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生い立ち

かなり長くなるけど、
そもそもこれが書きたくてnoteを始めたのです。

これを見てくれて、読んでくれて、
同じ経験をした人とか、今まさに同じ状況に置かれてる人が、少しでも自分のバックボーンにポジティブになってくれたらいいなと思うし、元気付ける事ができたら尚嬉しいです。

でもなんか、こういう話ってなんとなく美談にしがちだから、できるだけそうならないようにしたいな〜と思っております。

こんな感じで話していくので、気が向いたら最後までお読み下さい。笑

始まり

人生初めての転機は、3歳の時に両親が離婚したこと。その後、父が私の親権を獲得!笑
いわゆるシングルファーザーになりました。

父と娘、それはもう大変だったことでしょう笑
私はこの頃めちゃ朝が弱くて、毎朝幼稚園に向かうママチャリの後ろで、首がぐわんぐわんなっていたのを覚えてる。
当時の家は、何故か毎晩寝室にゴキ◯◯がでて、、、(古い家だったからかな、、、)
でも当時は虫に対してそこまでの嫌悪感はなかったので、真っ暗の中私がゴキを見つける→父が新聞で叩き殺すっていうお決まりの流れでした。
まぁここまではそれなりに親子仲良くやっていたと思う。(あんまり記憶ないけど。笑)
問題は5歳ぐらい?になってから。

継母登場

私を育てる為に、父は会社にお願いして、退勤時間が早い勤務体制にしてもらったりしてたみたいだけど、それも長くは続けられず、、、
紹介?で出会った継母とスピード再婚。
もう少し交際期間設けようよ〜最低5回はデートしないとさ〜とかめっちゃ思いました。笑
でも当時は父もかなり大変だっただろうし、私の為にそうせざるを得なかったんでしょう。

ただ、私と彼女らとの相性は最悪だった。
犬と猿どころじゃなかった。笑
(ちなみに、継母には私より6歳年上の連れ子がいた。)

常に、継母は私を子供ではなく女として見ていて、何かと私に対して嫉妬心剥き出しでした。

弟誕生

私が6歳ぐらいの時、下の弟が生まれた。
この頃から継母達の私に対する扱いはどんどん酷くなっていて、事あるごとに実母の悪口を聞かされる日々。
(ただ母親の記憶はほぼ皆無だったので、なんのこっちゃわかってなかった。)
家の中では当然居場所なんてないし、食事も別。
小1にしてほとんど部屋から出ない生活。
自分が空気みたいだったな。

継母、連れ子からのDV

決定的な瞬間っていうか、いつからっていうのは全く覚えてない。
気付いたらそんな毎日。
父が仕事に行った瞬間から始まる。
学校に行っても常に痣だらけだったから、保健室で1日を過ごして、先生とおしゃべりして帰る事が多かったかな。

父に助けを求めたくても、いない時に何をされるかわからない恐怖で何も言えなかった。

時には、洗剤まみれのハンバーグが夕飯だったり、
(どうゆう状況?って感じだよね笑)
まぁこんなのはまだ序の口なんだけど、
とにかく今思い出すととんでもねえ幼少期です笑

遂に

そんな毎日が続いていたある日、遂に、
頭を怪我してるのを、父に見つかり病院へ急行。
病院から帰宅し父大激怒。
その後、すぐに私は児童相談所に一時保護されることになりました。

父も、自分の娘を施設に預けるという選択は、簡単ではなかったと思う。
きっと悩みに悩んで決めてくれた事だし、結果的に私は安心安全を保障されたので、この選択をしてくれた父に感謝しています。

施設での集団生活始まる

一時保護された3〜4ヶ月後ぐらいに、正式な入園先が決まった。
当時小学2年の6月頃だったと思う。

入園した最初の頃は、継母から連絡がきたり、手紙が来たりして、どこまで付いてくるんだこの女はと大変だった。(手紙の中身も、鬱になったのはあなたのせい。とかわけわからん内容ばかりで終始気持ち悪い奴だった。)
でも、職員の人達が全力で私を守ってくれて、電話も取り継がないようにしてくれたので、私は心の安定を少しずつ取り戻していけました。
何より、普通にご飯を食べて、お風呂に入って、学校に行ける事がとてつもなく嬉しかった。

施設では、小2から中3までの8年弱を過ごした。
その間、父は片道90キロの距離を毎月欠かさず会いにきてくれてました。

仕事終わり、数時間しか会えなくても。
来るにはお金もかかるし、移動距離も遠くて、本当に大変だったと思う。
でもそのおかげでグレずに済んだんだと思います。笑

憧れのJK

高校に上がる少し前に父が離婚することになり、私達は、約10年ぶりに父娘2人の生活に戻ることに。

ただ、離れて暮らしていた8年分の空白を埋めるのは、予想外に大変でした。
予想以上に、ではない理由は、そもそも父と暮らしていた時どんな感じだったか思い出せなくなっていたし、私自身、幼少期の大半が集団生活になっていたので、中々慣れるまでに時間がかかりました。
生活環境がガラッと変わった事による疲れからか、入学当時は常に眠くて、倦怠感もすごかった、、

人生3度目の転機

施設に入る事になったのが2度目の転機だとすれば、これが3度目になるのかな。
父が離婚して、私はやっと世間で言う普通の家庭に戻れたのかなと安心してたんだけど、継母が1人で3人の子供を養うのも難しかったようで、案の定父に助けを求めてきました。(父の扶養に入る事で、なんかしらの手当が自治体からもらえたらしい。)
なぜこうも理不尽な人生なんだと思ったけど、高校生の私は親の選択に従うしかなく、、
ただ、あれから10年近く経っていたので、継母も少しは人間性がマシになってるかなと無駄な期待を抱いてしまって、これが最大の間違いでしたね笑

再婚という名の呪い

もう呪いとか言っちゃってるけど笑
この時私は高2で、再びの地獄の生活が専門1年まで続きました。

幼少期の頃みたいな肉体的な暴力はなかったんだけど、精神的なものに変化していて。
とにかく毎日のように暴言、始まると数時間拘束される事もあって、酷い時は友達とか、私の周りの人間の事も侮辱してくる時もあって、だんだん私も洗脳された様に自分の事を卑下するようになってしまってた。
たまに言い返す時もあったんだけど、そうすると拘束時間が倍になるので黙ってる事が最善の対策でした。笑

お風呂に入る順番も、暗黙の了解で1番最後まで待ってないといけなかったし、入れるまで仮眠とって、起きたら夜中の3時、4時とか。
入ってる途中でガス消されたり笑
陰湿な嫌がらせがすっごいたくさんあったなぁ笑
そっから2時間ぐらい寝て、朝起きて学校行って。
もう寝不足とかの次元じゃなかった笑
流石にやばいと思って、家帰る前にジム寄って、風呂だけ入って帰宅したりとか。
風呂入るためだけにジム通ってた様な気がする笑

二十歳の転機

まぁ、こんな酷い生活に耐えながらなんとか生きながらえていたんだけど、笑
二十歳になった時、私の人生最大の転機が訪れました。

ある時、父に話があると言われ、謎に改まってどんなバッドニュースだ〜と思っていたら、

「実の母親から連絡が来て、お前さえ良ければ会いたいと言ってるけど、どうする。」

と、言われた。
え?実の母親?私の?誰?
もうプチパニックですよね笑

3歳の頃に離婚してから一度も会ってなかったので、ほぼ記憶は残ってなくて、全く実感が湧かなかった。

そもそもなんで今更連絡してきたんだろうっていう疑問と、会ってどうしたいんだろうっていう気持ちで、
どうする?って言われても、私としては、別に今更会ってもねぇ、、って感じだったし、もしかしたら向こうも再婚して、他に子供ができてるかもしれない。もしそうだったらと思うと、正直怖くて会いたくなかった。

この頃の私は、既に自己肯定感もクソもない鬼ネガティヴ少女だったので、ほぼ初めましての人に、自分から会ってみようなんて思うわけもなく。

ただ、数日経つと、少しずつ自分の実母に対して興味が湧いてきて、どんな顔してるんだろう。私に似てるのかな、仕事は何してるんだろう、どこに住んでるんだろう、とか。
段々と会ってみたくなってきて。
でも勇気がなかったので、一先ず父親に先に会ってもらった。
友達とか、当時の彼氏にも相談して、結局、会いたくないわけじゃないなら会ってみてもいいかって事で、父親と3人っていう事を前提に、会う事にしました。
(この時の自分の選択は本当に正しかったと自分を褒めてあげたい。笑)

みっちゃん(母)との再会

私にとってはほぼ初めましてと言ってもいい、実母との17年ぶりの再会。笑

あの瞬間は一生忘れないと思う笑

とにかく見た目も中身もイケてる母親でよかった〜って安心してた笑

みっちゃんは、私たちの家庭が全然うまくいってると思っていたらしく、父が最初の再婚をした時に、継母が連絡しない様にみっちゃんを牽制していたらしい。(継母の嫌い要素増えた瞬間)
ただ、私が二十歳になったら連絡しようと思っていたらしく、それまでは独り身でいようと決めていたらしい。なので、再婚もしていなかったし、子供ももちろんいなかった笑
その代わり、犬を飼ってましたね笑

会う前は、打ち解けられるかすごく不安があったけど、親子だからか、不思議と安心感があって、すごく話しやすかったのを覚えてる。
2人で会える様になるまで、時間がかかると思っていたけど、2回目でもう2人で会ってたな笑

救世主現る。

みっちゃんと再会してから、私の人生は激変しました。
メンタルが限界に達していた時、遂に私だけの味方が現れた!って感じ。本当に、会ってよかったと思ってます。

そして驚く事に、同じ市内に住んでいたので、
みっちゃんの家に逃げ込み、そのまま居候開始笑

毎日あったかいお家ご飯食べて、湯船に浸かって、毎日7時間寝る。朝はお弁当作ってもらって、一緒に家まで帰る。最高な当たり前の生活が戻ってきましたね。

そして現在。

ここまで長々と私の生い立ちについて書いてきましたが、ここまで読んでくれた方、本当にありがとうございます。

現在、みっちゃんと暮らし始めて5年が経ちます。
17年間も離れていたから、うまくいかないんじゃないかっていう不安もないわけではなかったけど、いつも私という人間を理解しようとしてくれて、私もみっちゃんのおかげで本来の自分を見つける事ができたし、人間としても成長できていると感じています。

私たちの関係は、母と娘というより、歳の離れた友達のような関係性。

それは、17年間離れていたからこそ、今の関係性が築けているんだと思う。
再会するのが二十歳より早くても、遅くてもダメで、あのタイミングだったからこそ、今の私達があると思います。

今回、自分の生い立ちを話すと決めたのも、みっちゃんに勧められた事がきっかけです。どう思われるのかとか怖くて少し行動するまでに時間がかかってしまったけど、、
私の話を聞いて救われる人は絶対いるよ。と言ってくれて、少しでも誰かの為になるならと、noteを始めました。

今やっと、ここまで面白おかしく話せる様になって、少しずつ自分の事も好きになってきたけど、当時は本当に辛くて、なんでこんなに辛いことしかないんだろう、私って生まれた意味あるのかな、なんかもう死んじゃいたいなって、常にそれしか考えてなかったです。

正直、父親との間にあるわだかまりみたいな物も消えてないし、今後、また継母と会わなきゃいけないタイミングは来ると思っています。
でも、あの時みたいに1人ではないから、助けを求められる人が今の私には沢山いるので、乗り越えられるんじゃないかなって思ってます。

よく、子は親を選べないって言うけど、以前、ある人が子は親を選んで生まれてきているんだよって話しているのを聞いて、とても腑に落ちて、今まで起こった試練は、全て乗り越えられる事を知ってて、両親のもとに生まれてきたんだと思ったら、心が軽くなりました。

なので、過去の話をすると、よく可哀想とか思われがちなんですけど、今はもう自分の事を可哀想とは思わないです。
確かに辛い事は多かったかもしれないけど、それを乗り越えてきたからこそ、今の自分があって、当たり前の日常をすごく大切に思える。
その事を若いうちに気付く事ができてラッキーな人生だなって。

今、思うこと。

きっと、私と同じ様な状況で苦しんでいたり、それ以上に、苦しい事や辛い事に直面して、自分を責めたり、希望を見失ってしまう時ってあると思います。

でも最近は、そういった思いを簡単に口にできない世の中になってしまっている気もします。
誰もが何かしら心の中に闇を抱えて生きていると思うけど、何故かそれが悪いことの様に。

間違った解釈で変化した闇が、どんどん大きくなって、棘みたいに、自分のことだったり、周りを傷つけてしまったり。

こんな事が当たり前な世の中にならないように、少しでも心の闇をシェアできる世の中になればいいなと思います。

なんだか言いたいことが上手くまとめられないけど、どんな人であっても、価値の無い人間なんていなくて、私の話を聞いて、少しでも、自分は1人じゃない。他人の闇を受け入れて思いやる人間もいるって事が伝わったらいいなと思います。

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