見出し画像

水槽と特等席

駅を降りて、公園を抜ける。
塀の向こうにガラスのドームが見える。
晴れていれば空色を吸って光って見えます。

間違って直進したっていいよ、ガラス張りのビルの向こうに海が見えるから。
間違いたくない君とこれから辿るのは、水族館の記憶です。私の一番すきな水族館のお話。

とっても安全そうに佇む、日の光を柔らかく通すガラスのドームを潜る。
エスカレーターを降りると徐々に視界が暗くなって、守られている生き物たちと絨毯の匂いがする。

グレーの絨毯を踏んで足音を吸い込ませていく。そうするとツマグロの群れが出迎えてくれる。
マグロの名前を持っているが、どう見たって小さなサメだ。背ビレや尾ヒレの先が黒い。
ツマグロのヒレを見ると、なんとなくキツネの脚や耳の裏側の黒い毛のことを思い出す。

ツマグロとお別れして、珊瑚礁などの展示を抜けるとクロマグロが見られる。
シアターのように並ぶ椅子を囲むように造られたドーナツ型の水槽。水量は2200トン。
クロマグロがプリズムを含む泡を纏いながら俊敏に泳ぐ。泡が生まれては光を吐いて消える様子を眺めるのが好きだ。
水槽の中でマグロが泳ぎ続ける限り光は生まれ続ける。幸いマグロは泳ぐのを止めないので、光の生産も止むことはない。

展示も終わりに差し掛かった頃、壁にあいた扉型の四角い穴が目に入る。そこを潜って部屋に入ると鑑賞できるのが『海藻の林』だ。いちばん好きな水族館の、いちばん好きなコーナー。

<海藻の林>(出典:葛西臨海水族園公式サイト)

世界最大の海藻、ジャイアントケルプの展示。
この水槽が葛西臨海水族園の中で最も美しいと思う。
暗い青色の魚が、黄色のジャイアントケルプの周りを静かに泳いでいる。
海藻の集まる場所(藻場)や珊瑚礁は「海のゆりかご」と呼ばれることがあるらしい。魚たちにもブランケットがあることに安心を覚える。


この展示室には椅子があった。
革張りの落ち着いたソファが4席ほど。
お客さんの少ない日は、そこに座ってずっとこの水槽を見ていた。
コロナ後に訪れると、感染症対策のためソファは撤去されていて、代わりに展示室前の廊下に同じ形のソファがずらりと並べられていた。「一つ開けてお座りください」の貼紙を伴って。

この展示室だけの特別なソファだと思っていたから、特別じゃないのが分かってちょっとだけ残念だった。でも沢山の人が休める方が良いから、よかったかもしれない。


大学を休学していた私は、健常者の集まりが怖かった。
水族館を見る時は、子供やカップルの隙間越しに色鮮やかな熱帯魚やクラゲを眺めてはすぐに背後の人が気になり、人の少ないコーナーへ移動する。

魚を観るというよりは、人の群れから逃げ続け、たまたま人がいなかった水槽の前に流れ着いてボーッと休憩する。この鑑賞スタイルももう慣れたもので、無軌道に人の合間を縫って一緒に来た友人を撒くなど造作もない。観る。逃げる。はぐれる。捕まる。キャッチアンドリリース。この繰り返し。

だから、ジャイアントケルプの水槽と、展示室のソファは群衆と孤独のループに疲弊した私に穏やかな時間と休息をもたらした。
ひとたび海中の森に思考を巡らせれば、もうどこにも行かなくていい。もう誰にも見つからない。あなたの、私のブランケットを奪う権利など誰にもない。そういう思考を巡らせて、安心したら、お別れする。

なんとなく、いきものたちを抽象化して、なんとなく、既存の何かとの共通項を辿って、なんとなく、脳内で私たちの近くに配置していく。
見えている以上に、目の前のものを身近に感じられるように。
空を流れる雲を何かになぞらえて指す遊びのそれに近い。高いところから、手の届くところへ。
あなたの目の前のものは何に見えますか?

あなたが目の前のものを抽象化するのに成功したのなら、その感覚を大切に持っていてください。
そして一緒に来た人に耳打ちしてください。どうか誰かとはぐれないように。


解説(小松研究事務所)
ジャイアントケルプ:コンブ科に属する海藻で、藻類では世界最大種。生物多様性の高い藻場を形成することで知られる。別名オオウキモ


小松研究事務所さんからの依頼で、福井こんぶdayに向けて文章を投稿させていただきました。

書くにあたって海藻について調べていたのですが、大幣に海藻を使って祈祷する神社や海藻を煮詰めて製塩する神事があるみたいですね。
神様からも愛される昆布。みなさんは好きですか?

本イベントは、こんぶについて体験型ワークショップなどを通じて、海洋資源的な面だけでない魅力に触れられます。
例年は北海道で開催しており福井県での開催は初!福井市にお住まいの方や、ご興味のある方は是非、海の森を作る「こんぶ」の魅力に触れてみてください🌐

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?