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奥飛騨ドライブ【飛騨市神岡町】江馬氏館跡庭園・墓所と切腹石

先日、夫と出かけたドライブの続きです。

高原川沿いを走る国道471号線を通って、飛騨市神岡町に入ります。

神岡町と言えば、昔は鉱山の町として知られていますが、今は、鉱山跡地を利用したニュートリノ観測施設「スーパーカミオカンデ」が有名です。ノーベル賞の町となり、世界から研究者が訪れる地域となりました。

そのスーパーカミオカンデ&ニュートリノについて詳しく学べるのが、「道の駅・スカイドーム神岡」です。

上記は、昨年12月にスカイドームを見学した時の記事です。よかったら読んでくださいね✨
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この日の道の駅スカイドームの様子。
観光客の車(他県ナンバー)が結構停まっていました。

私たちも、この駐車場に車を停めます。
少し休憩してから、案内板に沿って住宅街の方へ歩き出しました。

目指すは、ここ。

史跡・江馬氏館跡公園です。

江馬氏とは、中世の時代(今から400~600年前の室町時代から戦国時代にかけて)、飛騨地方北部(北飛騨)を治めていた武将です。

13世紀頃に飛騨地方に入り、高原川沿いの里を治めたのが始まり・・・と言われています。平家または北条家の子孫である等、様々な言い伝えがありますが、詳しいことはわかっていません。
14世紀末には、室町幕府も認める有力在領主として中央にも名が知られ、活躍するのですが、戦国時代に入り、飛騨の覇権争いが勃発。天正10年(1582年)に飛騨地方南部(南飛騨)を治めていた三木氏(姉小路氏)と戦になり、敗れて江馬氏は滅びます。

この江馬氏館跡は、江馬氏が最も権勢をふるっていた頃に建てられた館で、北飛騨を治める拠点となっていました。

ちなみに戦のあと、屋敷は取り壊され、近世以降は「田んぼ」になっていたそうです。水田となっても、庭園に使われていた庭石は田んぼからポコンと出ていたそうで、「江馬の殿様の庭石である」と代々言い伝えられてきたそうです。

ところが昭和51年(1976年)、水田の土地改良工事を行うことになり、江馬の殿様の園石がある水田を発掘調査してみたところ、伝承通りに、江馬氏の館と庭園の跡が見つかった・・・ということです。

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住宅街の路地を歩いて行くと、おっ!・・・見えてきました。この道の右側が「江馬氏館跡公園」です。

すごく広い・・・。なだらかな公園です。

突然、ポーンと視界が広がり、見晴らしは良好。この一帯に江馬氏の下館が建てられていました。

パノラマ模型によると・・・。この下館の裏にある山に、江馬氏の本城・高原諏訪城があります。他にも数々の山城を持っていました。

この下館は、江馬氏の最盛期(都との交流が盛んで、公家文化の影響を強く受けていた頃)に建てられた館であり、この建物や庭園の様子から、室町時代の武士の庭園文化を伺い知ることができます。

こちらが公園内の説明。

現在地を確認して、少し歩いてみましょう。

所々に木々か立っています。あとは何も無いだだっ広い広場ですが、当時はいろいろな建物があり、様々な人がここを通り、とても賑やかだったのでしょうね。

説明書きによると、門の正面にある広い空き地には、馬屋や宿直屋が建っていたそうです。

門が見えてきました。

こちらが主門。

ここから先の建物は、発掘調査の結果や古文書、様々な情報を手がかりに、当時の技術や道具も忠実に再現して建てられています。

門をくぐって最初に見えてきたのが、「会所(かいしょ)」と言われる建物です。

会所とは、客人をもてなす建物で、庭園を鑑賞するために建てられたものです。室町時代に「庭園を持つ館」といえば、当時の室町将軍邸が思い浮かびます。江馬氏もそうした京の上級武士と同じく、格式ある庭園文化の影響を強く受けていたことがわかります。

この会所の中は見学できます。

靴を脱いで上がり、ガイドの方に案内してもらいました。

縁側から敷地内を望む。発掘で出てきた縁石を元に、当時の建物の跡地に床を設置しています。

室町時代の武家屋敷は、平安時代の寝殿造りに近いものだったようです。

建物の中に入ります。

いくつかの部屋を通り抜け、庭園側に出てきました。

これは広い・・・。すごく広い。

私は、京都の寺院の様々な石庭を拝観してきましたが、こんなに広くて大きな庭園はあまり見たことがありません。ちょっとビックリしました。
おそらく当時は、ここに様々な木々や草花が植えられ、周囲の自然ともマッチして、非常に美しい風景だったことでしょう。

奥に見える土塀も、当時の製法と材料で復元した物です。「土塀の屋根も、当時と同じく土で出来ているので、油断していると屋根に草が生えるんですよ(笑)」とガイドさんの談。お庭もかなり広いので、草取りが大変だとか・・・。確かに、これは手入れが大変そうだわ(汗)。

しかし、この石たち。なんだかストーンサイクルみたい(汗)。

はるか昔の室町時代に、造園のため人工的に設置された庭石だけど、なんだか縄文時代の祭祀跡地みたいに見えてくるから不思議・・・。

ちなみにこの庭園は、昭和51年の発掘まで、土塀の高さくらいまで埋まっていたそうです。つまり、この石の位置も大きさも、庭の形もすべてそのまんま、そっくり田んぼから掘り起こされた、そのまんま・・・なんだとか。

「えーーー!ってことは、この庭は室町時代のそのまんま・・・ってことですか?」と私が驚くと、ガイドさんはニコニコと「そうなんですよ~。石も発掘で出てきたそのものです。位置も全く動かしていません。」と言い、「このすぐしたの石を見てください。これも全然加工していなくて、昔のまま。掘り起こした時のままなんですよ。」と話してくださいました。

その石がこちら。

この青みがかかった小さめの石。横一列に並んでいる石。これが室町時代そのまんまの石ーーー!

もうビックリしました。田んぼの中に埋まっていたからこそ、風化することなく、こうして綺麗に保存されていたのかもしれません。

つい最近、庭師さんが置いた石みたいです(汗)。
恐るべし、江馬氏!

◇◇◇

庭に面した部屋の奥には、主が客人と会うための座敷がありました。

こちらも、室町時代の文献をもとに再現したものです。

ここで客人との対面が終わると、先ほどの庭が見える広い座敷に客人を移し、自慢の庭園を肴にもてなしたそうです。

当時、この館を訪れた禅僧の万里集九は、「満盤の風味、江湖に置く」と、池のある庭を眺める場所に皿いっぱいのごちそうが並べられていた様子を書き記しています。宴を催し、夜には月夜を眺め、風靡なひとときを過ごしたことがうかがえます。

◇◇◇

夏草や兵どもが夢の跡

・・・芭蕉の句がふと脳裏に浮かびました。

私は高山地区の出身なので、江馬氏と闘った三木氏(姉小路氏・松倉城城主)のことや、後に高山を今の城下町にしたに金森氏のことは、小学校で詳しく習って知っていたけど、江馬氏のことはあまり詳しくは知りませんでした。

でも、今回のドライブで江馬氏館跡を見学し、とても興味を持ちました。山奥に居を構えていながら、鉱山や材木によって得た利益によって、京の雰囲気を味わえる格調高い文化的な庭園と屋敷を建てて、都から来る客人を優雅にもてなした江馬氏。荒々しい野武士と言うより、雅を愛する風流な家だったようです。

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最後に・・・。

ドライブの帰りに、また大阪峠(十三墓峠)を通ったのですが、この十三墓峠の名前の由来は、江馬氏の家臣13人が討ち死にして亡くなった場所で、その墓所があるから・・・なのです。

八日町の戦で、江馬氏は敗れて断絶します。

その最後の当主、江馬輝盛の墓所が、十三墓峠を下りた国府町八日町にあります。今回のドライブの締めくくりに、墓所を訪れてみました。

道路脇に車を停めて、下りていきます。

この墓所の真裏には、「切腹石」が祀られていました。

この石のところで腹をお切りになられたのですね(泣)。

この石に触れると災いが起きるみたいなので(汗)、触らないように要注意・・・。

最後に墓所にお参りをして、ここを後にしました。

今回のドライブは、「石仏」で始まり、「鼠石」「庭園の石」そして「切腹石」で終わる・・・という、まさに岩石オンパレードの日帰り旅でした。(石に呼ばれていたのかな?)

いろんなものに出会えて、学べて、とても有意義な一日でした。

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