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私たちは才能に溢れている

私は子どもの頃から「文章を書くこと」が好きで、それを当たり前のように思っていた。「文を書く」ことは特別なことではなく、また、極一部の特別な人間にしかできないことでもなく、全ての人が呼吸をするがごとく普通にできることなのだと思っていた。だから「自分は書くことが苦手だ」「うまく書けない」という人がいても、それは単にコツをつかめていないだけで、その気になって訓練したらきっと書けるようになるよ…という気持ちでいた。(もちろんこれは、病気や障害が原因で文章が書けない状態の人のことを指しているのではなく、健常な人々に向けての私の過去の意見である)

だけど最近、「いやそうではないかもしれない…」と感じる出来事があった。

先日、久しぶりに会った知人と話していた時、彼女が
「長い文章を最初から最後までブレることなく筋を通して書けるってことは、すごい才能なのよ」
と言って、私のnoteをえらく褒めてくれたのだ。
私は彼女にお礼を言いつつも、内心「ちょっと大げさじゃないかしら」と思った。
だけど、あとに続く彼女の話をよくよく聞いていたら、彼女自身は文章を書くことがすごく苦手で、自分からすすんで書きたいとは思えないらしい。そんな彼女の口ぶりから、世の中には彼女に限らず「文章を書く」ことが苦手な人がたくさんいて、そういう人たちから見たら、たとえ趣味の範疇であったとしても「文章を書いている人」は凄いんだな…と、素直に感じられたのだ。

もうすこし詳しく説明すると、私の中で、今までずっとあった「世の中に文が書けない人はいない。みんな書けるはず」という認識が、「世の中には書けない人もたくさんいると認めた上で、書くことが好きで、実際にコツコツ書き続けているってことは凄いことであり、素直に才能として認めてもいいんだ」という認識に変わったのだ。

ちなみに彼女は、ご夫婦で飲食店を経営されていて、海外からの観光客で予約がすぐに埋まるという超人気店を切り盛りしている。そんな彼女にとっての「料理」は、私にとっての「文章を書く」ではないか?そう置き換えて考えてみると、もちろん私も毎日料理はしているけど、彼女のように世界から来るお客さんを満足させるような料理を連日ライブで作る…なんてことはできないし、私には無理である。私の場合は必要程度…せいぜい家族の3食分を作れたら充分で、それ以上は必要ないと思っている。
それと同じ気持ちで、彼女が私の「文章を書く」を見てくれていて、「あれは才能よ!」とべた褒めしてくれているとしたら、「あー確かにありだな」とストンと理解できたのだ。

努力すればできるようになるかもしれないけど、でも、それに努力を重ねる気はないし情熱もない。つまりそれは単に、自分には向いていないということなのだろう。自分には向いていないとわかっているから、努力しようと思えない。

ならば同じように、文章を書くことが苦手な人たちも、自分には「執筆」は向いていない…と、腹のどこかで分かっている。だから「書くこと」にあまり深入りしようと思えないのだろう。それは人生のどこかで、自分に向いていないことに取り組まなくてはいけない時の苦しみと大変さを体験し、充分に知っているから…。

とここまで考えて、ふと
noteを書いている人たちって、みんな凄いわ!
と妙に納得したのだった。

自分の伝えたいことを文章で表現できるって、彼女の言葉を借りるなら「才能」だったのだよ。毎日更新したり、長い文章の記事を公開したりして、思い思いにnoteでの執筆を楽しんでいる姿は、苦手な人から見たらまさに超人だろう。私が、料理が好きで何時間でも料理に没頭できる人たちを「すごいなぁ」と尊敬し、それを「才能」だと感嘆するように…。

そう、「文章を書く」について、私たちは自分にもっと自信を持っていいのだと思う。今まで謙遜しすぎていたのかもいれない。素直にこれを才能だと思えるようになったら、前よりもっと大らかな気持ちで取りかかれるようになり、書いたものに温かさと愛が宿るような気がする。

この発見を、私は全てのnoterさんに伝えたい。
自分に自信をもって創作しよう!
noteここで自分の才能の小さな芽を育み、慈しみ、大きく伸ばしていこう。自分を愛しむように、自分が生み出した愛しい分身をこの世界に放っていきたい。


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