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激動の時代「言葉」が追い付いていかない

最近、「自分の思いを伝える」ことを躊躇ためらうようになった。

世の中の激動っぷりがあまりに著しく、圧倒されたことも一因だと思う。

生きるか死ぬか、滅ぶか生存できるか…の瀬戸際に立たされている人々のことを思ったら、自分が放つ言葉に責任を持たねば…。と強く感じるようになったのだ。

人が言葉を用いて発した「意見」や「気持ち」。それらは、相手が幼い子供であろうと、いかなるものであろうと、ちゃんと聞き、素直に認めて、相手の意向として尊重しなくてはいけない。

でも、それらをすっ飛ばして、多くの人々は、自分の期待に添う「意見」や「気持ち」を相手に求めてくる。自分の希望通りの反応を、相手がバッチリしてくれることを心から期待してしまう。

つまり、「私の期待に応えてくれた」=「自分への愛情と忠誠の証」
みたいになっているのだ。

だから、期待に反する言葉が相手の口から出てきた時、人は相手に失望し、自分の存在価値に絶望し、その悲しみとショックが裏返って「怒り」に転じ、相手を執拗に攻撃したり、暴力的な反応をして相手を自分に従わせようとしてしまう。

そう考えると、今の彼の国の戦争と同じ火種は、私たち日本人の心の中にも多くあるのではないか…と、ふと思ってしまうのだ。

親子間、夫婦間、家族間、職場や学校での人間関係…等々。いろんな場面で、様々なシーンで、自分も小さな〇ーチンになっていないだろうか?

こんな思いがグルグルし始めてから、私は、意見や思いを「言葉」にして出す前に、いったん自分の中に留めておくようになった。

単に、言葉に置き換えて表現するのが面倒くさいということもあるけど、今、ここで書いたことも、もしかしたら、明日にはコロッと変わっているかもしれないし、果たして「自分はこう思うます」と表明したことに、どこまで責任がとれるか?サッパリわからなくなってきたのだ。

この激動の時代、いろんな出来事に遭遇するたびに、ものすごいスピードで体験が自分の中で蓄積され、体験と共に、自分の価値観や主観もどんどんアップデートし続けている。

だから、ますます「言葉で伝える」ということに、躊躇してしまうのだと思う。

そう、きっと言葉が追い付いてこないんだよ。
あまりに速過ぎて。
それくらい猛烈なスピードで世界が動き続けている…ということだ。



この激動の波に押し流されている私たちは、もう過去には戻れないだろう。

慣れ親しんだ過去の全てを流されて失い、私たちは丸腰状態となって、未来へと続く新しい流れに乗っかっている。

果たしてどこへ行くのか?

それらを、「言葉」で表現することは非常に難しい。
ただ感じて、自分の中で咀嚼していくのに精いっぱいだ。

きっと100年前のスペイン風邪が大流行した当時の人々も、200年前の幕末の騒乱を生き抜いた人々も、時代が大きく変わる瞬間を体験してきた人々は、同じ気持ちでいたのではないか…と思う。


今までとは異なる新しい自分になって、そこから新しく自分を絞り出すようにして、新しい時代の希望となるような「言葉」を紡いでいくのが、私たちの使命なのかもしれない。

過去はここに置き捨てて、未来に続く新しい言葉を。



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