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これが『弱さ』を認め人の靴を舐める『強さ』を手にする手順である


あんぐりと口を開き、左斜め上あたりを眺めている。ふと『上顎うわあごは乾いているのに、口の中にヨダレが溜まってきた』という事実に気付き、この世に帰って来たところである。

その時、僕の目の前を、宙に漂う『埃』が横切った。

目で追ってみると、左斜め上から落ちてきた埃は、空気抵抗で少しホップアップしたり、瞬間的にスピードを上げたり、いびつな動きをしている。僕には感じ取れない程の、微かな空気の流れに、身を任せているのだろう。

埃は、僕の右目の前を通った直後、姿を消した。
彼は、どこに行ってしまったのだろうか。

僕は、彼が、どこからやってきて、どれほどの大きさで、僕からどのくらい離れた位置を漂っていたのか、すら分からない。

恐らく、彼を認識したのは、世界で僕が初めてで、恐らく、彼を認識するのは、世界で僕が最後なのだろうなと思った。




僕は、よく人に舐められる。

初対面の人に『遠藤』と呼び捨てにされる。こちらが先に呼び捨てにし、お返しに、呼び捨てにされるなら、まだ良い。だが、こちらが謙譲語けんじょうごを使い、敬っているにも関わらず、呼び捨てなのである。同席している友人は『さん』付けや、『君』付けで呼ばれるのに、なぜか僕だけスタートダッシュで呼び捨てである。僕は31歳なのに、小学5年生に呼び捨てにされたりする。意味不明である。

僕は、昔からよく舐められる。

少し眉毛を整えただけで『遠藤が眉毛を剃った』などと、別のクラスの奴らが、笑いならがら見に来たり、給食の時間になると、誰も食べたく無い『里芋の煮っ転がし』が、僕のお盆の上に大量に集まり、人気の『シソ餃子』が持っていかれたりする。

その他、胸くそ悪い舐めも散々受けている。

僕はこの舐めに、心底腹が立っているのだが、反撃の勇気が無い。
結局、心の中で地団駄じだんだを踏みながら、

『こんな人間共に対応していたらキリがない』
『こんな人間共にムカついたら自分はコイツらと同じレベルである』
『奴らにはいずれ天誅てんちゅうくだる』
と、自分のくらいを上げ、念仏を繰り返し、自分を説得する事で乗り越えてきた。

実際、天誅が下った奴は見た事がない。意味不明である。



しかし、こうも腹を立てたり、自分を説得してばかりいると、疲れる。どうにかやめる方法はないのだろうか。

そもそも、なぜ腹が立つのだろうか。

もちろん『シソ餃子』を持っていかれた事に腹は立つ。僕が死んだあかつきには、呪いで奴らを挽肉にし、微塵切りのキャベツと合わせて、塩揉みしてやるつもりでいる。それはもう決まっている『予定』である。

でも、そこに腹を立てているのではない気がするのだ。

恐らく僕は『僕のお盆に ”だけ” 里芋の煮っ転がしが集まってくる』という事に、腹を立てているのだ。

だって『シソ餃子』は全員に、均一に2個ずつ配られているのだ。もし、どうしても『シソ餃子』が食べたいのであれば、『里芋と1個ずつ交換しよう』と言ってくれれば、僕も鬼じゃない、相談には乗る。でも、僕の『なけなしのシソ餃子』で、クラス全員の『シソ餃子への渇望かつぼう』を満たす事など出来ない。ならば、僕以外の誰かに『シソ餃子と里芋を交換してくれ』と交渉すればいい。なのに、僕のお盆にだけ『里芋』が集まるという事は、『里芋』が食べたくないから、僕のお盆に『里芋』が集まっている、という事になる。そして、『ついで』に『シソ餃子』を持って行かれている、という事なのだ。

これは完全に舐められている。
結局、僕は『舐められている』という事に、腹が立っているのだ。



そうか。『舐められている事に腹を立てている』という事は、自分の『プライド』の高さが、引き起こしているに違いない。自分自身の見積もりを『里芋を処理する為に生まれた男ではない』としているから、『里芋』が集まってくる事に、腹を立てているのだ。

結局、自分の中に『誇れるものが無い』と、自分で気がついているからこそ、舐めて来る相手に反発して、自分を守ろうとして、腹が立っているのだ。

ならば『プライド』なんて、捨ててしまえば良いのである。
プライドなんてものは『邪魔な物』でしかないのだ。

これで、何を言われても傷つかない鋼の体を手に入れた。僕は、平気で土下座や靴を舐めるくらいする。そして『里芋』くらい食べる。『シソ餃子』くらい、くれてやる。


こうして僕は、怒りから解放されたのだ。

あの、宙を漂う『埃』のように、空気になびいて生きれば、余計な事に腹を立てる事もない。自分を説得して疲れる事もない。傷つく事もない。

そこからは、随分と楽に生きられるようになった。
これで、正常なコミュニケーションが取れるのだ。


なのに、どこか『孤独』が付き纏っている気がする。




『シソ餃子泥棒事件』から10数年経ったある日、嫁が『舐められるのだけは許せない』と言っていた。

僕が捨てた『プライド』の話を、彼女は怒りながら語っている。

『プライドが無ければ立ってる事すらできない』
『戦えない』と言っていた。

いや、戦わないだろ。

戦国武将なら分かる。前には、戦うべき敵、後ろには守るべき者たち。そんな状況で、剣を振りかざされているに『やだ、怖い』などと、尻込みしていたら真っ先に死ぬ。それは分かる。(まあ、僕ならやりそうだが)

しかし、プライドを捨ててみて、この社会で、立てなかった事はない。甲冑かっちゅうを着て、剣を振りかざされた事も無い。城に隣国が攻めて来て『愛する家族を守る為に、この命、くれてやる』と意気込んだ事もない。

彼女は、なぜそう思うのだろう?

そうか。僕は、この10数年で『プライドが無い状態』に、しっかりと漬けられているのだな。

彼女の怒りを聞いた時に、何か自分の『欠損』している部分のような気がした。

せっかく捨てたプライドなのに『やっぱり必要な物でした』というのは、なかなか飲み込む事が出来ない。

『プライド=邪魔な物』じゃなかったのか?



確かに、最近になって気づいた事がある。

プライドが高い=腹が立ってしまう、は確定なのだが、
プライドが高い低いに関わらず、僕は人から舐められるという事。

そして、プライドが高い=嫌われるなはずなのに、
プライドが低くても、別に好かれない、という事である。

言語化すると、なんとも絶望的な言葉である。



そう考えると、僕はなぜ『プライド』を捨てたのだろうか?

正常なコミュニケーションを取れていると思っていたのは、勘違いだったのか?

舐められの怒りから来る『疲れ』から、解放されたかった『だけ』で、相変わらず舐められ続け、人から好かれもしないのなら、果たして、何の意味があったのだ?

『プライド』は邪魔な物ではなく、本当は必要なものだった可能性は無いか?

そもそも『プライド』って何だ?

あの時、お前が、お盆の中に捨てたのは、本当に『プライド』だったのか?
『プライド』ではなく、別なものを捨ててしまった可能性は無いか?

もし『プライド』じゃなかったとして、お前は、お盆の中に何を捨てた?

『怒りからの解放』の代償に、何か大切な物を失っていないか?

舐めの不快さに目を瞑る為に、自分に嘘をついて、自分や、自分の感情を置き去りにして来たんじゃないのか?

本当は、舐めらた事に、今も尚、腹が立っているんじゃないか?

シソ餃子事件の傷が、知らない間に『トラウマ』になっているのだとしたら?その傷を自分自身が、認めてないのだとしたら?



様々な疑問が湧いてきてしまった。非常にめんどくさい事になった。

『正しいコミュニケーションが取れている』と勘違い出来ていて、尚且つ、楽に生きられるなら、何の問題もないだろう。

僕は、何がしたいんだ。何を知りたいんだ。

強いて言うなら『プライド』の意味が知りたい。
誇れる自分があり『凛』と生きる、と言う事を知ってみたい。

底の方に、強烈な『自分』が居るような気がした。



この疑問の嵐から解放されるには、何からすべきだろうか。
まずは、認める所から始めてみよう。

えーと、僕は『シソ餃子泥棒事件』に、深く傷ついています。

なぜなら、あの日、僕はシソ餃子が食べたかったから。そして、本当は『里芋』が大嫌いだからだ。里芋は『頭痛』の味がする。この世の食べ物で、最も嫌いな食べ物の一つである。里芋が大嫌いだ。なのに沢山来た。それはそれは辛かった。

そして、奴らに舐められている事が、悔しくて悔しくて堪らない。

でも『舐められている事に傷ついている弱い人間だ』と、どうしても思われたくなかったのである。どうせ舐められるのであれば『舐められても平気な顔』をしてやりたかったのだ。それが唯一できる『復讐』だったのだ。

でも、傷ついている。本当は、弱い人間なのである。

あの時の遠藤よ、よく耐えた。お前は頑張った。
よく、シソ餃子を我慢した。

そして、あの日『辛い』と言えなかった事を、こうして言えている事が、何よりも凄い事である。認めた今のお前は、決して『弱い人間』なんかじゃない。後で、ご褒美にシソ餃子を買ってやる。

思いの外、これだけで、すでに泣きそうである。



自分の傷に気づくのは、やはり怖い。覚悟が必要である。思い出したくもないし、こんな事に傷つく『弱い人間』だったと、知りたく無い。

確かに、ここまで『埃』のように、空気に靡いて生きて来て、傷付かずに済んだし、傷に気づかずに済んだ。本当に楽だった。

でも、あの選択は『誰もはみ出しちゃいけない世界』の為に『自分を殺しただけ』でしかなかったのだな。



まずは、自分の感情が、いくらみにくかったとしても、自分だけは認めてあげるべきだったのだ。


そもそも、腹が立っていたあの時の僕は、自分に誇れるものがなかった。だから、少しでも『自分の方が優れていて、他人の方が劣っている』と思い込む為に、『反撃の怒り』で自分を守ろうとしていた。

でも、反撃する勇気を持ち合わせていなかった結果、相手を、心の中で見下し『天誅』にすがる事しか、出来なかったのだ。他人からの舐めをガードするには、その手段しか思いつかなかった。

そして、同じ傷を作らないように、城壁のような『プライド』を建てた。

『傷ついた弱い遠藤』が城壁の中に居る、と奴らに知られれば、また攻撃されるかもしれない。でも、傷の修理にはまだまだ時間がかかりそうだ。まずは、守る為の壁を建てよう、と次々に壁を建てた。これで『簡単には崩れない』と思わせる事ができる。

それでも近づいてくる脅威に『弱さ』がバレないように、威嚇や攻撃をする。そして『この威嚇作戦なら上手く隠し切れる』と手応えを感じてしまったら最後、『二度と傷つかない方法はこれしかない』と思うようになって行ったのだ。

これが『プライド』から来る『怒り』の正体である。


これは、傷に向き合うのではなく、傷から逃げるために、他人を受け入れない為の『拒絶』でしかない。

それが『拒絶』だったからこそ、分かる事がある。

気づかないうちに、自分の城の中には、『シソ餃子泥棒』はいないが、同時に『味方』もいなくなっていたという事だ。

僕が傷を城壁で隠したから、シソ餃子泥棒『意外』の人間も、入れないよう『攻撃対象』にしてしまっていたのだ。

単に遊びに来ただけの人かもしれないし、本当は、傷の修理に来てくれた人だった可能性もあった。その人たちすら『拒絶』していたのだ。

そして、誰もいない城で暮らしていると、次第に『自分は誰からも必要とされない』『誰も理解してくれない』と、被害者意識に変換され、勘違いを起こしていたのだ。

そして『人から愛される自信』がなくなり『自分自身に価値がある』とは思えない状態に溺れていくのである。

これが、あの日から感じている『孤独』の正体なのである。



そして、傷に向き合う事を止め『このプライドを持っていると 、この世界で生きてはいけない』と判断し、自分を殺した。

僕のプライドは高いままで、ただ死んだだけ、でしかなかったのだ。


じゃあ、あの時の僕にできる事は何だったのだろうか?

大量に抱えた『里芋の在庫』を、奴らに投げつければよかったのか?
呪いを待たずに、奴らを挽肉にすればよかったのか?

正解は分からない。
でも、間違いなく言えるのは、『自分』を殺すような事だけはしてはいけなかったという事だ。

あの時、逃げなければ、逃げなかった事だけは『誇り』でいられたのだ。



人の心は弱い。

プライドが高いと、傷つかない為に、恥をかかない為に、自身の行動を制限し、人を拒絶し、人の愛も拒絶する。人から応援される事も、人から受ける支援も全て拒絶してしまう。

傷ついた心を守るために、誰も近寄らせない。そして、攻撃される前に、こちらから攻撃し、修理しに来てくれた人をも、攻撃するようになる。

それが味方であっても。そして、それに気づくと、自分は味方をも傷つける糞だと思ってしまい、次第に自尊感情がなくなっていき、元々他人に興味がない、と自分を擁護するのだ。

『失って傷つくくらいなら興味を持たなければいい』
『そもそも興味が無いものは愛せないし』
『でも何も愛せない自分には罪悪感を感じてしまう』
それだけは避けたいから『興味がないが必要』になる。

そうやって、愛する人を拒絶し、仲間とも疎遠になり、親密な人に嫌味を言い、親に感謝せず、気づかぬうちにやりたくもないマウンティングをとり、他人と親密になりたいのに拒絶してしまう。

自分を見失うと、そのような事が起きてしまうのだ。



傷つくことは、恥ずべき事ではない。
何かを愛し、何かに挑んだ証拠でしかないのだ。




『誇りを持つには、他人から認めて貰えるように仕事をする
そうすると社会や会社に貢献する意欲が沸いてくる』

という言葉を見つけたが、そんなのは糞である。それは、立場ある人間が、統治しやすくする為の『洗脳』でしかない。

決して、そうではない。

人間には『他人』ではなく『自分』に矢印の向いた『誇り』が必要なのだ。


自分の感情のまま動き、自分の意思で動かない限り、自信や誇りは形成されない。

だから、ヤンキーたちは、思いのまま動いているから自信があるのだ。

外から『こう生きた方がいい』と助言された言葉で動いても、『凛』となんか生きられるはずがないのだ。






確かに、埃のように風になびけば、楽には生きられる。傷もつかなくて済む。

でもその分、存在感はなくなるのは当たり前。

そりゃあ、自分がどのくらいの大きさで、どのくらいの距離で生きているかなんて、認識されなくなる。

だから僕は、宙に漂う『埃』を見失ったんだろう。



あの時の舐めを肯定するつもりなど、毛頭もない。人から見たら、醜い感情かもしれないが、これが僕である。

人を見て『舐めて良い』と判断する人間も、自分を守る為に相手を下げるような人間も、共に糞である。

捨てたい程嫌いな自分のまま生きなければ、侮辱されたままの自分でしかないのだ。



ごめんな。埃。
僕はあの日、君と同じ『埃』になったんだ。

もう、僕は君とは違う。

あの時『シソ餃子』と一緒に無くした自分で生きる事は、本当に怖い。自分を剥き出して生きて、心を開いて生きて、もし否定されたら、今度こそ終わりだから。

でも、僕は、自分の傷を認めて、自分を飾らないで、靡かず、生きるよ。

僕は舐められた傷を、笑いに変える。
そして、シソ餃子泥棒の靴でも何でも『凛』と舐めてやる。

いずれ『シソ餃子泥棒』に僕の靴を舐めさせる為に、今は、靴でも何でも『凛』と舐めてやるよ。

それが僕の『誇り』になる為に。






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