれ、少しずつ捨てていってしまう。 そして大人になって、すべてを捨ててしまう人がいる。 でも、これだけは絶対に負けたくない、というプライドはとても大切です。 それがあるかどうかで、人生の伸びしろは変わる」ということです。 どんな人にも他の人には決してない素晴らしいものがある、それを信じてあげることがまず第一であります。 信じることは修行の大きな力になりますし、また信じてもらえることも力になるものです。 このことも対談で話したことでした。 『信じ切る力』にも栗山監督は「誰かが本当に自分のことを思ってくれていたり、信じてくれていたりすることが、いかに人に大きなパワーを与えることになるか。 ダメだった僕は、誰かに信じてほしかった。 信じて使ってほしいとずっと思っていました。 だからこそ、信じてもらえたことが、うれしかった。 ホッとしたし、安心したし、頑張れると思いました。」 と書かれています。 信じてくれているのだと気がつくことによっても人は変われるものです。 信じてあげたい、どんな修行僧に接してもそう思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1242回「人は変われる」

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          第1241回「思いがけないしあわせ – 僥倖 –」

          「僥倖」という言葉があります。 『広辞苑』には「思いがけないしあわせ。偶然の幸運。」という解説があります。 「僥倖に恵まれる」というと、「おもいがけない幸せに恵まれる」ことを言います。 今月二十一日のこの管長日記に、「人生は重荷を背負って長い旅を行くようなものだけれども、時にその苦を忘れるようなうれしいことがあると」書いたのでありますが、そんなうれしいことが僥倖であります。 思えば、昨年WBC、ワールド・ベースボール・クラシックで日本代表を優勝に導いた栗山英樹監督に出会うことができたのもそんな僥倖だと思いました。 致知出版社の企画で、対談させてもらったのでした。 有り難いご縁でありました。 こんな僥倖は、きっともう二度とないだろうと思っていました。 ところが、先日再びの僥倖に恵まれたのでした。 花園大学の創立記念日で、栗山監督と対談させてもらったのでした。 花園大学は小さな大学ですが、このところ野球部が人気で、百名を超える部員がいるのであります。 昨年は京滋リーグで優勝して全国大会に出て、後楽園で試合をしたほどなのです。 創立記念日の対談は、一昨年大学が創立百五十年を迎えた時に、花園大学の卒業生でもあるソフトバンク社長の宮川潤一さんと対談させてもらったのが始まりでした。 昨年も創立記念日に対談をしようと、仏教学部の特別教授に就任された佐々木閑先生と対談したのでした。 今年は、学長や学園長から、是非栗山監督をお招きできないだろうかとご提案をいただいたのでした。 栗山監督のお忙しいことは重重承知していましたので、私は内心「それは無理だろう」と思いました。 こんな小さな大学に栗山監督をお招きするのは難しいと思ったのでした。 また、創立記念日の翌週には円覚寺で講演もお願いしているところでした。 円覚寺の講演もかなり無理を言ってお引き受けいただいているところを、今度は更に大学からお願いするのは、とても難しいと思ったのでした。 しかし、大学の学長や学園長から頼まれたので、ダメでもともとと思って、栗山監督に打診してみたのでした。 そうしましたら、なんとこころよくお引き受けくださったのでした。 かくして二度目の僥倖に恵まれたのでした。 対談の前の日まで私は修行道場の摂心という修行に専念していました。 それを終えて翌日京都に向かいました。 大学側も、かの有名な栗山監督をお出迎えするというので、みんなピリピリしている雰囲気でした。 対談にあたっては、その方の著書をよく読み込むようにしています。 昨年の対談の折にも『栗山ノート』をはじめ何冊かの本を読んでいました。 その後『栗山ノート2』が出版され、更に今年の三月に『信じ切る力』という本が、講談社から出版されています。 この『信じ切る力』という本が素晴らしいのです。 内容も構成も素晴らしい本です。 私はこの本をもとに対談をしようと決めました。 対談といっても私は大学側として監督をお迎えする立場ですので、栗山監督からいろんな話を聞き出す役に徹しました。 対談に際してのレジュメやパワーポイントなども作成しておきました。 対談は九十分という長い時間ですし、それに学生や一般の方々も大勢聴きに来ていますので、まさに真剣勝負であります。 どの話からどの話に展開して、そして最後どのように終わるか、何日もかけて考えて構成をねりました。 1、 WBC優勝から、昨年の月刊『致知』対談までの振り返り 2、 WBC優勝からの変化について 3、 大谷翔平選手の活躍について。大谷さんの人柄など。 4、『信じ切る』ことについて 臨済宗の祖、臨済禅師も繰り返し説いたのは、 「自らが仏であることを信ぜよ」ということでした。 5、夢は正夢と、前にお目にかかった時に書いてくださいましたが、どうしたら夢は正夢になるのでしょうか? 6、最後に、今の若者に向けてメッセージをお願いします。 という構成を考えました。 またこの対談については大学からYouTubeでも公開される予定なのでご覧いただければと思います。 会場には百名ほどの野球部員や、一般の方々、それに大学の学長や理事長などの要職の方、それに職員の方々などで、大教室も満席でありました。 お互いに初対面ではないので、和やかに対談は始まりました。 昨年のWBC優勝からお互いの対談までを振り返って、私はその後の監督の変化について聞いてみたいと思っていました。 WBC世界一を達成した監督して、とても有名になられました。 テレビなどのメディアにもよくお出になっていました。 また新たな世界をご覧になったのではないかと思ったのでした。 しかし、この答えは、対談の前に読んだ、新著『信じ切る力』にはっきり書かれていました。 なんと「人はこうやってダメになっていくということが明確にわかった」と書かれていたのです。 この言葉には感動しました。 私もかつて先代の管長から「拍手は人をダメにする」と言われたことを思いおこしてお話させてもらったのでした。 対談でも「今回ほど人に褒められたことはなかった」と仰っていました。 でもそれが人を勘違いさせてしまうから恐ろしいのです。 常に自分を見つめて謙虚であること、私はこの言葉にも栗山監督の素晴らしさを思ったのでした。 対談では多くの方が大谷翔平さんのことについても知りたいだろうと思って、大谷さんについてうかがいました。 大谷さんの貴重な映像も見せていただいて、私もこれには感動したのでした。 信じる、信じ切るということについては、私も仏教の立場から五力の話をさせてもらいました。 修行をするには五つの大事な力があるのです。 五力とは「悟りに至らしめるはたらきのある、すぐれた五種の勢力。」で 信(信仰) 勤(精進) 念(強く思うこと) 定(心の安定) 慧(智慧) の五つです。 栗山監督のお話をうかがっていて、まさにこの五つを具えていらっしゃると感じました。 まず信じる、信じ切るのです。 信じるだけではだめで、そのために努力しないといけません。 精進努力であります。 大谷選手の自信は、誰にも負けない精進努力から来ているとお話を聞いてわかりました。 それから念というのは心に強く思うことです。 『信じ切る力』にも 「強く思う、願い念じる。それが大事なのです。稲盛和夫さんは著書で「カラー映像で見えてくるまで思い続けよ」と書かれていました。 そうして心を静かに落ち着かせること、栗山監督はふだんの暮らしでもお掃除を大事にしたり、古典を勉強したり、心を静かに落ち着かせる努力をなさっています。 それでこそ、智慧という正しい判断、決断ができるのだと思いました。 私は対談にあたって、『信じ切る力』を何度も繰り返し読んで、良い言葉だと思うところには付箋をつけると、付箋でいっぱいになりました。 付箋をつけたところの言葉はノートに書き出して資料を作りました。 そうして付箋でいっぱいになった『信じ切る力』を手にして対談に臨んだところ、なんと栗山監督は私の『はじめての人に送る般若心経』を手にしておられました。 しかも栗山監督も付箋をいっぱいつけておられたのでした。 私の本を読んでくれている、これだけで人はうれしくなるものです。 対談で私の般若心経の本を読んでも「空」ということがよく分からないと仰いました。 空は分かるという対象ではないので、わからないでいいのです。 分かったということこそ「空」から遠ざかるのです。 私は、監督こそ「空」を体現していらっしゃいますと伝えました。 そして『信じ切る力』にある次の言葉を読んで伝えました。 「いい方向に向かうとき、持っている魂という玉が、きれいに磨かれた状態になっていくのです。誰かのために、何かのために、チームのために、ファンのために・・・・・・。そんな感覚で「私」が消えていく。」 と書かれているところを対談で読み上げました。 この「私」が消えていくのが「空」なのですと伝えたのでした。 もっともそうなるには、あらゆること、できる限りのことをし尽くしたからこそであります。 最後に栗山監督は、信じるについて、自分自身を信じることの大切さを説いてくださいました。 それこそまさに我々の宗祖臨済禅師が繰り返し「今の修行者がだめなのは、自分を信じ切れないからだ」と説かれているのに一致して感激しました。 そんな話にたどりついたところでちょうど終わる時間の一分前でした。 最後に学園長の挨拶があって、ぴったり時間どおりに終わることができました。 終わった後のご予定もあるとうかがっていて、時間どおりに終えないといけないとそれには気を使いましたので、ちょうど終わってホッとしたのでした。 大学の総長室で御抹茶を振る舞って監督をお見送りしたのでした。 野球部の監督助監督にも会ってもらうこともできました。 多くの方に喜んでもらえた対談となりました。 私も大学のお役にたてて良かったとしみじみ思いました。 もっともおそばでお話を聞けた私が一番の僥倖に恵まれたと思ったのでした。 さて本日五月三十一日、円覚寺ではその栗山監督のご講演があるのであります。 これまた楽しみなのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1241回「思いがけないしあわせ – 僥倖 –」

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          第1240回「合掌」

          お寺にいると、よく手を合わせています。 合掌してお経を読む、人に逢うと合掌する、合掌して食事をする、合掌してお茶をいただく、いろんな時に合掌をしています。 改めて合掌とは何だろうか、岩波書店の『仏教辞典』を調べてみますと、 「顔や胸の前で両手の掌を合わせること。 インドで古くから行われてきた敬礼法の一種。 インド、スリランカ、ネパールなど南アジア諸国では、世俗の人々が出合ったときには、互いに合掌する。 いわばわが国のお辞儀に相当する。 中国・朝鮮・日本などでは、仏教徒が仏や菩薩に対して礼拝するとき、この礼法を用いる。 中国で著された経典の注釈書によると、両手を合わせることは、精神の散乱を防いで心を一つにするためである、と説明されている。」 と書かれています。 南アジアの諸国では日本でのお辞儀のようになされていて、中国朝鮮日本などでは、佛さまや菩薩に対して礼拝するときに用いるとされているのです。 更に『仏教辞典』には、 「インドでは、右手を清浄、左手を不浄とみなす習俗があり、これを受けて密教では、右手を仏界、左手を衆生界、5本の指を地・水・火・風・空の五大に配し、合掌は仏の五大と衆生の五大の融合を象徴するとし、成仏の相が示されていると解釈する。」 と合掌の意味が書かれています。 かつて私も鴻盟社から『合掌のこころ』という冊子を作ったことがありました。 そこには澤木興道老師の『観音経講話』にある言葉を引用しました。 「西洋人はラジオを発明したり飛行機を発明したりしたが、東洋人はその代りに合掌を発明した。 この合掌を発明するために、東洋人はどれほど長い間瞑想したか分らない。 実に微妙なことで、理屈ではない。 人間、こうやって合掌したら、夫婦喧嘩もおさまるし、のぼせも下る」と説かれています。 沢木老師は言葉も通じない外国に出かけても、「こうやって手を合せると仲よしになる。そこで何処でも掌を合わせて歩き廻った。これは世界共通の敬礼で、こうやって合掌されて腹を立てる者はおらぬ」と合掌して過ごされたと仰せになっています。 今でも食事の時に合掌するのは、よく見られる光景です。 大法輪閣に『合掌と念珠の話』という本があります。 昭和五十五年に刊行された伊藤古鑑先生の本であります。 そこに次のように書かれています。 「つねに、合掌とは礼拝の時にのみ用いる一の形と解釈せられておりましたが、私はそのような狭い意味のものではなく、少なくとも、我々仏教信者にとっては、合掌に依って、その内面生活の全体を表現し得るものと思うのであります。 僅かに五本の手、僅かに両の掌ではありますけれども、そこに、我々の内面生活の全体が表現されるのであります。 合掌のときには、おがみます。ぬかずきます。跪きます。 他のいろいろのことを思わないで、ただ一心にみ仏を礼拝するとき、両の掌は合わされ、五本の手は正しく舒べられて、そこに信の心を孕みます。 相手のあらゆるものの価値を見出して、そのものの尊さを知ることが出来るのであります。 ものの尊さ、有り難さを知ることが出来るところに、純真の宗教的信仰を体験することが出来るのではありますまいか。」 更に 「合掌は両の掌を合わせることで、ただ単に、身業の一部分に表われた形に過ぎないものであります。 故に、形だけを引き離して、冷やかな眼で以って論じたならば、別に深い、尊い、有り難いものではありません。 けれども、そこに合掌するものの全生命を打ち込んで、 一心不乱になって合掌するときには、これほど、尊いものはありません。 これほど、有り難い心になれるものはありません。 仏教信者の全生命は、単なる合掌という形に依ってのみ表現せられ、それに依って、充分に、仏教信者であるということが解るのであります。 合掌の原理として、むずかしいことを説くよりも、如実に、み仏を礼拝すれば良いのであります。 一心不乱になって、自己の全生命を打ち込んで合掌礼拝すれば、それで充分に合掌の原理は説明されているのであります。 仏教信者が、ほんとうに、心をこめて、み仏をおがみ、合掌の姿になっている時には、もはや、おがむという心もありません。 おがむ自身もなければ、またおがまれる本尊の如来もありません。 ただ単に、合掌の中に、何もかも、全体がこもってしまっているのであります。」 と説かれているのは禅の立場から見事に合掌の尊さを表しています。 伊藤先生は花園大学の教授も務められた方でいらっしゃいます。 一心に合掌する姿は尊いものであります。 合掌は、本人のみならず、その姿を見る人にも仏心を呼び起こしてくれるものです。 坂村真民先生に「真美子の合掌」という詩があります。 真民先生の三女の真美子さんの幼い頃を詠った詩です。 だまってみていると  ほとけさまに  ごはんをあげて  ひとりしずかに  おがんでいる  わたしがみていることを  ひょいとしって  はずかしがって  にっこりした  その顔のよさ (『坂村真民詩集百選』より) このように子どもが無心に合掌する姿もまた尊いものです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1239回「『無門関』への思い」

          拙著『無門関に学ぶ』のあとがきには、次のように書いておきました。 「初めて触れた禅の書物が『無門関』でした。 初めて書店で注文した書物が『無門関提唱』でした。 修行道場で初めて講義した書物が『無門関』でした。 管長に就任して初めて夏期講座で講義したのも『無門関』でした。 『無門関』の漢文に心躍らせ、暗誦し、書き写し、幾度も講義してきたのでした。思うに、我が人生はこの『無門関』と共にあったと言ってもよい気がします。」 というものです。 その詳しいいきさつについては、本書のまえがきで書いておいたのでした。 そのあと、 「『無門関』という禅の代表的な書物と思い込んでいましたが、近年ディディエ・ダヴァン先生の研究によって、いろんなことが明らかになってきました。 ダヴァン先生の著書『帰化した禅の聖典 『無門関』の出世双六』(平凡社)のカバーには、「自国ではほぼ無名なのに海外でブレークした俳優や歌手がいるように、『無門関』は中国生まれながら、尊敬される禅籍の地位に上がったのは日本に来てからであった。…」と書かれています。 ダヴァン先生の本によると、『無門関』を著した無門慧開禅師は、時の皇帝理宗から金襴の法衣と仏眼禅師の号を賜ったほどの方でありますが、『碧巌録』の圜悟克勤禅師や、『従容録』のもととなる百則の頌古を著した宏智正覚禅師ほどの評価はされていなかったようなのです。 理宗に召されたのも宮中に雨乞いの儀礼を行わせる為であり、祈祷してまもなく雨が降ったので、金襴の袈裟などを賜ったのでした。」 と書いておきました。 ディディエ・ダヴァン先生には小川隆先生のご縁で、何度かお目にかかっています。 ダヴァン先生の著書には、 「『碧巌録』と意地悪く比べてしまうと、『無門関』がどれほど知られていたのか心配になってくる。 一言で答えてしまえば、ひっそりと潜伏していたと言える。 具体的には、中世の禅僧の作品などに『無門関』は時々言及されているが、作成された厖大な中世禅僧の書籍からすると、その記述はほんのわずかと言わざるを得ない。 虎関師錬 (一二七八―一三四六)によって著された最初の日本仏教史書とされる『元亨釈書』には、無本覚心の伝記があり、そこに当然ながら『無門関』を伝来したことが記されている。 しかし、いわゆる「五山文学」のなかに探しても、無本覚心に関する記述のついでに『無門関』の名が見られるのは、管見のかぎりでは三、四ヶ所ほどしかない。 その一方、同じ五山文学で『碧巌録』に関する記述(正確には『碧巌集』として記されることが多いが)を見るとやはり多数であることが確認できる。 しかも、『無門関』は無本が持って帰った書物としてしか登場しないのだが、『碧巌録』は読まれているテキストとして登場する。 ここでも、『碧巌録』と比較すると『無門関』の慎ましさが際立つのである。 まとめると、『無門関』は中世前半に存在していたのは間違いないが、地味な存在であったと言わざるを得ない。」 と書かれています。 鎌倉時代にはほぼ無名だった『無門関』だったらしいのですが、それが室町の末期以降に幻住派という一派と曹洞宗において重視されていったというのです。 禅の修行の中心的な禅籍となっていったのでした。 寛文六年(一六六六)に刊行された『鼇頭無門関』は、本文の上部の空白に註釈がぎっしり書かれているものです。 私も修行道場では、この『鼇頭無門関』を用いて講義をしたのでした。 私の『無門関に学ぶ』のあとがきにダヴァン先生の御高著について触れているので、ダヴァン先生にも本を謹呈させてもらいました。 ダヴァン先生からご丁寧なお礼状を頂戴しました。 私などは、単に自分自身の体験から思い入れを持ってしまっているのですが、やはり学問的な考証も大切にしないと本質を見失ってしまいます。 白隠禅師が趙州の無字を工夫されたことや、ご自身も趙州の無字を用いて指導されたことなども、これは『無門関』の第一則にあるからではなく、大慧禅師以来の看話禅の公案だからであった、『無門関』からの影響であるとは決して言えないというのは、新たな学びでありました。 明治以降は釈宗演老師や南天棒老師の提唱が刊行されて多くの参禅者のよすがとなったものです。 山本玄峰老師の『無門関提唱』は、もっとも提唱らしい提唱といっていいでしょう。 それはまさしく玄峰老師が、ご自身の修行体験から読み込まれたものなのです。 よく提唱というのは、単なる講義とは異なって、師家が自身の体験を披瀝するものだと言われますが、その通りなのであります。 玄峰老師の無門関は、禅の修行のよすがとなる書物であります。 私も中学の頃、この本を書店で注文して購入して、いつも座右に置いて坐禅していたものでした。 また、多くの参禅者に力を与えたものでしょう。 飯田欓隠老師の『無門関鑚燧』も修行者にとっては有り難い書であります。 美術品などでもかつて無名だったものが、後に有名になることもあるものです。 いろんな変遷があるのが、自然なのでしょう。 私も『無門関に学ぶ』を上梓して、『無門関』はより一層特別な思いのこもった書物となったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1238回「無我の一法のみ」

          白隠禅師の『遠羅天釜』に、こんな言葉があります。 現代語訳を禅文化研究所発行の『遠羅天釜』から引用します。 「お釈迦さまが迦葉菩薩に質問なされた、 「どのような修行をすれば、大涅槃に至ることができるか」と。すると迦葉菩薩は、五戒十善、六度万行など、ありとあらゆる、戒法、善行を逐一挙げて答えたけれども、お釈迦さまはすべて許可なさらなかった。 そこで迦葉が「では、どんな修行をしたら涅槃に契うのでしょうか」とお尋ねすると、お釈迦さまは 「ただ無我の一法のみ、涅槃に契うことを得たり」とお答えになった。」 ということなのです。 「五戒」というのは、岩波書店の『仏教辞典』には、 「在俗信者の保つべき五つの戒(習慣)。 不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)の五項からなる。原始仏教時代にすでに成立しており、他の宗教とも共通した普遍性をもつ」ものとして説かれています。 十善戒は「不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見」です。 その内容は、 第一不殺生は、すべてのものを慈しみ、はぐくみ育てること。 第二不偸盗は、人のものを奪わず、壊さないこと。 第三不邪婬は、すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことのないこと。 第四不妄語は、偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることのないこと。 第五不綺語は、誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさないこと。 第六不悪口は、人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことのないこと。 第七不両舌は、筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さないこと。 第八不慳貪は、仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらないこと。 第九不瞋恚は、不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにしないこと。 第十不邪見は、すべては変化する理を知り心を正しく調えること。 というものです。 六度満行は、六波羅蜜です。 六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。 一番目は布施、施しです。何かを施してあげることです。 物を施すだけでなく、言葉をかけてあげることも施しであり、笑顔をふり向けることも施しです。 二番目は、持戒で、良い習慣を保つことです。 三番目は、忍辱で、堪え忍ぶことです。 どんな辛いと思っても一時の事だと冷静に今の状況を受け入れることです。 四番目が、精進で、怠らずに努め励むことです。 五番目が、禅定で、心を静かに調えることです。 六番目が、智慧で、正しくものを観ることです。 涅槃に到る為には、これらもろもろの修行が必要ですと迦葉尊者がお答えになったのですが、お釈迦様は許しませんでした。 そこで迦葉が「では、どんな修行をしたら涅槃に契うのでしょうか」とお尋ねすると、お釈迦さまは 「ただ無我の一法のみ、涅槃に契うことを得たり」とお答えになったのでした。 これは実に仏法の核心をついた一言です。 これに対して白隠禅師は次のように語っています。 「しかし、この無我には二つがある。ここに一人の男がいる。心身が怯弱でいつも人を恐れているので、できるだけ自分を殺して人と接している。 罵られても瞋らず、撲られても我慢、馬鹿のようになって「事なかれ」で通し、これが無我だと思っている。 しかし、これは真正の無我ではない。 ましてや、このような無我になって念仏し、その功力によって往生成仏しようとすることは、真正の道ではない。 往生せんとする者は何者ぞ、成仏せんとする者は何者ぞ、みな、我ではないか。」 と説かれています。 単に無我を装っているだけではだめなのです。 そこで白隠禅師は、 「真の無我に契当しようと思うならば、何と言っても、まず懸崖に手を撤して絶後に再び蘇らねばならぬ。 そこで初めて、常・楽・我・常の四徳をそなえた真我を発見するであろう。 懸崖に手を撤するとはどういうことか。 誰も踏み入らぬ山中で道に迷い、底のないような高い断崖に出た。 絶壁にはすべりやすい苔が生え、足の踏み場もない。 進むことも退くこともできぬ。ただ頼むところはわずかに生えている蔦葛。 これにすがって、ようやくしばらく命を助かった。 しかし、手を離せば、たちまち真っ逆さまである。 修行もこのようにして進めて行かねばならぬ。 一則の公案に取り組んでいけば、やがて思う心も失われ、からりとして何もなくなり、さながら万仭の懸崖に立たされたようになる。 絶体絶命というところまで推しめていって、そこで忽然として、公案も我ももろともに打失する。 これを懸崖に手を撤する時節と言う。」 と説かれているのです。 無我のふりをするのもまだまだでしょうし、そうかといって一所懸命に修行すると、これまた我になってしまうこともあるのが人間であります。 それよりも妙好人という方の言葉に「無我」を感じるのであります。 因幡の源左さんにこんな話があります。 源左さんが五十代の頃、火事に遭って、丸焼になってしまいました。 願正寺の住職さんが、源左さんに「爺さん、ひどいめに逢ふたのう。こん度は、弱ったろう」と言ったところ、 慰められた源左さんは、 「御院家さん、重荷を卸さして貰ひまして、肩が軽うなりましたいな。前世の借銭を戻さして貰ひましただけ、いつかな案じてごしなはんすなよ」と言ったのでした。 「重荷を卸さして貰ひまして、肩が軽うなりましたいな」という言葉は、痩我慢して言ったのではないでしょう。 蜂に刺されても源左さんは、 「われにも人を刺す針があったかいやあ、さてもさても、ようこそ」と言ったのでした。 また夕立に遭ってびしょ濡れになっても、 「ありがとう御座んす。御院家さん、鼻が下に向いとるで有難いぞなあ」と言ったのでした。 こんな言葉に無我を感じるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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          第1237回「煩悩を消したら…」

          毎日新聞の川柳の欄に先月の末頃、 「煩悩を消したら僕も消えちゃった」 という句がありました。 私も、いくら坐禅しても雑念も妄想も消えませんという方に、雑念や妄想が消えたら、あなたもなくなってしまうのではありませんかと申し上げることがあります。 では「煩悩」とはそもそも何でしょうか。 まず『広辞苑』を調べてみると、 仏教語として「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の心理作用。 貪・瞋・痴・慢・疑・見を根本とするが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれる。 「貪・瞋・痴・慢・疑・見」が六煩悩と言われています。 はじめの貪瞋癡は三毒とも言って、煩悩の根本です。 慢は慢心、疑は文字通り疑い、見はあやまった見解です。 「煩悩の犬は追えども去らず」という言葉があって、 「煩悩は人につきまとう犬のようで、いくら追い払ってもすぐ戻ってきて、取り去ることはむずかしい」という意味です。 岩波書店の『仏教辞典』で詳しく調べてみます。 煩悩は「身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称。 輪廻転生をもたらす業(ごう)を引き起こすことによって、業とともに、衆生を苦しみに満ちた迷いの世界に繋ぎ止めておく原因となるものである。 外面に現れた行為(業)よりは、むしろその動機となる内面の惑(わく)(煩悩)を重視するのが仏教の特徴であり、それゆえ伝統的な仏教における実践の主眼は、業そのものよりは煩悩を除くこと(断惑)に向けられている。」 と解説されています。 更に「初期仏教」では「阿含経典では、随眠(ずいめん)・漏(ろ)・取(しゅ)・縛(ばく)・結(けつ)・使(し)などさまざまな呼称のもとに、煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが、それらの中で代表的なものは<貪>(貪欲。むさぼり)、<瞋>(瞋恚。にくしみ)、<癡>(愚癡・無知)のいわゆる三毒(さんどく)である。 四諦説の枠組みのなかでは、飽くことを知らない欲望(渇愛(かつあい))、即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる。 十二支縁起(十二因縁)説においても、渇愛は生死の苦しみをもたらす原因として重視されるが、そのさらに根源には、仏教の道理に対する無知(無明)、即ち癡があるとされるのである」 と説かれています。 更に「部派仏教」では 「説一切有部のアビダルマ(阿毘達磨(あびだつま))では、煩悩を根本煩悩と随煩悩に大別する。 <根本煩悩>とは、諸煩悩中特に根本的とされる貪・瞋・慢・疑・無明(癡)・(悪)見の六随眠を指す。」 とあって、そこから更に詳しく百八の煩悩が説明されています。 「大乗仏教」では 「このように、多くの煩悩を数え、それらを断ずることによって輪廻から解放されようとするのが、初期仏教以来の仏教の基本的立場であったが、大乗仏教になると、煩悩を実体視して迷いの世界と悟りの世界とを峻別する考え方そのものが空の立場から問い直されるようになり、<煩悩即菩提><生死即涅槃>などの考え方が前面に打ち出されるようになった。」 と解説されています。 そして「こういった考え方は、迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする菩薩思想と密接な関係があり、瑜伽行派の無住処涅槃(無住)の説も、この関連で理解されるべきものである。」 と説かれています。 「迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする」というのは、まさに大乗仏教の精神そのものです。 禅でもこの「迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続ける」ことを重視しています。 更に『仏教辞典』には、 「一方、衆生の心は本来光り輝く清らかなものであり、それを汚している煩悩は副次的なものに過ぎない(心性本浄 客塵煩悩)のだから、煩悩の穢れを除くことによって心は本来の清浄性を回復することができるのだという思想は、一部の阿含経典以来存していたのであるが、如来蔵思想に至って、特に重視されるようになったものである。」 と解説があります。 六祖壇経に五祖のお弟子の神秀が作ったという偈があります。 身は是れ菩提樹、 心は明鏡の台のごとし。 時時に勤めて払拭して 塵埃に染(けが)さしむること莫れ。 というものです。 これは心の本性は鏡のように清らかなもので、塵やほこりのように煩悩がついてしまわないように、心の鏡を常に磨いていなさいという意味なのです。 それに対して六祖となった慧能は、 菩提は本より樹無し、 明鏡も亦た台に非ず。 本来無一物(むいちもつ) 何(いず)れの処にか塵埃有らん。 と詠いました。 「悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡もまた台ではない。 本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。」 という意味であります。 『仏教辞典』に 「中国・日本においても、断惑の思想よりは、むしろ煩悩即菩提の思想が重視された。<不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)>を説く親鸞の思想は、その一つの典型例を示したものといえるであろう。」 と説かれているように「煩悩即菩提」と説くようになりました。 『広辞苑』に「煩悩即菩提」とは、 「相反する煩悩と菩提(悟り)とが、究極においては一つであること。煩悩と菩提の二元対立的な考えを超越すること。大乗仏教で説く。」とある通りであります。 昔の人は、「渋柿の渋そのままの甘さかな」と詠いました。 そうかといって、決して煩悩をそのままにしていいというわけではなく、四弘誓願文に「煩悩無尽誓願断」とあるように煩悩に振り回されないように精進することは必要なのです。 煩悩は無尽ですから、煩悩を消してしまって私も消えてしまう心配はないのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1237回「煩悩を消したら…」

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          第1236回「からだが変わる、よろこぶ」

          先日は甲野陽紀先生にお越しいただいて講座を行ってもらいました。 甲野陽紀先生は、甲野善紀先生のご子息でいらっしゃいます。 昨年の八月以来、何度も円覚寺にお越しいただいています。 初めて講座を受けた時の驚きと感動は今も忘れられません。 御尊父の善紀先生が、お褒めになっているのももっともだと思ったのでした。 今回は、修行道場にもこの春新しく入ってきた修行僧が何名もおりますので、もう一度初歩から教えていただくようにお願いしました。 はじめに「一動作一注意」という甲野先生の大事なことが示されました。 まずはじめに立って、両方の手の指先と指先を合わせます。 この指先といっても人によって微妙に異なるのです。 本当に先端を指している場合もあれば、もう少し手のひら寄りの方もいたり、指の腹を指していることもあるようです。 ともあれ指先を合わせてと言われてパッと合わせたところが、その人にとっての指先なのです。 そうして指先を合わせて、指先にだけ注意を向けていると、体は安定して、橫から押されても動かなくなっているのです。 でもそのパッと合わせた点から少しずらしてみると、もう不安定になってしまうのです。 体は実に不思議です。 また指先を合わせながら、押されても押されないようにしようと思ってしまうと、崩れてしまって押されてしまうのです。 押されないようにというと相手にも注意が向いてしまって、一動作一注意ではなくなってしまうのです。 二つに注意を向けると崩れるというのは、実に気をつけないといけないことです。 丹田に注意を向けていて、そのほかに呼吸にも注意を向けると崩れてしまうのです。 いろいろと注意が散ってしまうと駄目になってしまいます。 また注意を向けるのも向けすぎると駄目になってしまうというのも教わりました。 これも気をつけないといけないことです。 甲野先生の教えでは末端から順番に動くことを説かれています。 末端から動けることが大事で、末端の状態は全体に波及するというのです。 手を合わせて立つだけでも体は安定します。 合掌の姿勢は安定した体になるのです。 でもあまり手に意識しすぎて、動かさないように力を入れていると、体は崩れてしまいます。 後ろから拍手されて、その瞬間にパッと拍手できるようにしていると、体は安定するのです。 いつでも動けるようにしている方が安定しているというのは、参考になることです。 坐禅もまたただじっと坐っているようで、いつでも動ける状態であることが、本当に安定になるのだと思いました。 手洗いの動作をするというのは今回はじめて教わりました。 手を丹念に洗っている動作をしながら歩みをすすめると、もう一人の人が抵抗しても押されなくなるのです。 手に注意がなされているから、進んでいけるのです。 飛行機で揺れながら手を洗っていて、手を洗いながら、ゆれないように踏ん張ろうとすると、かえってバランスを崩してしまいます。 手を洗うという行為だけに注意を向けていると、体は自然とバランスをとってくれるのだというのでした。 それから更に大転子、臂裏、そして踵の骨と土踏まずの境目の踵麓に注意を向けることを教わりました。 大転子に軽く触れて、「大転子を置く」と注意していると体は実に安定するのです。 臂の裏側に注意を向けても同じであります。 踵の骨と土踏まずの境あたりを甲野先生は踵麓と名づけられていますが、ここに注意を向けると、坐っていても体が安定します。 これは坐禅のときに大いに役立つものであります。 それから今回は五感の使い方を学びました。 たとえば黒板に白い○を書いて、その白丸を「見る」という場合と、白丸に「目線を向ける」という場合とでは、体が違うのです。 見るというと、視覚が優位になってしまうのです。 目線を向けるというのは、ただ結果的に見えているだけという状態なのです。 しっかりと立っているつもりでも、何かを見ようとすると体は崩れてしまいます。 また普通に立っていても、作務衣の着心地はどうかと聞かれると、視覚から触覚に移って安定するのです。 また立っていて、座布団を見つめると、体が崩れてしまいます。 座布団に耳を澄ませようとすると体が安定するのです。 これは坐禅の時に、じっさいに畳に耳を澄ませようとしてよく集中できたという修行僧がいました。 それから良い言葉が体を安定させるというのも驚きであります。 立っていて、相手に良い言葉をかけていると体は安定するのです。 橫から押しても、だいじょうぶだ、しっかりしていると言って押しても動かないのです。 ところが「もうだめだ」と言って押すと崩れてしまうのです。 言葉のはたらきは大きいのです。 ただ、「だめだ」という悪いことを言われたとしても自分の注意を座布団に耳を澄ませようとすると、体は安定して揺れないのであります。 これには驚きました。 なにか嫌なことを言われても石や柱に耳を澄ませると体は安定するということなのです。 石がささやく石の声と詠った老師がいらっしゃいましたが、石に耳を澄ませるというのも体が安定するのだと思いました。 いろんなことで体が変わり、安定すると体が喜んでいるように感じます。 そうすると、心も軽やかになって修行にも励めます。 はじめて講義を受けた修行僧もそれぞれ日常の動きや、坐禅に活用してくれていました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1236回「からだが変わる、よろこぶ」

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          第1235回「健康は最高の利得」

          岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』に 『法句経』の第204番として、 「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。 」 という言葉があります。 講談社学術文庫の『法句経』には、 「無病は上なきの利(さち) 足るを知るは上なきの財(たから) 信頼(たより)こそは上なきの親族(やから) 涅槃こそ最上の安楽(さいわい)なり」 と友松円諦先生は訳されています。 法句経の詩にはそれぞれ由来があります。 春秋社の『仏の真理のことば註3』にある解説から、一部を要約してみます。 「コーサラ王パセーナディの事」として掲載されています。 「諸々の所得は無病を第一とする」というこの説法をお釈迦様は祇陀林精舎に住まわれつつ、コーサラ王パセーナディに関してお話になった。 世尊はコーサラ王の大食・飽食をいましめたのでした。 王は一ドーナの米の御飯を、スープやおかずと一緒に食べました。 彼は或る日、朝食をすませてお釈迦様を訪ねたのですが、疲れた様子であちこちをめぐり歩いて眠けに襲われて、まっすぐに坐ることもできずにいました。 するとお釈迦様は王におっしゃっいました。 「大王よ。多すぎる食事は、これは苦です」 と述べて、この偈を誦えられた。 「眠りにふけり、また大食をし、眠っても転々として横たわる時、大猪(いのしし)のように餌で育てられて、再三再四愚鈍の者は母胎に近づく(輪廻する)」と。 この偈によって教誠なさって、 「大王よ、食事というのは量を知って食べるべきです。量をわきまえた食事には安楽があります」と仰いました。 更に教誠を加えてこの偈を述べられました。 「人が常に思念をたもって、得た食事に対して量を知っていれば、 その人の苦痛は薄らぐであろう。除々に老い、寿命は保たれる」と。 王はこの偈を覚えられず、そばに立っていた甥のスダッサナという学生に覚えさせました。 「食事をしている王が終りの丸めた御飯を食べる時に、この偈を誦えなさい」と言いました。 王は意味を考えてみて、その丸めた御飯を食べないようにしました。 次にご飯を炊く時にはその丸めた御飯の分だけを減らしたのでした。 そうして夕方にも朝方にも食事をする王が、終りの丸めた御飯を食べる時にその偈を誦えて、食べなかった分だけ減らしてゆきました。 そうすると王はすっかり食事が少なくなって、とても快調となったのでした。 健康な体になったのです。 王はお釈迦様に「尊師よ。今や私は快調になりました。鹿でも馬でも追跡してつかまえることが出来る身体になりました」と喜んで伝えました。 更に「以前の私は甥と戦争だけをしていましたが、今や和解して争いはおさまり、私には快適さだけが生じております。 クサ王の時代の宝珠宝石も我が家では先の日に失われておりましたが、それも今や私の手にもどっております。この理由によっても私には快適さだけが生じております。 あなた様の親族の娘さんを コーサラ王の家に迎えて王妃といたしました。 これによっても私には快適な気分だけが生じております」と。 と述べました。 お釈迦様はそこで 「無病というのは、大王よ、第一の所得です。 得た通りのものだけで満足しているのと同じ貴重な財産もありません。 また信頼と同じ不動の親族はありません。 また涅槃と同じ安らぎというものはありません」」 とお説きになったのでした。 これが「諸々の所得は無病を第一とする。財物は満足を第一とする。親族は信頼を第一とする。涅槃は第一の安らぎである」という『法句経』の偈なのです。 釈宗演老師の『臨機応変』にこの法句経の言葉が載っていました。 そこには、 無病第一利 知足第一富 善友第一親 涅槃第一楽 と書かれています。 そこにこの偈にまつわる次の話が説かれています。 仏弟子の迦旃延尊者の話です。 迦旃延尊者が富める人の前も、賤しき人の前も、善き縁を結んでやろうとし托鉢していました。 あるところで、一人の老婆がとても心配らしい顔をして河の畔に立つています。 尊者が「大層心配らしい様子だがどうした」と尋ねられました。 「実は私は今まで多年の間、或る高貴な身分の家で雇われていたのですが、ある過ちによってその家長の怒りに触れてしまい、ただいま出て行けと言われてしまいました。 しかたなく出てきましたが、明日からは食べるあてもなく住む家もなく、どうして暮そうか考えあぐねていました。 何十年もお仕えしてきてこんな憐れな事になってしまったので、生恥を曝すよりは、この川へ飛込んで死のうと思ってここに立っていました。 しかし思い返して見ると、そこは弱い人間の事で、死ぬと決心は付けたものの、何となく後へ心を引かれるようで、何かそこに未練が残る」というのでした。 そこで迦旃延尊者も大いに同情されて、 「それは如何にも気の毒な事だ、 残念だけれども、私は佛弟子であるから、一紙半錢も身に蓄えないので、今物質的にあなたをどうしてあげることもできない。 しかし、幸いにも平生我々がお釈迦様より承っている有り難い教えがあるから、これを心の慰安として授けてあげよう」と言って示されたのが、法句経の偈だというのです。 「無病第一の利なり」 「世の中には衣食住何不自由なく暮して居る人があるが、もし朝から晩まで病気ばかりして、年中医者と薬に親んているような人も大勢いる。 それに比べて見れば、あなたは幸い年はとつていても、健康ではないか。 健康な体があれば、どんなところでもやってゆける」 「それから「知足第一の富なり」。 どんな貴族でも富豪でも、身は如何に衣食住に充分のものを得ていても、もし満足の心が無かったならば、生涯不足不満で死んでしまうことになりかねない。 分に安んじ足る事を知るという麗しい心があるならば、それは第一の富ではないか」 「第三に「善友第一の親なり」 善き友達は第一の親みである。 世に親戚家族があったとしても時として頼みにならぬ事がある、 親子同志でも喧嘩をするし、夫婦同士でも別れてしまう事がある。 種々の事があるけれども、心と心と知り合った善き友達は、第一の親類親戚である。 あなたがもし誰一人頼る者が無いなら私に頼るがよい」とお釈迦様は仰せになったのでした。 第四には「菩提第一の楽なり」 菩提は、仏道という事になるのであるが、此の道を楽むという楽しみは尽きることがない。 世の中の楽しみは必ず半面には苦みが伴っているが、道を楽しむという宗教的の清らかな心の有様を楽しむのは最上の楽しみではないか」 と親切に説いて聞かせたのでありました。 そして「今私はあなたに一飯の施してやるべきものは手に無いけれども、この四句の偈を教えてあげるから、喜んで満足するように」と仰せになったのでした。 するとそのご夫人も生まれ変わったような喜びを得て生涯その麗しき心を以てどんな境遇でも不平を言わずに人生を全うしたという話になっています。 これは『法句経』の註釈にも無い話ですが、宗演老師はどこでご覧になったのでしょうか、知るよしもありませんが、よいお話であります。 「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。 」 しみじみ味わいたい言葉です。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

          第1235回「健康は最高の利得」

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          第1234回「漱石の参禅」

          新宿に区立の漱石山房記念館というのがあります。 そこでただいま『門』ー夏目漱石の参禅ーという展示がなされています。 先日その記念館で「夏目漱石の参禅について」と題して講演をさせてもらいました。 漱石山房記念館は、夏目漱石生誕百五十年にあたる平成二十九年(二〇一七年)に開館されたものです。 まだ新しい記念館であります。 夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊ができる限り忠実に再現されています。 私も講演の始まる一時間前に赴いて拝観させてもらいました。 漱石の著作や関連する本を読みながら、ゆったりと過ごせる図書室やカフェもございます。 とても素晴らしい記念館でありました。 講演は土曜日でもありましたので、多くの方々がお見えになっていました。 今回の展示についてパンフレットには次のように書かれています。 「漱石は、明治27(1894)年の年末から翌年初めにかけて鎌倉円覚寺に参禅しました。 漱石作品の多くに禅味を帯びた表現が見受けられますが、この時の生活や、悟りを開けずに帰京した経験は、明治43(1910)年に東京と大阪の朝日新聞に発表された小説「門」にもっともよく反映されています。 大正3(1914)年の春ごろから、二人の若い雲水(修行僧)と親しく交流するようになり、禅に対する関心をいっそう深めていた矢先に漱石は亡くなってしまいました。 この雲水のうちの一人は、奇しくもかつて参禅時に漱石が止宿した円覚寺塔頭帰源院の住職となり、漱石と交わした手紙が今に伝わっています。 漱石の参禅130年を記念する本展示は、漱石が禅の指導を受けた釈宗演関係資料や漱石作品中の禅に関する記述、雲水に宛てた手紙などをもとに、漱石と禅の関わりについてご紹介します。」 というものです。 展示の主催は、漱石山房記念館で、協力は円覚寺、帰源院、東慶寺、鎌倉漱石の會となっています。 講演の日には有り難いことに帰源院のご住職もお越しくださっていました。 パンフレットにあるように明治二七年の年末から年明けまで円覚寺の中の帰源院に止宿して釈宗演老師に参禅されていたのでした。 明治二七年というと、漱石は二十七歳、釈宗演老師は三十五歳であります。 初めて宗演老師に相見した時の様子が『門』には、 「老師というのは五十格好に見えた。赭黒い光沢(つや)のある顔をしていた。 その皮膚も筋肉もことごとく緊(しま)って、どこにも怠りのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。 ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛みが見えた。 その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。 宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。 「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。 「父母未生以前本来の面目は何なんだか、それを一つ考えて見たら善よかろう」」 と書かれています。 まだお若い宗演老師の風貌が描かれています。 そこで「父母未生以前本来の面目」という公案をもらったのでした。 宗演老師に独参をしてご自身の見解を述べられたのですが、 「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。 「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」  宗助は喪家の犬のごとく室中を退いた。後に鈴を振る音が烈しく響いた。」 と書かれています。 『門』には、 「私のようなものにはとうてい悟は開かれそうに有りません」と思いつめたように宜道を捕まえていった。 それは帰る二三日前の事であった。 「いえ信念さえあれば誰でも悟れます」と宜道は躊躇もなく答えた。 「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩くようにやって御覧なさい。頭の巓辺(てっぺん)から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます」と書かれています。 ここに登場する宜道という僧は、釈宗活老師のことだと言われています。 更に『門』には、 「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」と書かれいて、この記述はよく知られているものです。 その当時の漱石の心情をよく言い表しています。 また漱石の『夢十夜』の第二話には、趙州の無字に参じる侍の話が出ています。 「お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向をむいた。怪しからん。  隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。」 という記述は真剣に無字の公案に参じようとする心情がよく書かれています。 釈宗演老師の『臨機応変』には漱石のことが書かれた一章があり、そこには、 「ただ私の知る限りの漱石氏の風格は、我が禅宗の白隠禅師が「吾は禅の侠者なり」といわれているが、そんなように思われてならない。元来が江戸っ子に生まれて、清廉な気質を持っていた氏は、生まれながらに禅味を帯びた人柄であったと思う。然しながら氏の禅の修業は、修業としては大したものではなかったが、氏の性根が仏教乃至東洋思想の根本に触れていたことは知れる。 「則天去私」というのが氏の最後の思想だ、と語られていたとのことだが、それは明らかに大乗仏教の真精神なのである。」 参禅の体験は十分なものではなかったけれども、「生まれながらに禅味を帯びた人柄」として認め、その「則天去私」の思想を大乗仏教の真精神だと高く評価されています。 漱石の葬儀は、宗演老師がお勤めになっているのです。 展示の中でとても興味深かったのが、明治時代に刊行された『禅門法語集』に書き入れをされた言葉でありました。 扉の裏には次のように書かれています。 「禅家の要ハ大ナル疑ヲ起シテ我ハ是何物と日夕刻々討究スルニアルガ如シ。」 「要スルニ非常ニ疑深キ性質ニ生レタル者ニアラネバ悟レストアキラメルヨリ致方ナシ。 従ツテ隻手ノ声、柏樹子、麻三斤悉ク珍分漢ノ藝語ト見ルヨリ外ニ致シ方ナシ。珍重」 と書かれています。 漱石が思っていた禅というのは、当時の公案禅看話禅であったとよく分かります。 ただ漱石にとってはその修行は合わなかったのでしょう。 ただ『禅門法語集』の中の盤珪禅師の語録には、次のように書かれているのです。 「此一節ハ普通ノ禅坊主ノ様ニ禅臭クナクシテ甚ダ心地ヨシ。 普通ノ語録ハ無暗ニ六ヅカシイ語ヲツラネルノミカ六祖ガドウノ二祖ガドウノ臨済ガドウノト大ニ人ヲオビヤカシテナラヌモノダ。 此和尚サンハ只自分丈ノ事ヲ真直ニ云フテ居ル」 と書かれています。 盤珪禅師のことを評価されているのです。 それは、盤珪禅師がご自身の修行時代のことを率直に語っておられるところであります。 他の書き込みなどを読んでも漱石は、宋代の看話禅よりも、唐代の禅の方に親しみがあるように感じました。 あの時代では、『夢十夜』にあるような参禅の修行が中心だったのでしょう。 今の時代であれば、鈴木大拙先生の『禅の思想』なども学べますし、唐代の禅僧である黄檗の伝心法要や、馬祖の教えなども学ぶことができます。 祖堂集の世界などに触れていたらどうだったろうかと想像してみました。 天性禅味を帯びたような方ならば、敢て人為的な公案を通らずとも、そのまま唐代の禅を学ぶという道もあったのではないかと感じたのでした。 そうすれば「門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人」などと思わずとも、元来門のない世界に触れることも出来たのではないかと思ったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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