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僕が混浴でシェパードになった日



混浴には『欲望の悪魔』が棲みついている。




あれ?今日は確か、平日だよな?

なぜか、リビングの天井が見える。ロフト付きの部屋。天井が高い。

どうにも、この場所から動けそうにないのだ。

今頃、皆んなは、汗水垂らして、働いているのだろうか。

言っておくが、何も、僕だって休みたかった訳ではない。サボりたくて、布団に包まっている訳じゃない。僕にだって、溜まっている仕事もあるし、今日も予定が入っていた。それをドタキャンしてまで、家にいる。


申し訳ない。

だけど、今回ばかりは、許してほしい。

『痛風』の発作が出たのだ。




僕は、23歳という、異例の若さで痛風を発症した。人類史上、最速の可能性すらある。

20歳の健康診断で、尿酸値の評価が『D』だった。

いくらなんでも早すぎる。普通に考えて、D評価なんて、アジャストしに行ったとしても、成人式に間にあうような代物じゃないだろう。僕は普段、お酒をほぼ飲まない。飲み会に参加しなければならない場合、多少飲みはするが、そもそも美味しいと思っていない。ましてや、プリン体の代名詞である『ビール』など、飲み物として認めていない。なぜ、麦芽の搾り汁を飲もうと思ったのか。最初の奴の気がしれない。第一『喉越し』ってなんだ。本当にみんな分かっているのか?まあ、分かったフリをしてカッコつけているんだろう。そうやって社会を上手に渡り歩いて行く事が『大人』って奴なのだろう。頑張りたまえ、社会人たち。

僕がお酒を飲まない、と言うことは、この尿酸値の高さは何故だ。

推測するに、僕の所為じゃない。間違いない。遺伝だ。ひどい痛風持ちだった親父の所為だ。許すまじ。

D評価が出て、親父に相談した。注意すべきはプリン体ではなく、DNAの数らしい。魚卵などDNAの数が多い卵を食べすぎると、痛風になりやすく、鶏卵などDNAが少ない卵を食べすぎると、尿管結石になりやすくなるらしい。尿酸値に詳しい親父。少し悲しかった。

そうは言っても、足が腫れて、靴も履けず、松葉杖を突いている親父を、何度も目撃していた為、一応、食事には気を使ってみた。

でも、まさか本当に、その日が来るなんて。



初めて痛風が発症した日、僕は友人の結婚式に参列する為、地元に帰っていた。

有給休暇を使い、長期の休みを取り、帰省している。なので、平日の日中は吐きそうなくらい、暇である。何もすることが無い僕は、温泉に行くことにした。

地元の近くには、有名な温泉地があり、いわゆる『名湯』と呼ばれる温泉が、数多くあった。

温泉なんて、幼少期に爺さんに連れられて行ったくらいで、正直、記憶も曖昧である。

平日に1人、温泉に入る贅沢が出来る年になったんだと、しみじみ思った。



古い温泉旅館。

この温泉には、8種類もの源泉が噴き出している。館内の端から端まで、温泉だらけ。浸かっては、浴衣で移動し、また別の温泉に浸る。僕は、大人である。

様々な泉種のお湯に浸かり、体が火照っている。良い気分だ。

さて、いよいよメインだ。

そう。『混浴』である。


近頃、混浴が随分と無くなっていると聞く。非常に、悲しい事である。

本当に良い泉質の温泉というのは、混浴に多い。最高の泉質だからこそ、大切な人たちと一緒に入る。その為、混浴が残されている。これこそジャパニーズソウルじゃないか。

混浴というのは、この星が、僕たち動物に与えてくれた最高のプレゼント。地球の内部で丁寧に作り上げた熱が噴き出してきて、それに人間が集う。ありとあらゆる生き物が集う。ロマンである。

まぁ、そんなことより、女性と一緒のお湯に浸かれるだけで、ロマンしか感じない。

こういう奴の所為で、減ってきているんだろう。本当に申し訳ない。

本当に申し訳と思ってはいるが、こちらも本気である。もちろん、ドキドキはさせてもらう。


古い館内の内装は、重厚感のある木材でできており、床には、真っ赤な絨毯が敷き詰められている。照明も、それほど設置されておらず、かなり暗い。神秘の混浴には簡単には辿り着けない、というメッセージなのだろう。その温泉は、明らかに外れの方に設置されている。長い長い渡り廊下を進み、かなり深くまで階段が続いているようだ。地中へ、地中へと潜って行く。ここまで来ると、窓ガラスも無くなってきた。暗い。


ついに僕は、目的地に到着した。

ここが神の住む地、混浴。

鼓動の音だけが聞こえる。

小さな脱衣所。この扉を開ければ、あんな出会いやこんな出会いが待っているのだ。ロマンである。

僕は、物音を立てないよう、浴衣の腰紐をハラリと解き、扉を開けた。

誰もいない。悔しい。



僕は、肩を落とし、大きなため息を吐いた。まあ、実際、居たら居たでビビるので、どこか安心である。


1人温泉に浸かる。8種類すべての温泉に浸かったからか、だいぶのぼせてきたようだ。今日のところは、おとなしく引き下がろう。

名残惜しみながら、僕は立ち上がった。

その時、急に、左足の親指の付け根が痛み出した。

なんだこれは。

痛い。歩けない。

一瞬『骨折』を疑った。明らかに赤く腫れ上がっており、骨の内部が痛い。思い返してみたが、ぶつけた記憶はない。無理な体勢でダンスをした記憶もない。

ということは、まさか、これが『痛風』ってやつなのか。

急に来るのか?原因はなんだ?

そうか、欲望と温泉の効能で血流が良くなったのか。なんと惨めな。

僕は、右足を庇いながら浴衣を着て、ゆっくりゆっくりと歩き出した。脱衣所を出ると、長い長い、上りの階段がコチラを見ている。

嘘だろ。この階段を登らないと帰れないのか。

僕は、一人、泣いた。


ここで一つ、教訓を残しておく。

『尿酸値がD評価以上になったら、混浴に行くな』



それから2年。痛風が発症した。

今回は欲望ではない。不摂生である。

あまりの痛みに、トイレにも行けない。簡単に、寝返りも打てない。助けてくれ。



痛風になって分かった事がある。

痛風の痛みは、心配されない。

とにかく笑われる。痛みで歩くことも出来ないのに、笑われる。トイレに行きたいと言うだけで、ニヤニヤされる。松葉杖で、出社しただけで、笑いものにされる。真面目に仕事をしていて、請求書の印刷をし、コピー機の前に行っただけなのに爆笑される。辛い。



奴らは、この痛みを知らないから、笑ってられるのだ。

風が吹くだけで痛いから痛風。本当にそうなのだ。

痛風の痛みは、例えで『アイスピッグで刺されるくらい痛い』と言われる。

いや、アイスピッグより全然痛い。

鼻からアイスピックが出てくるくらい痛い。自分でも何言ってるか分かっていないので安心して欲しい。

とにかく、この世で1番痛いのだ。


男性ならわかるだろう。あの悪魔的痛さの『金的』。それよりもはるかに痛い。それが痛風だ。

痛みもそうなのだが、何より怖いのは、その感度である。こと足の親指の付け根で言えば、無意識な体の動きで激痛が走る。そして鼻からアイスピックの痛みが来る。冗談抜きで死ぬ。



その日、痛風の発作が出た。

会社に泣き言を言い、休ませてもらったその日は、動けない為、リビングの床で寝る事になった。

なにもしていないのに、尋常じゃない疲れである。兎に角、体を動かさないようにする。シャトルランより疲れる。


疲れもあり、気がつくと寝落ちはする。しかし、意識が飛ぶと自然と寝返りを打ってしまい、激痛で叫びながら目が覚める。寝るのが怖い。


今しがた、激痛で目が覚め、呼吸が荒くなり、悶絶している。

助けて欲しい。痛みが引かない。

どうしたら引くのだ。神様お願いだ。もう何もいらない。痛みだけ、どうにか痛みだけ治めてくれ。

だめだ。祈ったところで、治らない。



そして、その時がやってきた。

これが、痛みの向こう側だ。

悶絶もし尽くし、叫んでも、痛がっても無駄なことに気づく。すると、ベロが出ててきて、ヨダレが止まらなくなる。

僕から発せられる音が『ヘッヘッヘッヘッヘッヘッヘッヘッヘッヘ』に変化するのだ。

もはや、シェパードである。


嫁は、ロフトでスヤスヤ寝ている。

もし起きていたのだとしたら、下から聞こえてくる『ヘッヘッヘッヘッヘッヘッヘヘッヘッヘッヘッヘ』を、どう思っているんだろうか。


混浴には『欲望の悪魔』が棲みついている。

気を付けろ。


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