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百姓一揆の作法

藤野祐子『民衆暴力』より,百姓一揆についてまとめてみたい。

教科書記述も随分と変わってきたが,未だに従来(昔)の百姓一揆の「暴力的な」イメージは残っている。徒党を組んで,筵旗を立て竹槍を持って,城下に乱入し,武士と戦い,壮絶な死と厳しい拷問と処罰を受ける。悲惨なイメージが強く残っている。しかも,重い年貢の収奪と飢饉にあえぐ百姓の姿,毎年繰り返される百姓一揆や打ちこわしが江戸時代の暗いイメージつくりだしている。劇画『カムイ伝』や映画やTVで放映された時代劇(たとえば,黒澤明監督の名作など)の影響は大きい。

豊臣秀吉の「刀狩り」も,百姓から刀や鉄砲などをすべて取り上げたイメージが強い。しかし実際は,「文字どおりの武装解除ではなかった」「村々には多くの刀や鉄砲が残された」のである。なぜなら「刀狩りの重点は,…兵農分離のために,百姓の帯刀権や村の武装権を規制し,それらを武士の特権とすることに置かれていたからである」
また,「秀吉は村々の武力抗争を規制」する「喧嘩停止令」を出している。これにより,村々には多くの刀や鉄砲,槍などは残ったが,それらを争いに用いることは禁じられた。
塚本学『生類をめぐる政治』には,村々が農具として所持する鉄砲の数が例示されているが,それによれば,尾張藩では約1600挺,紀州藩では約3000挺にのぼる。
刀(身分の象徴)については一定の規制が加えられた。脇差しは許可されたが,長い柄や鞘が派手なものは規制された。これは,外見上,武士と百姓の身分を明確に示すためであった。「刀狩り」により兵農分離と身分統制が固定化されたのである。このことが,江戸時代における百姓一揆の作法につながっていくのである。
江戸時代の百姓一揆の種類を整理しておく。
「訴願」は「合法的な領主権力への申し立ててであ」り,「年貢・役の軽減などを村役人が領主に文書で願い訴えることであ」り,処罰されることはなかった。
非合法の行為としては「徒党」「強訴」「逃散」があった。
「徒党」とは,「一揆集団の結成」で,「目的や禁止事項などを記した起請文・一揆契状を作」ることである。
「強訴は百姓が集団となって城下などに押しかけて訴願内容の実行を求めること」である。
「逃散」は,「年貢や夫役といった百姓の務めを放棄して逃げてしまうことである」
一揆集団が結成される際に作成された連判状(一揆契状)には,一揆の目的,経費の調達に関する条目のほか,規律を維持するために,飲酒の禁止,放火・盗みの禁止,蓑笠の着用などの行動統制に関わる条目が含まれていた。一気にふみきった際の百姓の出で立ちや行動は,掟で定められていたのである。
強訴の際に一揆勢が持ち出したのは,鎌や鍬・鋤などの農具であり,鉄砲や刀剣などの武器ではなかった。加えて,農作業と同じ蓑笠を着用するのが一般的だった。
つまり,百姓は武器となり得る物を所有していながら,意図的に用いなかったのである。領主権力に武力で対抗する気はなかったことになる。幕府や藩も,一揆をいきなり弾圧することはなく,役人が訴状を受け取って,説諭し解散させるケースが多かった。

上記の引用(抜粋・要約)の内容だけでも随分と従来のイメージと違うことに気づくだろう。

百姓一揆の史料として教科書にも資料集にも掲載されているのが,青木虹二さんの「百姓一揆の年次別発生グラフ」である。このグラフの簡単な解説としては,ほぼ次のような説明文が載っている。

近世を通じておこった一揆は2967件で、前期120年間に535件、中期70年間に686件、後期90年に1611件(合計2832件、年次不明135件)である。中期は幕藩体制の動揺期で、成長した農民達は村落の孤立性、藩の割拠性を乗り越えて広汎な団結をみせ、越後質地騒動(1722年)で2000人、美作津山の藩内一揆(1726年)で3000人、1738年の磐城平(いわきたいら)一揆で2万人、1754年の久留米一揆で20万人という大規模な連合戦線がつくられた。(山川出版「日本史研究」)

このグラフから,江戸時代の終りに近づくにつれて,百姓一揆や打ちこわしが増加していくことを強調し,幕藩体制の崩れ,年貢の増収や社会不安と結びつけて説明されることが多く,また農民の成長や自立,農村への貨幣経済の浸透などとも関連させて授業展開が行われていく。

このグラフ,視覚的に錯覚を招きやすい。タテの発生件数は年間30~40件,打ちこわしを含めても80件ほどである。グラフによっては,1年集計ではなく10年間集計となっている。つまり,視覚的に江戸時代前期と比べて後期(幕末期)が急激に増加していることを理解させようと意図的に作成しているようにさえ思える。歴史の授業においても未だに貧農史観から脱却できていない。米価の高騰のグラフと対比させ,百姓が物価高に苦しみ,その上で厳しい年貢の増徴に耐えきれず…が定説となっている。はたしてそうであろうか。

上記の百姓一揆発生件数のうち,強訴に至ったのは何件か。その要求項目は何であったのか。さらに,江戸時代300藩があるので,そのうちの何藩で起こっているのか(規模も関係するが…)

明治初期に発生した「新政反対一揆」や「士族の反乱」と比べて,百姓一揆の性格は大きく異なる。江戸時代の藩政がそれほどに百姓にとって苦しいものであったなら,「新政反対一揆」の要求項目に「江戸時代にもどせ」「藩主をもどせ」が掲げられることもなかったであろう。強権的な支配だけで江戸時代が260~70年間も続くはずもないだろう。
岡山藩で起こった被差別民による「渋染一揆」の際,「武器も筵旗も手にせず」を強調して非暴力を高評価するが,(確かに同時期の幕末においての「世直し一揆」や「打ちこわし」と比べればそうかもしれないが),<百姓一揆の作法>に従ったとも考えられる。
なぜなら,「渋染一揆」は,「百姓と同等」であると思っている(自意識)被差別民が,それゆえに「百姓との差異を明確化」(衣服規制などの別段御触書)の撤回を求めて起こした一揆であるからだ。「渋染一揆」の授業で強調すべきは,非暴力ではなく,彼らの自意識であり認識である。この点に関して,柴田一も『渋染一揆論』で「御百姓意識」として展開している。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。