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どうしてこんなに可愛いんだろうね


オシリズムさんのこの記事を読んで、ふと、自分の子育てのことを思い出した。

私の息子は、今はもう成人していて社会人だけど、まだ小さかった頃は、私も夫も、ずっと息子に「かわいい、かわいい」と言い続けてきた。

でも、我が家の場合、他のご家庭と少し違っていたところがあって、私たちが息子に一番「かわいい」と声掛けしていたのは、息子の顔じゃなくて「左手」だったことかもしれない。

実は、息子は、生まれた時に大きな病気をしたことが原因で、体に障害がある。いくつかあるハンディキャップの一つが「左手の麻痺」だった。

障害は新生児期に見つかったから、対処も早かった。生後9か月から始まったリハビリ。この時、理学療法の先生から『家庭でもできる訓練』を教えてもらい、私や家族は息子のために…とコツコツ取り組んでいた。でも、そこは子どもが相手だから、楽しく明るく、遊びの延長であることを心掛けた。

この時から、息子の身体の神経回路の発達を促すつもりで、麻痺がある左手へのスキンシップをよくやっていた。

赤ん坊の頃は、ギュッと固く握りしめていた息子の左手。

この頃は、まだ麻痺していることが全くわからないほど目立たなかった。
ただ、他の赤ちゃんと比べると、座位を保つことが少し難しかったり、なかなか立てなかったり…という感じ。

麻痺がある左手は、私と夫からすると、すごく柔らかくて、なめらかで、すべすべしていて、可愛らしい生き物の手のように感じた。

夫は、息子の左手を優しくなでながら
「〇〇ちゃん(息子の名前)はかわいいなぁ。この手ってが、すごくかわいい」
と何度も言い、
「〇〇ちゃんのっては、雪見大福~♪」
と自前の歌を口ずさんで、息子を可愛がった。

私は、息子の小さな左手をそっと開いて、そこに私の指を滑り込ませ、息子に私の指をぎゅっと握らせて遊んだ。
甘いひととき。ぷくぷくした可愛らしい手。
「〇〇ちゃんは、かわいいってやなぁ」
と、私も夫のように、ついつい同じ言葉を何度も繰り返してしまう。

親バカだと笑われるかもしれないけど、障害のある身体も全て丸ごと、目に入れても痛くないくらい大好きだった。息子が本当に可愛らしくて愛しくてたまらなかった。

そんな私たちの「かわいいなぁ」の言葉を、息子はニコニコと笑顔で聞いていた。そして、私たちが息子の手を優しく握ると、安心した表情で私たちをキョロキョロと見つめてきた。

やがて息子は、赤ん坊から幼児になり、さらには小学生になった。
もともと小さかった息子の身体が、すくすくと成長して大きくなるにしたがって、左手の障害も日増しに目立っていく。

でも、私たちは悲観することなく、相変わらず「個性的な可愛い手」として大切にしてきた。

夜、グッスリ眠った時、息子の左手は麻痺特有のしぐさが出てくる。手に自然と力が入り、手首から指先までピンと硬直して突っ張ってしまうのだ。
そのしぐさも、息子の手だと不思議とかわいらしく、硬直した手首をそっと伸ばして緩めてあげて、布団に戻してあげるのだった。

この時の私達には、麻痺特有の独特の動きをする手を「かわいそう」とか「不幸だ」なんて思うことは1ミリもなかった。

むしろ、親の私たちがわが子の身体を「かわいそう」だなんて思ってはいけない…と固く信じていた。

障害児の親の中には、子供の将来のことを心配して悲観する人も多いと聞く。だけど、「心配」も「悲観」も、見方を変えると、あれは「呪縛」なんだよね。親が自分の不安と恐怖を子供にぶつけて、「こんな体をしているお前は不幸になるんだよ」と洗脳しているのと同じだ…と思っている。そして、「お前の身体のせいで、私はこんなに苦しんで悲しんでいるんだよ」と無言の圧で子供を責め続ているのだと思う。

心配は愛ではない。呪いだ。

だから、私も夫も、息子が障害児だとわかった瞬間から、「心配」や「悲観」は心の中から全部掻き出して捨てた。捨ててみたら、ぽっかり空いた空間に「愛」が詰まった。そう、条件も見返りも何も期待しない、純真な「無条件の愛」。

ただただかわいい。そして愛しい。
この気持ちを口にしないではいられない。

夫は、年々大きく成長していく息子の左手を、自分の大きな手の中で包み込み、「〇〇の左手はスベスベしていて柔らかくて、とても気持ちがいいなぁ」とよく言っていた。
そして、息子の左手を自分の頬へ持っていって、愛しそうに頬ずりする。
麻痺がある手は、肌がきめ細かくて柔らかく、ほっそりしていて優しいから、頬ずりすると肌触りがよく、とても気持ち良い。

夫と息子がじゃれ合って遊んでいるとき、よくこうやって二人でのんびりした時間を過ごしていた。
お父さんに「気持ちがいい手」と言われて、息子はまんざらでもなさそうな嬉しそうな表情になり、ケラケラ笑って、また夫にじゃれて遊んだ。

私も夫も、あまりに「かわいい手」と言い続けて育ててきたせいか、息子は学校でもどこでも、麻痺がある自分の手を隠すことなく、いつも堂々としていた。

うんうん、それでいいんだよ。
世の中には、自分の不自由な箇所を恥じて隠したがる子がいるみたいだけど、あなたは自分のことを「恥ずかしい」だなんて思わないでね。
だって、お父さんもお母さんも、あなたの左の手が大好きなんだもん。
そうそう、あなたは私たちの宝物よ。
だから、自信をもって堂々と明るく生きてね。

そんな願いを込めながら、私と夫は息子の左手をずっと握りしめてきた。

更に大きくなって思春期に入ると、息子は母親である私との接点を嫌がるようになった。うん、これは男の子として正常な反応だ。よしよし。
だけど、外を歩いていて段差がある所では、私はサッと息子に私の手を差し出す。すると息子は、自分の左手を私の手の上にそっと乗せて重ね合わせ、そのまま手をつなぐ形で介助に入る。

これが唯一のスキンシップとなっていった。

他の子たちより小さめだった息子の身体は、中学・高校と進むにしたがって大人のような体つきに成長し、手も大きくなった。私の手よりもうんと大きい。

だけど、それでもやっぱり、時々「かわいい」「大好き」と思ってしまう。
それを口にすると嫌がる年頃になったから、もう言えないけど。

そして今、息子は20代半ばとなった。
今はゴッツイおっさんみたいな手になってしまった。それでも、やっぱり私たちの宝物である。

もう、昔のように夫にじゃれて遊ぶことは無くなったし、私にギュッとしがみついて寝息を立てることも無い。
だけど、それでいいんだと思う。
息子が大人になり、私たちの役目は一つ終わった。

老夫婦となった私たちは、二人でお茶をすすりながら、幼なくてあどけなかった息子の姿を思い出し、あの頃の可愛さと愛しさを懐かしむ。

若かった頃は、あの時間が永遠に続くと思っていたけど、済んでしまったら、本当にあっという間だった。
だからこそ、全てが丸ごと大切な宝物なんだね。

子育てを卒業して今思うことは、「かわいい」って言葉は、溺れるほど子供に与えていいんだよ。…ということ。
だって子どもに「かわいい」と言ってあげられるのは、人生のごく短い期間だもの。
だから、「かわいい」と感じたら、その気持ちをケチらないで「言葉のシャワー」でたっぷり注いであげてほしい。
出し惜しみはご法度。心の奥から湧き出る「愛」を素直な言葉に替えて、たくさん与えてね。
それらを心の栄養にして、子どもたちはすくすくと育ち、私達大人は「愛」を学ぶのだから。

生後4か月の息子。
お昼寝中の息子(小1)。
かわいい寝顔と左の手って。

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