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先生の呪縛

最近、私は、自分のプロフィールから「元教師」という肩書を取り外しました。(詳しくは下の記事へ)

別に「肩書を外したこと」をわざわざnoteに書かなくても良かったんだけど、自分の中でキチンとけじめをつけたくて、ちょっと書いてみたんですよね。自分の思い(本音)もそっと添付して…。

すると、不思議な相乗効果が!

「元教師という履歴を手放す」と公言したら、なんだか気分がスッキリ軽くなったんです。

それは、
もう「元教師」らしく、常に模範的な人間であり続けなくてもいい
…というところから流露したみたいです。

退職した後も、教師の名を汚さぬよう「いい人」でいなきゃ…と、無意識に頑張り続けていたんでしょうね。

「先生だった」という過去があると、たとえ今は退職した身であっても、どこかでバッタリ教え子に会うこともあるので、やはり「いい人でいなくてはいけない」という気持ちが強く出てしまうんです。

これは多分、「責任感」から出てくるものだと思います。

世間の人も、教師には「模範的であること」「高い倫理観と道徳心」「理想的な人物像」を求めますよね。「完璧な人間でなければいけない」と強い期待を寄せる人もいます。

ここが、一般の仕事と教師という仕事の違いだと思うんですが、世間一般の人々の「教師を見る目」が非常に厳しいです。

私が仕事をしていた時も、外出先で保護者や生徒たちに目撃されることがあり、また、中には教育委員会にネチネチと通報する人もいるので、すごく気を使っていました。

通報という点での例ですが、新採の時、私はこんな話を教頭先生から聞かされたことがあります。

ある先生が、運動会(日曜日開催)の代休で、平日が休みになったそうです。そこで休日の朝、自宅の前で車の洗車をしていたら、「平日なのに学校をサボって家で洗車している先生がいる。教育委員会は知っているのか?」と、わざわざ市の教育委員会に電話をした人がいたそうです。

これは通報者の誤解ということで解決したそうですが、この話を人づてに聞いた教頭先生は、やはり似たような経験が過去にあったそうで、「世間にはいろんな人がいるから、変に誤解されないよう、私は平日が休みの時は、目立たないよう何処にも出かけず家に籠るようにしているよ」と話していました。

他にも、友人と飲み屋の前を歩いていただけで、教育委員会に謎の投書が届き、校長経由で事情を聴かれて、非常に憤慨していた先生もいました。

これは私が教師になったばかりの平成初期の話だけど、今はもっと増えているんじゃないかしら。ネット社会だから、遠く離れた僻地校での出来事に対して、それをネットのニュースで見たという(その土地とは全く関係のない)首都圏の人たちから苦情の電話や投書がワンサカと、その学校や教育委員会に殺到した…という話も、耳にしたことがありますもん。

こんな感じで、悪いことをしていなくても、憶測で通報されたり、相手の勝手な思い込みで苦情を受けたりするんです。

そうなると、真面目な先生ほど「常に先生らしく模範的でなければいけない…」と緊張しっぱなしになります。休日も気が休まるときがありません。

たとえ退職した元教師であっても、何か事件や問題を起こしたら、「ほら、また先生が問題を起こしている。だから先生はロクな存在じゃないんだよ」と世間からバッシングを受けます。そうなると信頼失墜で、現職の先生方に迷惑をかけてしまいます。まさに連帯責任の極みですよ。

学校の先生って常にこんな感じでなので、無意識に「社会的信頼を落とさないように」と、かなり気を使っています。

先生も同じ人間なのに、今の日本って「一億総・学校評論家」みたいになっているから、みんな言いたい放題ですもんね。自分のうっ憤を、公務員(教育だけでなく行政も多いよね…)にぶつけることで晴らしている人もいるから、四方八方からいろんな矢が次々と飛んできて、いつ流れ矢が当たるかわからない…。ホントまじ大変ですよ。

だけど、今回「もう元教師の肩書は外します」と決めたら、それまで自分の背中に貼りついていた「責任」や「義務」みたいなものが、すっとほどけて楽になりました。

これにはビックリ。

すごい呪縛だったんだなぁ…と、しみじみ感じました。

これを機に自分の過去を供養して、成仏したのを見届けたので、新しく生まれ変わった気持ちで前進していこうと思います。


◇◇◇

ルミさん、また書いちゃいました。本音ダダ洩れnoteです。

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