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記憶の狭間を埋める旅 関東大震災100年

関東大震災100年

今年は関東大震災から100年になるということで、社会現象としてのその大震災の実態を追ってみたい。国内、国際の両方の視点からその前史を追ってみて、その矛盾解決としての大震災という社会現象をみてみるという取り組みだ。社会現象として考えた時の大震災ということになると、その後に起こる昭和初期の政治的混乱、昭和金融恐慌、そして世界恐慌から第二次世界大戦に至る一連の流れ自体の方が、その帰結としては記述するのに相応しいのだろうが、いきなりそこから始めても、社会現象としての大震災の意味するところが明らかにならないので、ここでは大震災に至る前史を追うことで、その社会現象性を確認してゆきたい。文脈を踏まえるための前史として一体どこまで遡ればよいのか、という問題が発生するが、ここでは、基本的に国内は大正時代、国際的には第一次世界大戦とその戦後処理をみることで、大震災に至る国内、国際的な流れをみることとしたい。

社会現象としての大震災

ではまず、社会現象としての大震災とはいったい何を意味するのか、というところを考えてみる。大震災というような大きな事件が起きると、それをきっかけにして社会のセンチメントが大きく動くことになる。最近でも、まさに東日本大震災をきっかけに、脱原発と自然回帰への流れの切り替わりの気配を感じたが、それはその後に軍国主義化へ進んだ関東大震災の時の流れの切り替わりと対を為す動きであり、それによって何らかの歴史的清算をしようとしたもののようにも見受けられるが、結局のところその動きはそういった歴史的清算の打算的感覚があまりに強く出たためか、大きな動きとはなりきらずに今に至っているのだと言えそう。それはつまり、関東大震災に歴史的清算をしなければならない何らかの事情を示したものであったとも言えそうで、それを追ってみることで社会現象としての大震災というものが見えてくるのではないだろうか。

繰り返す歴史から引き出される教訓

そこから遡って考えると、関東大震災ではそのような流れの変化がうまく作用したと考える人々がおり、それに対する反作用が東日本大震災で起こったのだと言えるのかもしれない。つまり、東日本大震災後の出来事の中には、関東大震災の時の韻を踏んでいるものがふくまれている可能性があるのだといえる。流れの変化は人の心の変化であり、一世紀も時代が下ってからその頃の人の心の動きを再現するのは決して容易なことではないが、それを考えることが社会現象としての大震災を考え、そしてそこから歴史の教訓を得ることにつながるのではないかとの基本的立場でこのシリーズに臨んでみたい。

国内国際の両面の視点

これを国内国際両面で考えることの意味であるが、この大震災が、第一次世界大戦という人類初の世界規模の戦争の後に、国際社会にデビューして50年余りの国が、常任理事国を務めることになる国際連盟というこれまた人類初の世界機関が発足し、洋の東西が急激に一体化してゆくという世界規模の流れが動きだした直後に、その矛盾が顕在化したかのように起きたものだと考えると、その世界的な位置付けということをみておくことが非常に重要であるということがある。

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