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愛は正義に勝る


安息日を守ることは、十戒のうちの一つ。

9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

出エジプト記 20

13あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。 14安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。 15六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。 16イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。 17これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。

出エジプト記 31


と死の刑までに定められる罪なのである。そんな安息日には、死刑を恐れてもはや「働こう」と思うものはいなかったのではと思う。しかし、イエス様は、そのようないわゆる常識を覆した。安息日に様々な癒しと奇跡を起こしたのである。

マタイによる福音書 12において


1そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。 2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。 3そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。 5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。 6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。 7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。 8人の子は安息日の主なのである。

マタイによる福音書 12


最後の第8節から読み取れることは、イエス様は安息日をも支配する主ということである。そして、人が安息日のためにあるのではなく、安息日が人のためにあるということである。

27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2


当時の律法文化とキリストの新しい理解、その大きな違いは、律法主義に支配されていた人々と異なり、キリストは安息日すら支配する主であり(主は安息日の造り主)、人を愛するキリストは安息日は人のためにあるべきであり、「安息日は人のためにある」ということを強調された。人もまた律法のために生きるのではなく、愛を持って生きることを教えているのではないだろうか。


私は、クリスチャンの伝道団体で働いている間、主催するバドミントンの交流試合で審判を勤めた。バドミントンの経験者であったからである。交流試合とはいえ、私は真剣になり、試合前の練習の厳しい時間管理、ラインから外に出たときは、周りを静粛にさせて自らの判断を押し通した。

あるとき、インド人の留学生が練習をせずに試合用コートに入ってきて、練習をしたいと聞いてきた。私は、「練習の時間は終わった。もう試合をしなければならない。これまでみんなそうやってきたから。」と厳しく言い放ち、試合を始めた。インド人のチームは負けた。彼女は悔しそうに私を見た。

そして私に言った。「えみ、あれはフェアじゃなかったを。私は来たばかりだったのに、いきなり試合で。」それから、彼女は私と会ってもハグもしてくれなくなった。

愛はルールに勝る

私はホストファミリーのAndrewにこのことを話した。すると、Andrewは言った。「愛はルールに勝る。えみの持つ正義感、それよりも、愛を持って接する方が勝るんだよ。」そう教えてくれた言葉にはっとした。私も嫌がらせのつもりで彼女に厳しく接したのではない。みんなの言い分を聞いていたら、試合が一向に進まないということ、それから審判として公正に、一度言ったルールは取り消すことができない(前にルールを従った人に不公平になるため)と思ったのである。

Andrewのことばに、私は彼女に対して、愛を持ってではなく、ルールを持って接していたことに気づかされた。

正しさは愛に勝らない。そのことを学んだ。律法学者は一生懸命律法を守ろうとした。それ自体は間違っていない。もはや、死刑になりそうな安息日を破る人たちに注意をして、助けようとしたと見ることもできる。しかし、イエスは、そのルールを愛で持って塗り替えたのである。ルールは愛に勝らない。安息日に空腹を覚えた弟子に食べさせることも、病気の人を癒すのも、愛によって行ったのである。愛は何よりも先にくるべきであり、愛はルールに勝るべきなのである。


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