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厳しくて意味のない校則は、もう手放すべきではないか

今朝、野本さんのこの記事を読んで、「ホントその通りだよなぁ」と深くうなずきました。
「我慢が美徳」という昭和時代の価値観で子供たちをきっちり躾けてきた結果、良くも悪くも、この「我慢してルールに従う」教育の成果が出てきて「ゆるく生きている人が許せない!」という人ばかりになっちゃったのかもです。

この記事の中で、

最近の学校には、正直、なぜダメなのか、よくわからないルールがたくさんあります。「よくわからないけど、ダメなものはダメ」と学ぶのです。

という部分があります。

確かに、学校に通っているお子さんをお持ちの人の話を聞くと、「よくわからないルール」「意味のない規則」が結構あり、皆さん難儀していらっしゃるように感じます。

親側は「おかしい」と感じても、学校は「これが普通」という感覚で、親子が感じている違和感やモヤモやが、なかなか学校側に伝わらない…というジレンマがあります。

また、学校側の話を聞くと(知り合いの先生など)、相変わらず激務続きで心身ともに疲労困憊なところに、社会格差の広がりと共に子供たちの生活面や学習面の格差も大きく広がり、その差を先生方の教師魂と努力で何とか埋めていこうと奮闘している…といった感じです。
そんなギリギリのところで何とかバランスを保っている…この慌ただしい状況のなかで、「校則」だけがスッポリと時代に取り残され、見直されることなく順送りされ、この令和の世までズルズルと手つかずのまま来てしまったのかな…と思います。

ちなみに、私がかつて勤務していた学校は、保護者からの意見を聞いて「これは改定したほうがいいな」というルールは、柔軟に変えていました。

たとえば冬のコートやブーツについて、昔は女子はコートあり・男子はコートなしだったのが、「それはおかしいやろ」ということで「男子も女子もコートは自由」「冬のブーツも種類を自由」にしたことがあります。
これ、自分が「生徒の立場だったら」とか、あるいは「親の立場だったら」と、自分の立場を相手に置き換えて考えてみると、「これは変えないといけないことだ」とすぐにわかります。

しかし、こんな感じで柔軟に対応できる学校や地域ならばいいのですが、なかなかそうはいかず、融通がきかないところも多いようです。
NHKでこんな特集が組まれるほど、「行き過ぎた校則」は全国的に大きな問題となっています。

そもそも校則とは、学校で集団生活を安全・安心に送るために、皆で守るよう定めたルールのことです。
そして、持ち物や服装などをあらかじめ指定して決めておくことで、その分、勉学に意識を向けて集中してほしい…という願いもあります。

だけど、社会の多様化についていけない学校は、どんどん閉じて硬直化していき、そのしわ寄せを「校則を守りぬく」ことで解消させようとしているような気もします。

そんななか、昨年、とうとう文科省は、全国の教育委員会に対し、行き過ぎた校則の見直しを指示する通知を出しました。

しかし、どうして学校は規則を手放せないのでしょう?

かつて学校に勤務していた経験から言うと、何か一つ新しい規則を作れば、その分、教師の負担も増えるから正直大変なんですよね。

例えば、規則をキチンと守っているかどうか子供たちを監視しなくてはいけないし、また、破るものが出ないよう徹底的に守らせなくてはいけません。規則を守らせることに教育的な価値を見いだし、きちんと子どもたちに守らせていくことも、教師の仕事の一つです。

また、万が一、規則を破った者が出てきた場合は、何らかの罰(ペナルティ)を与えることが必要になります。違反者に対して罰を与えたら、ちゃんとペナルティを受けて反省しているか見届ける役目もしなきゃいけません。
さらに、規則をしっかり守っている生徒たちが損をしないよう、その努力を評価して認めてあげることも必要です。
守ることはプラスになる、破ると損をする。これを子どもたちに指導しなければいけないのです。

こんな感じで、一つルールを増やすと、これだけ仕事が増えるんですよ。だから、本当は規則は極力少ない方が良いのです。
じゃないと、いろいろと面倒で大変です。

あと、これは、私の経験から感じたことですが、指導力のない先生ほど、ルールをたくさん作って生徒に徹底して守らせることが好きです。

こういうタイプの先生は、生徒たちが従順でおとなしく、自分の言うことを素直に聞いてくれると、「ちゃんと指導が行き届いている」と安心するんですよね。生徒の気持ちより、見た目の状態&姿かたちがきれいに整っていれば、それで良いのです。

更にもっと指導力のない先生は、子供たちにルールを守らせるために、安易に叩いたり怒鳴ったり叱ったりします。キレて子供を怖がらせ、恐怖で支配しようとする先生もいます。褒めるより怒鳴って怒ることは、子供を黙らせて従わせるには非常に簡単で楽なやり方なので、能力の低い人ほど、安易に叱る・怒るに走りがちです。

こうして、形だけでも生徒をコントロールできていると、(生徒たちは嫌っていても)、それだけで「あの先生はいい先生だ」と評価されます。


また、ルールを作って守らせることは、イコール「生徒たちを管理する」ことでもあります。
管理が徹底できて、その結果、教師から見て「安定して落ち着いた状況」がキープできていると、今度は、この安定した状態が崩れるのが怖くなってきます。

いざ、そのルールを外して無くした時、一気に悪い方へと崩れて荒れてしまうかもしれない、自分達の手に負えなくなるかもしれない…と不安に陥るのです。

だから、一度きつく締めて定着させたルールは、絶対にめられないし、少しでもゆるませると、そこから決壊して崩壊するかもしれない…。
そんな不安と恐怖があるから、一度なじんだ規則は、なかなか変えることができません。

しかし、きつめに設定した校則をきちんと守ったからと言って、将来、子供たちが「幸せになる」とは限りません。
むしろ、校則の枠に閉じ込めることで、子どもたちの心をいびつにゆがめてしまうのではないか…と思います。

我慢はいいことでもあるんだけど、問題もあって。
それは、「他人を許せなくなる」人が同時に増えていくことです。自由に生きている人を見ると、
「ズルい」「私はこんなに我慢したのに、楽して生きるなんて許せない」
と怒りが増幅していきます。

野本さんのおっしゃる通りだなぁ…と、私はうなずくしかありませんでした。

校則がきつくなった理由

でも、どうしてこんなに校則がきつくなってきたのか?
これは私の推測ですが、おそらく1980年代の校内暴力のトラウマが発端じゃないか…と思います。

私は1980年代に中学生でしたが、確かに全国の中学校が荒れていて、私が通っていた中学校でも、荒れた生徒が暴れる事件が起きました。
テレビでも校内暴力や不良を題材にしたドラマが流れていて、今思えば「嵐」のような状況でした。

このとき、荒れ狂う生徒たちを鎮静化させるために、全国各地の学校で、かなり強気に指導に出ていき「暴力には体罰で対抗」…みたいな所もあったようです。

こうして力づくで生徒たちを落ち着かせた後、次に出てきたのが「管理教育」でした。

校内暴力が下火になるにつれ、「早期発見、早期指導」、「服装や頭髪の乱れは心の乱れ」という言説が目立つようになってくる。いわゆる「管理主義」の台頭である。1985年頃がその時期にあたる。

大阪教育法研究会『80年代校内暴力の「終息過程」』より

この辺りから、もう学校を荒れさせないために、生徒をコントロールすべく校則が厳しくなっていったように感じます。

「服装や頭髪の乱れは心の乱れ」
これは、私が中学生の頃に、生徒指導の先生がよく言っていた言葉です。
私が中学時代は、前髪の長さやスカートの丈を計られて、少しでも違反してると厳しく指導されました。「そんな髪は心が乱れてる証だ!それでは将来ダメな人間になって不幸になる!」と先生から言われたら、怖くて従うしかありません。
多感な時なのに、おしゃれ心は削がれていき、どんどん地味になっていきます。そして子どもが地味になればなるほど、先生も親も喜び安心するんですよね。

ブラック校則の学校は、今もこの標語の価値観が生徒指導の指針になっているのでしょう。
生徒をコントロールするのに便利な言葉なので、なかなか手放せないのだろうなぁと思います。

ちなみに、私が教師になったのは平成時代前期ですが、そのころ、職員室には、中学時代の私の恩師の先生方が何人かいらっしゃって、校内暴力で荒れた80年代のことをよく語っていました。

「生徒たちのためにも、もう、あんな大変な状況は二度と起こしてはいけない。」

教育現場では、あの荒れた時代の記憶は、まだ生々しく現役の先生方の心の中に残っていたのです。
だからこそ、しっかり指導して荒れない学校を作らなくてはいけない…。そんな強い決意を、当時のベテラン先生方から感じました

この流れが現在にも至り、時代にそぐわないブラックな校則が今も残る原因になっているのかもしれません。

あの頃のトラウマが、『たとえ行き過ぎてあったとしても、「校則」をキッチリ守らせることか、学校の秩序と安全を守る「御守り」になる』…という価値観を産み出し、今も脈々と受け継がれているような気がします。

でも、これは裏を返せば、生徒たちを信頼していない証でもあるんですよね。

髪型や服装、持ち物や言動を徹底的に管理・監視し、厳しく規制していないと、学級の秩序が崩れ、この子たちはモンスター化して大暴れして、教師の手に負えなくなるかもしれない…。そんな間違った信念が、今も学校の中に浸透しているのを感じます。

学校への不信感の原因になっている「厳しすぎる校則」は、学校の子どもたちへの不信感が底辺にあって生まれたもの。そう考えると
今も何かとトラブル要因となり、学校不信の原因になってしまうのも、わかる気がします。

しかし、時代はもう21世紀です。校内暴力の嵐から40年近くが経ったことを思うと、学校側はそろそろ過去の記憶とトラウマを手放す時ではないか…と感じます。

秩序を守るために締め付けるのではなく、子供たちを信頼して開放していく、ゆるめて託していく…。

これがこれからは大事なのではないか…と思います。


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