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熱情の想い出と熱情への思慕

「恋愛がテーマだし、多分自分には刺さらない」
この本を手に取ったときは、そう思っていた。

じゃあなぜ読んだかというと、ノーベル文学賞だし、フランスの作家だし、このくらいはフランス好きを公言している以上、読んでおかなくてはいけない気がしたからだ。

そんな不純ともいえる動機で読み始めた、アニー・エルノーの『シンプルな情熱』だったが、当初の予感を気持ちいいくらいに裏切ってくれた。

この作品は、アニー・エルノー自身が、外国から来たとある既婚男性への文字通り燃えるような恋に夢中になっていたときの心情が綴られている。

綴られる熱に浮かされているような熱い感情とは裏腹に、語り口はいたって冷静かつ分析的だ。その冷静さは、書かれているのは著者自身のことのはずなのに、他人のことであるよう。一貫して、熱いことが冷たく語られている。そのことが、この作品の読書体験をより一層奥深いものとしているように感じた。

そして何よりもわたしを惹きつけたのが、その語られる内容だ。

けれども、彼にすでに一度見せたことのある装いで現れるのは、彼との関係において一種パーフェクトな在り方を目指していた私には、ひとつの落ち度であり、手抜きであるように思えたのだ。

アニー・エルノー 著/堀茂樹 訳/シンプルな情熱 (早川書房) P25より 

この部分を読んだとき、身に覚えがありすぎて、自分のことを書かれているようで、古い記憶が呼び覚まされた。

もう10年近く前、わたしはある一人の芸能人にドはまりしていた。「芸能人かよ」と思われそうではあるけど、人生で一番、燃えるような感情、エルノーの言う「情熱パッション」を持っていたのはあの頃だったと思う。

当時彼は、年に数回、ひと月~ふた月程度の長期間の公演を行っていたのだが、ひたすらバイトをして、公演期間がくればそのお金をすべてつぎ込んでその公演に何度となく通っていた日々。あの頃のわたしは、エルノーと同じように、「同じ服で行くなんて考えられない」と公演のたびに別の服を着て、違う髪形をしていた。見られる見られないとか、ファンサがもらえる席だとかもらえない席だとかそんなことはあまり関係なくて、自分のプライドのような何かが、おなじものを身に付けることを許さなかった。

そしてその服や美容にかかるお金は、彼を好きでいるための必要経費で、削ってはならないものだった。身なりのほかにも、彼の好きな食べ物を食べること、彼と同じ香水を買うこと、そういったことにかかるすべてが、わたしのなかでは紛うことなき、必要経費だった。

空、メンバーカラーのもの、彼の住む地名、彼のハマっている飲み物、それらすべてを見るたびに早く姿が見たくなり、手を見るだけでもかっこよくて、自分の周りに自分より彼を知っている人がいるのが嫌で、雑誌をすべて買って公演にもできる限り通い、一時間に一回はTwitterで名前を検索していたあの頃。

こういったわたしの過去の、熱に浮かされていて、ある種狂っていた頃と、本質的には同じことが、克明に、そして赤裸々に刻まれているような気がした。

情熱パッション」に突き動かされた日々についての記述ののち、最後にアルノーは、贅沢とは、ひとりの男または女に激しい恋ができるということだと思う、と結んでいる。

狂気ともいえるほど激しい感情に突き動かされているさなかは、精神の安寧は得られないし、小さなことで落ち込んで、また浮き上がっての繰り返しだ。でも、離れてから振り返ってみると、あの頃が人生でもっとも充実して楽しかったように思う。

今思うと、なんであんなにすべてを捧げるほど好きだったのかよくわからないし、我ながら滑稽で気持ち悪いけれど、あの頃は誰よりも彼のことが好きだったし、今でも人生で一番夢中になった人、心を揺り動かされた人は彼のままだ。そしてもうそれは変わることがない気がしている。もう一度、あの熱情を抱いてみたい。そう時折思いながら、もう7年くらい経ってしまった。

対象は身近な人でも、ステージに立つ人でも、物でも、いっそもうなんでもいい。アルノーの言う「贅沢」を死ぬまでにもう一度味わいたい。狂おしいほどの熱情への思慕を、思い出させられた読書体験だった。


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