見出し画像

探求書

現在、私のライフワークの一つ、<ハンセン病史>を書いている。関係書や資料を読み込みながら、絶対隔離政策を主導した<光田健輔>を基軸に、日本のハンセン病対策がどのような経緯で行われてきたかを、時代背景や世界の動向、行政や医療などの関係者の立場や思惑、社会意識などの影響を整理しながらまとめている。あくまでも「整理メモ」の段階で、いずれ論文に仕上げるつもりだ。

関係書や資料は随分と集めてきたが、まだ不足しているものも多い。図書館や療養所の図書室などで借りたりコピーしたりしているが、どうしても手元に置いて、その都度開いて確認したい書物もある。だが、そうした本に限って入手困難な場合がほとんどである。金銭的な問題ではなく、探しても見つからないのだ。
昔は古本屋を巡って探すか、知り合いの古本屋に依頼して見つけてもらうしかなかったが、近年はインターネットの進展と普及により、店舗を持たない古書店が増え、Amazonや「日本の古本屋」を通して探求書を探して購入することができるようになった。随分と便利になったものだが、それでも何年何十年と見つからず、検索にもかからない書物もある。

通販サイトやインターネットにより「時間」と「移動」が大幅に短縮できたことはありがたいが、反面で「検索」がすべてなので、見つからないものは見つからない。しかし、実際に古書店の書棚を時間をかけて見渡す場合、思いもかけず探求書を見つけたり、手に取って開いて掘出し物に出会ったりすることがある。
書名に惑わされて購入して内容にがっかりすることもある。逆もまたある。特に複数人が執筆している全集や論文集には執筆者や内容の確認が重要になってくる。もちろん、「引用一覧」「参考文献」は目を通しておくことは必須である。
実際、『ハンセン病文学全集』の書名から小説や詩と思っていたが、第4巻「記録・随筆」、5巻「評論」があり、その中に探していたものを見つけることができた。

それでも長い歳月をかけても見つからなかった書物が、先日「日本の古本屋」から連絡があり、ようやく積年の願いが叶った。光田健輔に関する必読書、藤楓協会編『光田健輔と日本のらい予防事業』(昭和33年発行)である。国立国会図書館よりダウンロードをして読むことはできていたが、やはり現物が手元にないと不便である。

今から66年前の書物であり、700を越えるページ数であるが、装幀がしっかりしており破損もない。経年劣化は仕方がない。数万円と高価であったが資料的価値と手元で参照できることを合わせれば、むしろ安いとさえ思う。価値など人によって異なる。

私は闇雲に収集する癖はない。初版本や稀覯本を集める投機的な考えもない。書棚に並べて悦に入ったり、集めることで読んだ気になったりする愚かさは皆無である。同じような辞書や辞典を何十冊も集めて、それを列挙して自己満足に浸るコレクターではない。ましてそれをブログに書いて誇示するなど恥ずかしくて、私には到底できない。英語辞書の収集家が英語に堪能であるかどうかは別である。本の所蔵数が知識や知力のバロメーターにはならない。

大学時代、恩師の友人である牧師を訪ねたとき、彼は万巻の書物に囲まれた書斎で、机上に積み上げた辞書や参考文献を駆使しながらヘブライ語の聖書と格闘していた。英語・ドイツ語・ギリシャ語・ラテン語と比較しながら原典を読解しようとしていた。彼の書物は彼自身の目的のために集められた。その姿は彼の書斎とともに今も鮮明に記憶にある。

私にとって「書籍」は知識を得るための手段であり、思考訓練のための教材であり、論文を書くための資料である。陳列や収集、誇示が目的ではない。

私が引用先や参考文献にこだわるのは、引用の正確性と解釈(理解)が気になるからだ。特に批判するための「引用」においては、自説に都合のよい「引用」「解釈」をしている場合が多い。「引用」の誤読や誤解程度ならまだかわいいものが、意図的に悪意をもって曲解したり独断したりする最悪の人間もいる。ひどいのになると、自分の解釈や言葉を相手が書いているように「引用」文に書き換えたり、付け加えたりして文意そのものを虚偽する。

「批判」するのなら、せめて出典や根拠を明示すべきである。相手の主張を正確に読み込んだ上で、相手が何を根拠に主張しているかを「出典」から考察し、さらに自らの主張の根拠を提示すべきである。

私は可能な限り「引用」先の書籍なり論文なりを探して手に入れるようにしているから、探求書も増えていく。特に、年代が古いものや雑誌に掲載されただけのものなどは、入手するのに随分と苦労する。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。