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神様ありがと①

憂鬱になるイギリスの冬を越えて、ようやくここにも春がきた。時々、暑いのか寒いのか分からなくなる4月。コートを着て外に出ると、汗をかいて帰ってくる。

天気の話はイギリス人の、いや世界の共通トピック。美しい日だと、「What a beautiful day!」となる。私も知らぬ間に天気の話から始めていたら、「えみもイギリスに染まったね。」と近所に住むリチャードから言われてしまった。そんなつもりじゃなかったのにな。笑

さて、将来のことで苛立ちを抱えていた私は、バドミントン中に靭帯損傷。病院に担がれ、その後10日間歩けなかったので部屋から出ることすらできなかった。

事故が起こった日

事故が起こる前、私はマレーシア人で友人のキットに電話した。「ねーねー、私いますごくイライラしていて、バドミントンしててもなんか爆発して失礼になりそうだから、行かない方がいいかなあ。」
キット:「いいよ、おいでよ。バドミントンはストレス発散にもなるよ。」
私:「いやクリスチャンとしてさ、なんかしでかしたらどうしようと思って。人に失礼なことがないようにしないと。」
キット:「大丈夫。大丈夫。」
私:「わかった。じゃあ、来るね。また後で!」

その日私は、なぜか強いチームとばっかり打つようにアレンジされて、二試合目くらいでだいぶ足は疲れていた。

2、3試合目で相手チームにいたのは、イギリス人の女性。いかにも「私強いでしょ」と言わんばかりのプライド高い人。私は、笑顔で見せかけて、自分の中では自分が一番強いと思っていたので(復旦大学内女子シングル優勝した)、「っへ!私が実力を見せてやる。」と思っていた。

事故はそんな私の心を見透かした神様からの雷のようにやってきた。
相手コートにスマッシュを打った瞬間、パキッという音と共に膝が180度を越えて前に行ってしまった。私はその場でしゃがみ込んだ。痛みはあまりなく、驚きの方が大きかった。何が起こったか分からなかった。しゃがみ込むと、皆がサポートしてくれて、車を持つギリシャから方が病院まで連れて行ってくれた。私の友人のキットも一緒に来てくれて、車椅子を押してくれた。

日曜日の午後。救急で外傷だからか、一番に通されたが、待合室には診察をまつ多くの人がいた。

ナースの方が、足を押して、「ここ痛いですか?」と聞いてくる。膝を曲げることもできた。「伸び切っただけですね。Stretched out」と言われた。

しかし、そんな簡単なことではないことは、自分の中で薄々わかっていた。

帰宅したら、キットと日本人の学生が尋ねてくれた。せっかく訪ねてくれたので、麺をつくて一緒に食べた。そこで少し無理をしてしまったのかもしれない。

翌朝、痛みと共に目が覚めた。病院に行ってMR検査をして見ないといけないと思った。左膝の裏の靱帯を痛めていた(と思う)トイレに行くにも壁傳だった。病院の先生に診てもらうことなく、ナースの方に「伸びただけ」と言われて、診断してくれなかったので、陸上部時代からの親友に電話して、自分で診断した。私の症状に基づくとこの怪我は、

「靭帯損傷」。

翌日、教会には車で送ってもらい、帰りに食料品を買うためにスーパーにも連れて行ってもらった。ありがたかった。昔陸上部で走りすぎて腰をすり減らしたことがあったが、歩けないほどではなかった。今回は文字通り歩けなくなってしまった。

ホストファミリーから松葉杖を借りる。イギリスの松葉杖は脇に挟むのではなく、手でのみ、手首でのみ支えるので、歩きながら腕立て伏せ状態。手が鍛えられる。

10日間、家から出たのは教会に行く時のみで、教会に行くときは必ず誰か(私のメンター、スーパーバイザー、教会のライフグループの人たち)が送迎してくれた。

いままで、天気の良い日は外に出ないと気が済まなかったが、それが身体的にできないと、家にいるしかない。食べる量を気をつけないと、松葉杖で支えられなくなるので、気をつけようと思っていたが、特に気をつけることもなく 笑 10日間であまり太らなかったのは、なぜだろう。(それとも気づいていないだけか)

この10日間、足をエスカレート(上に上げる)して、冷やして、動かず、という日々を過ごしていた。天気がいい日は外が恋しくなったが、動けないから仕方がない。しかし、変化もあった。

時間の使い方 外に出ないことをそんなに気にしなくていい

いままで、「1日一回は出ないといけない」と思っていた観念がなくなった。私は、午前中の仕事が終わった後、もしくは朝起きてすぐ仕事が始まる前に外に出るようにしていた。自転車でサイクリングして、40分ほどで帰ってくる。そしてその多くは、スーパーでフラフラしていた。

イギリスにいて、毎日それなりに忙しいが、寂しくなることもある。人間だ。スーパーはなぜか温かみを感じるのと、心の空虚感を食料を買うことで埋めていた気がする。もちろん、買ったものを全て食べるわけではないのだが、リスみたいに溜め込んで、いまはダンボール3箱のお菓子の箱がある。

パンデミックの影響もあるのだろうか。食糧を貯める癖がついてしまった。「外に出られなくなったらどうしよう」というトラウマがあるのは確かだ。アテネオ・デ・マニラ大学に留学中、フィリピンに行ってすぐ、1週間でマニラはロックダウン。私たち留学生はデマが飛び交ってなんの情報が正しいのか分からないまま、コメを買い込んだ。「水と米と塩さえあれば、とりあえず生き残れる」というスマトラ沖地震を経験したインドネシア人の友人が言ったからである。

いいわけではないが、そんなこともあって、食糧を溜め込む癖がついてしまったのだ。ちなみに日本に行くと化粧品を溜め込むので、とりあえず小さい頃からネズミかリスのように何かを溜め込む癖がある。(これは治さなければならないと思いつつ、いつもできていないなあ)。移動する時もいつも荷物が多くて、大学の授業に出るにしても、(通帳など少ないが)全財産を背負って大学に行っていた。

いつになっても、この癖はついてくるのか。

さておき、私はこのような習性を持っていたので、スーパーに行ったら、何か買いたくなって、毎回行くと10ポンド、15ポンドと使っていた。「いつか食べるだろう」「いつか使うだろう」の溜め込みだ。

おかげで、1ヶ月の生活費は留学生の3、4、いやもっと使っていたかもしれない。誤解しないでいただきたいのだが、決して贅沢をしているのではなく、リスのように安い時に安いものを買っては溜め込んでいるのである。

10日間の軟禁を経て、このリス活動が出来なくなってしまったので、生活費をだいぶ抑えることができた。そして、あるものを消費することができるようになった。なんでも新しいものから食べたくなるが、あるものしかないと考えると、前回まとめ買い、いや、ネズミ買いしたオートミールの箱があるのに気づき、消費し始めた。こうして味わって食べると、前に買ったものでも美味しい。

時間の使い方

さて、経済面以外にも、変わったことがあった。

集中力が長続きするようになったことである。
これまで、ひと段落すると「運動しないと」と思いすぐに外に出ていた。パソコンを長時間見た後、緑を見たくなるのである。そして、動きたくなる。それが膝の靭帯を怪我している間、歩けないので外に行けない、仕方なく仕事に引き続き勉強する、ということができるようになった。

間にどっか行かない分、時間を十分に使うことができた。遠いスーパーに自転車で気分転換のために行って、スーパーの中を思う存分物色して、帰ってくる、それだけで3時間経過していることも不思議ではない。そんな毎日を送っていたので、1日、1日があっという間だった。「なんでだろう」と思ってたが、理由はあったのである。

信仰面の変化

そして、最後に、信仰面の変化である。こちらは一番大切なこと。

私は、カンタベリーでの奉仕(ボランティア)の2年目を応募していた。すると、私を推薦したはずのスーパーバイザー(上司)から「あなたはOver qualified(経歴があり過ぎ)と言われた」という。

私のこれまでの経験と、信仰歴は全く関係ない。社会人経験はあるかもしれないが、信仰歴はまだ二年。私は学びたいのである。しかしながら、FI(私の奉仕している団体)からすると、私が「ビザ目当て」だとかただイギリスに残りたいからとか思ったのかもしれない。いや、そう思うのもやむを得ないというのは、多くの移民がクリスチャンで母国に帰ると迫害されると言って教会に助けを求めて、ビザが下りた後は教会やクリスチャンコミュニティから姿を消すというケースが私の身の回りでもあった。多くの難民がイギリスに来る。イギリスの社会保障を受けて、イギリス人は高騰した部屋を借りることもできないという現状があるのも確かだ。

イギリスはいまや移民の国となっている。私も含め、この素晴らしい国での暮らしをありがたく過ごしているのだが、寛容に受け入れてきた移民が多過ぎていまやイギリスは支えきれなくなっているのも確か。一方で、留学生から3倍の大学の費用を得ているイギリスの大学がビジネス化して1年の修士課程を履修する留学生を受け入れているのも事実。

話が逸れてしまったが、私はボランティアの仕事と、オンラインの有給の仕事を持っているのだが、そのことも引っかかるようで、ボランティアの仕事だけに専念するべき、というのが、FIの方針のようだが、これには私の言い分がある。どんな仕事も、クリスチャンであるならば、神様のためにすることであると信じている。

13 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、

14 あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。

ペトロの手紙一

銀行員でも、先生でも、どんな職業に就いていても、上司を敬いなさいと神様は教えている。

そして、神様に従うからこの世のことはほっといていい、税金なんか払わなくていい、という考えは間違っているとイエス様は教える。

「ローマ政府に税金を納めることは正しいことでしょうか。それともよくないことでしょうか。」という質問に対して、イエス様はこう述べている。

さあ、銀貨を出して見せなさい。」 銀貨を受け取ったイエスは、彼らに問いました。「ここに刻まれているのは、だれの肖像ですか。その下にある名前はだれのものですか。」 「カイザル(ローマ皇帝)のです。」「そのとおりです。ローマ皇帝のものなら、それはローマ皇帝に返しなさい。しかし神のものは全部、神に返さなければなりません。」

マタイの福音書 22:19-21 JCB

私たちは、山の中で修行して生きているのではなく、この世で揉まれて泥だらけになって生きているのである。この世と、私たちを引き離してはいけない。この世に染まり過ぎてもいけないが、この世に生きて、しっかりと貢献することをイエス様は望んでいるのである。

話は戻るが、私たちクリスチャンは、どこで遣わされても、神様のために働くのである。銀行員なら、神様のために仕事をしているのである。どんな仕事も、神様のためにしているのである。

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

コリントの信徒への手紙一 10:31 新共同訳

私は、オンラインの仕事「Secular job」ーイギリスではミッショナリー(聖職者)以外の職業のことをこのように呼びます。私は少し偏見があると感じています。浸透しているので、自分も使ってしまうのですが。)を持っていることに後ろめたさを感じたくない。私は、神様のために働いていると信じている。そして、自分の成長のため、経済的な支えのために働いている。

仕事を持つことと、私の信仰とは関係ない。聖職以外の仕事を持っていると信仰が「少ない」のか。そんなことはない。だから、私は別な仕事を持つことに対していわゆるミッショナリーの方から一言いわれたとき、黙っておくことはできなかった。黙っていても、誰にぶつけるわけにもいけないので、イライラして自転車を速いスピードで走らせていた。いつ深刻な事故が起きても不思議ではなかった。そんなとき、

靭帯損傷して、10日間部屋に閉じ込められた。

イライラも、靭帯と共に切れて、苛立つことも無くなった。弱くなり、立っていることもできない自分が小さく見えた。同時に、これまでの自分、暴力的だった自分、プライドを持っていた自分、お金を無駄に使っていた自分に気付かされた。そして、神様に委ねることをまた学んだ。

自分では、どうしようもない。イライラしても、何も変わらない。それどころか、思いっきり怪我をしたし、周りの人に不満をぶつけることでうれしくさせなかった。私は、人をジャッジする人間になっていた。

「私をジャッジするな!」と他人を「ジャッジ」していたのである。




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