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【写真日記】五月晴れの郡上八幡を歩く③古い洋館・せせらぎの小径・細い路地

こちらは、郡上八幡(岐阜県郡上市八幡町)のお散歩レポ、第三話。

【前回のお話はこちら】

古い町並み地区を散策

古い町並み地区に戻り、あちらこちらを見ながらブラブラ歩く。
途中で「郡上おどり」の像を見つける。「郡上おどり」とは7月中旬から9月上旬まで続く盆踊りのこと。旧盆の8月13日から16日までの4日間は「徹夜おどり」が行われる。

噂には聞いているけど、まだ一度も見たことがない郡上おどり。いつか見てみたいなぁ。
蔦が壁面にびっしり絡まっている建物

古い町並みの筋から少し横にそれると、ハイカラな洋館がポンと建っていた。日本の町家が続く伝統的な地域に、レトロな洋館があるという不思議。

戦前に建てられた洋館らしい。

こんな感じで「和」と「洋」が、ほどよくミックスされているところが、郡上八幡の魅力だと思う。

あと、こんな昭和の雰囲気が残る洋品店とか…。

明治時代の創業とはすごい。


おやつタイムは、お抹茶処でまったり

さて、たくさん歩いて小腹が空いたので、甘いものが食べたくなってきた。
どこに行こうかな?…と考えていたら、ふと「そうだ!前回、入店をあきらめたあの店にしよう!」と思いついた。

早速、宗祇水へと向かう。

宗祇水のすぐ横にあるお店へ。

宗祇水の左横にある古民家風の建物が、目指す甘味処。

こちら、宗祇庵さん。

前回の訪問の時は、雨で足元がずぶ濡れになり靴が脱げなかったので、泣く泣く諦めたお店だ。

中に入ると、奥のお座敷へと通された。

床の間の前の座卓へと案内された。
私達が座った席から庭の方を眺める。

とても素敵な店内で、しっとりとした雰囲気。
ここで、私たちは「和三盆抹茶ラテフロート」を注文した。

器がガラスではなく焼き物なので、水滴で器やテーブルがベタベタに濡れないのが良き。


濃厚なアイスクリームの下には、抹茶のほろ苦さがピリッと効いた冷たいラテ。一口食べて、「これはうまい!」と唸った。

このアイスクリーム、抹茶と黒蜜の加減がほどよくて、とても美味しかった。
和三盆の干菓子。抹茶ラテは甘さ控えめだったので、これを舐めて甘さを補給。

ここはコーヒーはなくて、ドリンクは抹茶orほうじ茶のみとのこと。
コーヒー派には残念かもしれないけど、郡上八幡の美味しい水でいれた抹茶やほうじ茶だもん。絶対に格別だよ。
たまには、和風のものをしっとりいただくのも素敵だなぁ…と思った。

美味しくいただいて、宗祇庵を後にした。

宗祇庵のすぐ横にあるこの川は小駄良川。ここは②で訪れた大乗寺の下流にあたる。

さて、もう少し歩いてみよう。

吉田川にかかる宮ヶ瀬橋を渡る。
道端のお地蔵様。お洒落をして、マスクまでしていらっしゃった。

郡上八幡楽藝館を見学

次に、やはり前回の訪問の時、雨で入れなかったスポットを目指す。

それはこちら。郡上八幡楽藝館。

郡上八幡樂藝館は、明治・大正時代に建てられた林療院を保存活用するため、平成12年に開館しました。
 林療院は、明治37年(1904)に建てられた医院で、本館・看護婦棟・レントゲン棟は平成10年(1998)に国の登録有形文化財となりました。本館はイオニア式オーダーの円柱など疑似洋風建築の外観を残し、本館左に見える看護婦棟は江戸時代の足軽屋敷の古材を活用したもの、レントゲン棟は大正時代に使用された貴重なものです。

郡上市市役所ホームページより

実は私は西洋式の建物が結構好きなのだ。
旅先で、洋館を見つけると入場料を払ってでも必ず見学している。

今回も、こちらの洋館が気になっていたので、入ることができてすごく嬉しかった。

1997年(平成9年)八幡町にこの建物が寄付されるまで、ここは病院として使われていた。

窓口で入場料を払ったところ、他にお客さんがいなかったこともあり、ご厚意で施設を案内していただけた。

岐阜県内で初めて設置されたレントゲン室。この施設は大正時代につくられた。
レントゲン室の内部。当時は非常に貴重なものだった。
診察室の様子。

診察室の中に入った瞬間、懐かしい気持ちになった。
昭和時代にあちこちにあった古い木造の病院は、どこもこんな感じだったなぁ…と思い出したからだ。

手を消毒するための洗面器。

私がまだ幼かった昭和40年代。私が生まれ育った地域の日赤病院も、確か当時は木造で、廊下や扉も全て木製だった。そして、病院内の備品もだいたいこんな感じだったと記憶している。
私は小さい頃、よく熱を出して病院に連れて行かれたから、当時の病院の様子をよく覚えている。

最新的な鉄筋コンクリートの病院に建て替えられる前の日本の病院は、どこかレトロな雰囲気があった。

木製の棚やベッド。木のぬくもりを感じる。
昔、病院で使われていた道具が展示されていた。
中庭とレントゲン室。

この山の中の奥美濃の小さな町に、どうして、県下でもいち早く西洋医学の病院が設立されて、最新型のレントゲン室まで設置することができたのか?

とても不思議に感じた。
そこで、入場の時にもらったパンフレットを読んで調べてみた。

その答えは、幕末にまでさかのぼる。
安政5年(1858年)、郡上地内で赤痢や腸チフスなどの伝染病が蔓延したそうだ。
そこで、当時の郡上城主・青山幸哉は、これを機に西洋医療に力を入れると決意し、藩校に医学講座を設け、更には、優秀な人材を江戸に派遣して医学を学ばせた。
これによって、郡上の医療を支える人材が数多く育ち、県内の他の町村の比べても、非常に充実したものとなった。
明治19年に作成された「岐阜県医師人名簿」等の資料によると、郡上郡だけで百数名の医師の登録があり、これは県下でもかなりの割合を占めていたという。
こうして、郡上郡のほとんどの村に、医師が存在することとなり、手厚い医療基盤が整った。これは日本全国を見ても非常に稀なことだったようだ。

そんな歴史的背景から、明治37年にこの建物が建てられ、「林療院」が開業する。林療院は、平成に至るまでの間、郡上八幡の人々の健康を守る大切な役割を果たし続けた。

二階へ続く階段。
入院用の部屋。
火鉢と鉄瓶。この火鉢に何人の人が手をかざし、脇に座ったことであろう。
歴史の重みを感じる。
階段を下りて一階へ。病院の玄関が見える。
玄関入って右の部屋に飾られた土雛。端午の節句の人形が並べられていた。

当時の君主の先見の目が、郡上に西洋医療をもたらし、地域の人々の健康を見守り続けたんだなぁ…と思うと、ちょっぴり胸が熱くなる。

そして、よく病院に通っていた子ども時代を思い出し、ちょっとノスタルジックな気分になった。

郡上八幡楽藝館の横にある野口雨情の歌碑。

野口雨情も、この水の町を訪れたという。

いがわ小径を歩く

楽藝館から少し歩くと、郡上八幡らしい素敵な小路を見つけた。
ちょっと歩いてみよう。

こちらが小路の入口。

木漏れ陽の下を歩く。
小径に下りてすぐの所にある水舟。
水路の脇の細い小径
丸々としてよく肥えた魚。これは鯉?
木陰が涼しくて心地よい。

この「いがわ小径」を流れる水路は、寛文年間にできたそうで、地元の人々に大切に管理されてきたとのこと。だから手入れが行き届いていて、とても美しい小路なんだなと納得。

この用水にいる魚は、みんなよく肥えて立派な体格をしていた。餌がいいのかしら?
少しの距離だけど、こうした道を歩くのは気持ちがいい。初夏の緑が輝いてリフレッシュできた。
木々の茂みが切れてきて、日差しを直接浴びるようになった。
そろそろゴールだ。
突き当りの小橋を渡れば「いがわ小径」は終了。

歩き終わってみて、「この小路は、以前歩いた飛騨金山の筋骨みたいだったなぁ…」と夫と話した。うん、確かに…。郡上八幡の方が美しく整備されているけど、道の雰囲気はちょっと似てるかも。

小橋を渡り、細い路地を通って、一般道に出る。

ほら、やっぱり筋骨に似ている。

細い路地を歩いて、駐車場に戻ろう

さて、たっぷり散歩して堪能したので、そろそろ帰ろうか…。
私達は駐車場に向かって歩き出した。

細い路地を通って、少し大きな通りに出た。

私達は細い路地をいくつか通り抜けながら、駐車場を目指した。

路地も掃き清められているようで、とてもきれいだった。
また大きな通りに出てきた
ごみ収集の案内板。その土地の個性が出ている。

また、路地に入って歩く。

戸に挟まったのれん。
軒先にたくさんの植木鉢。

観光客向けに案内されている「古い町並み」も素敵だけど、生活臭がただようこうした普通の路地を歩くことが好きだ。
この土地に暮らす人々の「生活の断片」を、ちょっと掻い摘んでつまみ食いしているような感じがするからだ。

路地には、その土地の素の姿がいっぱい詰まっていると思う。
軒下の防火バケツ
町内の掲示板

あぁ楽しかった。

こうして私たちは無事に愛宕駐車場がある地区に到着した。

車に乗り込み、郡上八幡を後にする。

たくさん歩いて少し疲れたけど、心とお腹は心地よく満たされたのだった。

さて、次はいつ行く?笑

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