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解放とは

林力先生の著書にあった一文に誘われて島比呂志氏の著書を買い求めて読んだ。読み始めてすぐに,その圧倒的な存在感に心揺さぶられ,確かな論旨と文章力に惹きつけられた。林力先生について触れた次の一文がある。

「それは,すごい」私はそう言ったきり,次のことばが出なかった。あまりの感動に胸が詰まり,溢れそうになる涙をこらえるのが,やっとだった。癩を煩ったことは不運ではあるが,悪事を働いたわけでも罪を犯したわけでもなく,恥としたり隠したりしなければならない理由は,どこにもない。それなのに,患者も家族も,必死になって隠している。しかし心のどこかでは,結核のように隠さなくてもよいようになったら,どんなにか心が晴々とすることだろうと,願っているのだ。林力氏は,何千という聴衆を前にして,父は癩だったと語り出すという。私は映画でも見ているような解放感に,ただただ感激するばかりだった。
(中略)
林氏は,被差別部落の人々と変わらぬ貧しい生活をしている両親が,彼らを悪しざまに言うことで,自分たちは彼らに比べれば恵まれている,とする差別心理を描き出している。当然,そのような両親に育てられた子供のなかには,根深い部落差別の心が宿されているはずである。小学校の助教諭となった林氏は,絶対部落の子供のいる学校には行きたくない,と祈る思いだったと告白している。しかし皮肉なことに,氏は部落の児童の最も多い小学校で,十年も教鞭をとることになり,次第に部落の実態に触れてゆくのである。
(中略)
読後に強く感じたことは,氏のやさしさと謙虚さであった。…常にひとりの人間として,一教師として,自己の生い立ちから現在に至る差別認識の過程を回顧点検しながら部落の児童や家族の生活に触れ,その中で同和教育のありようを模索しようとしている。同和教育の最終目的は,部落解放にあることは論をまたないが,癩という強固な秘密の扉を開き,『恥部でないものを恥部としてきたわたしの弱さ』を打ち破った林氏の勇気は,解放を必要とするすべての人々に光明を与えてくれるはずである。
島比呂志『片居からの解放』(社会評論社)

私は,部落史研究の目的を部落問題に関する「差別及び差別構造の歴史的解明」と「差別認識の過程の解明」と考えている。
「恥部でないものを恥部とした」のは誰か。「恥部でないものを恥部とさせられた」のは誰か。この両者からの視点が「差別認識の過程」を考察する上で重要である。

差別や偏見が再生産・再編成されていく過程において「差別認識」は重要な役割をもつ。本書には,その実例がいくつも紹介されていて興味深い。

丸山ワクチンの創始者である丸山千里博士が「ハンセン病患者に結核患者がいないことに着眼してワクチン開発を思いついた」という報道は明らかな誤認であるが,それを事実として引用して論を展開した文芸評論家の柄谷行人氏がいる。

…ただ興味をもったのは丸山氏が本来は結核のワクチンを,ハンセン病患者に結核患者がいないという経験的直感からハンセン病のワクチンとして,さらに同様な推理によってガン・ワクチンとして転用してきたプロセスである。
(柄谷行人「意味としての病」)

島氏は,次のように危惧する。

このように,丸山氏が誤認した事実を,柄谷氏が事実として引用したごとく,第二,第三の柄谷氏の出現も考えられるし,また柄谷氏の文章からの孫引きなどを考えると,その波紋は果てしなく拡散してゆくように思われる。そしていつの日か,「意味としての病」に苦しめられてきたハンセン病患者に,さらに誤認による新しい意味が加えられるかも知れないのである。その新しい意味が,偏見を生むか理解を生むか,それは分からない。ただ私は,正しい医学的事実に基づいた,正当な理解を望むだけである。

亡くなった作家の栗本薫氏は,長編SF小説『グイン・サーガ』の初版本(1979年に雑誌に掲載)に「癩伯爵」という人物を登場させ,「わしにとりついた業病は,空気にふれてもひろまる」とか「癩という業病にきくのは,人の生き血と,生肉以外にはない」など偏見による差別的な表現で書いている。栗本氏は関係団体からの抗議を真摯に受けとめて謝罪し,書き直しているが,私は彼女がなぜそのような偏見をそのままに記述したのかを問題にしたい。

一つには,当時のハンセン病に対する偏見と無知によるまちがった社会認知の状況を反映したものであったと考えることができる。遺伝病・伝染病といった誤った知識・認識から派生した偏見や先入観が事実として広まっていたのである。もう一つは,作家である彼女が調べれば最新の情報を入手できたにもかかわらず,当時の社会の風聞のままに,主人公に対して「敵」の悍しさを演出する表現として「ハンセン病」を利用したことである。
栗本氏は,癩という名を表現として使っており,差別意識などなかったと言っているが,彼女の中に「ハンセン病」に対するまちがった認識や偏見がなかったとは思えない。そのような表現を使ってしまったということは,日常で「癩」という病が悍しく恐ろしいものであると感じていたからであり,当時の社会においてそのように思われていたという認識があったからである。

先の柄谷氏と同様に,栗本氏にも「文章化した責任」がある。個人的な日記として人知れず秘して書き綴るのであれば,事実誤認や錯誤,あるいはイヤミも皮肉も大して実害はないが,不特定多数に向けて「公開」するのであれば,自分の文章に責任をもつのは当然である。もちろん,個人的な日記であっても,良心の呵責や自分自身に向けた恥ずかしさなどはあると思うが…。自分勝手な思い込みや憶測から事実確認もせず,書きっぱなしの文章を読み返すこともせず「垂れ流す」ことの無恥は,無知よりも始末におけない。

解放とは何か。私は自分自身にある偏見や先入観,差別意識を払拭していく作業であると考えている。他者のため,たとえば部落解放は部落民のためといった自分をどこかにおいた解放などではない。
同様に,他者を否定することでもない。たとえば,部落民に対する差別者を見つけ出して否定することで部落解放が達成されるものではない。

部落民か部落民でないかという二律背反的な思考では部落解放など,いつまでたっても平行線である。私は部落解放のために,すべての人間が部落民にならなければならないなど一度も提言したことはない。「被差別の立場に立つ」ことは「部落民になる」ことではない。そのようにしか解釈できないから「部落民と結婚しなさい」などの荒唐無稽な戯言に振り回されるのだ。
他者の言説の真意をそのままに受けとめられず,曲解してしまう自分自身の思考を検証すべきであろう。「被差別の立場に立つ」とは,相手の置かれている社会的状況,相手の社会的立場に立って物事を客観的にとらえることである。差別を解消していく立場である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。