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哲学系調理補助〜修行じゃ〜

私は、東京から近い郊外の病院で、調理補助のパートをしています。そこでは、仕事だけでなく「人生の修養」みたいなことも学べます。

もともと、哲学のようなものが好きで「人とは」、「人のあるべき姿は」、「人はどう生きていったら良いか」などを日々経験に基づき、考察を重ねるのが好きな私は、調理補助をしていて学べるものが多いと気づき、自分で「哲学系調理補助」と、時々言葉遊びみたいなことを頭の中に唱えながら 仕事をしています。

と、言ったら凄くエライことをしているみたいなのだけど、

少しずつ人間として成長しているだけなのかな? と、思います。

周りの人の善い行い、

見倣いたい物言い、

集団のルール、

お手本にしたい考え方など、

わずか数名の事業所にも拘らず、
毎日、少しずつ学んでいってます。


「人間的成長」

この言葉に、魅力を感じ、
少しずつ進んでいきたい。



いつもは、私は、体力仕事で 私の脈拍も48(1分間に)と低いので(これは「スポーツマン心臓」と言われるものなので)
「体育会系調理補助」という記事を書いていますが、

「哲学」も好きなので、今回こうします。



なにか、問題があったとする、
人間関係など。

自分の体力の限界にぶち当たると、


「修行じゃ、修行じゃ」と言いながら、


洗浄機を回したりします。


時々、楽しいこともあって。

職場の人とふざけ合えたり、

わかり合えなくて、行き違いがあって、
悔しい想いをしたり、


けど、


それは、その時だけのことだったりします。

「すぺては流転する」


それは本当で、


その時その時の状況に囚われちゃいけないんです。


昨日、嫌なこと、嫌な人間関係があったからと言って、それは、

その人、その関係の全てじゃありません。

コンディション、環境、状況、その人の1日のそれまでの気持ち、様々な要素があって、
その人の一面が現れただけです。

相手の悪いところが現れて、それを相手の性格の全容だとみてはいけないと思うんです。

「相手は、こういう性格」と、決めつけると 人間関係はそこから固定されます。

人間関係をその人の性格の

氷山の一角をみて、決めつけて考えるのは早計過ぎます。


悪いように決めつけたときから、人間関係は手遅れになるんです。


人には善いところ、悪いところがあります。


それが、人間です。



その人の一面がみえただけで全体を決めつけるのは僭越すぎます。


「今日は、こんな日だ」


と、良いことがあっても悪いことがあっても私は考えます。


実際、この前の出勤日の時、関係が悪く思えても、その次は相手は気にしてなかったり、こちらのことを悪くは覚えてなかったりします。

気にしてないのに、相手は蒸し返されても気分が悪いでしょう。


基本的に人間は、敵意に溢れたところでは居たくないでしょう?


誰も好き好んで、ギスギスした関係でいたいと思いません。


皆 同じです。


それを信じて「いい関係を作り続けよう」と、努力するんです。


たとえ 造っては波に流される「砂の城」でも。


それは、自分のためでもあります。


何かあっととき、私は、


「修行じゃ、修行じゃ」と洗浄機を回します。

こういう考え方、どうですか?


そして、時には ふざけあえれば また、仲良く過ごせる日々が来ます。




              おわり


画像は、お松/金澤屋珈琲店 さんです。
    ありがとうございます🙂🌸


©山田えみこ.2023.1.11.



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