「井の中の蛙大海を知らず」ということわざは、ヘンだ。
私は気付いてしまった。「井の中の蛙大海を知らず」という有名なことわざがとてもおかしいということに。
はじめは、昔ホテルの配膳アルバイトをしていた時の経験と、このことわざにまつわるエピソードを書こうと思っていた。
しかし、そうしてインターネットで下調べをしていくうちに思った。このことわざは、おかしい。
そこで、どのようにヘンなのかについて、有識者でもなんでもない私が、偉そうに気の済むまで書いていこうと思う。
◆意味と語り継がれる魅力
まず、このことわざの基本的な意味からおさらいしよう。
狭い見識にとらわれて、他に広い世界があることを知らないで、自分の住んでいるところがすべてだと思い込んでいる人のことをいう。
小さな井戸の中に住む蛙は、大きな海があることを知らないという意から、物の見方や考えが狭いことを批判する場合に多く使われる。
「小さな井戸の中にいる蛙は、大きな海などの井戸の外にある世界のことを知らない」と言う意味から、自分の狭い知識にとらわれてしまい、物事の大局的な判断ができないこと。
生まれたばかりの無垢な赤ちゃんにはまず使えない。
生まれて、それから他者と関わり、あるいは社会にもまれていく中で、何らかの知識を蓄えて、何らかの枠組みに入ってからの話だ。それは、家族だったり、部活、会社のチームかもしれない。
その枠組みの中で自分へのイエスマンだけしか認めないなど、選り好みした環境を整えまくると、本人が所望しない限り見慣れない情報や知識は入ってこなくなる。世の中には、100年生きても吸収しつくせない未知の情報や知識が山盛りだ。その事実に気付けない、気付こうとしない状況、障害を指摘しているのがこのことわざだ。
日本のことわざは、カルタでおなじみの「犬も歩けば棒に当たる」というメジャー級から「雁が飛べば石亀も地団駄」というマイナー級のものまで、たくさんある。その中でも、この「井の中の~」が日本で認知される割合というのは高い方ではないだろうか。
自分の誤知識、無知、鈍感さを自覚した時はたいてい恥ずかしい。格好が悪い自分と対峙する苦しい時間だ。自ら気付くならまだしも、他人に揶揄されているところをたまたま聞いてしまったなんてことがあった日は、晴天の霹靂と言っていいくらいショックを受けるだろう。
そんな自分になりなさんなよ、と警告にもなってくれることわざ。それが「井の中の蛙大海を知らず」だ。
このことわざが伝えてくるダサさ、イタさに対する嫌悪感は、とてもスパイシーな味わい。それが魅力のひとつだと思っている。
また、「イノナカノカワズ、タイカイヲシラズ」と、8文字を2回繰り返して韻を踏んでいるところも日本語として受け入れやすい要素なのかしら、と地味に感じる。
◆置き去りになった蛙の生い立ち
しかしだ。冒頭にも述べたように、おかしいんだ。このことわざは。
君、蛙の立場にもなってみたまえ!!!!
「カエル」は厳密にいうと何カエルなのか考えたことはあるかい?
出典の解説によるとね、どうやらアマガエルをさしているらしいよ。私も今回知ったよ。
では、アマガエルは「いつから」井戸にいるか考えたことある?
井戸が建設される過程に入り込んだのだろうか?ならば、つくりたての井戸にはたっぷりの水があることだろう。…なんと、アマガエルはいくらかの陸がないと生活ができないそうだ。
そうなると、この井戸は、陸の部分を持ち合わせた井戸でなければならない。つまり、枯れかけた井戸ということになる。
新しい井戸ではない。古い井戸なんだ。
私が言いたいのは、思うに、この蛙は、はじめから井戸に居たんじゃない。陸で生活していたある日、井戸に落っこちて、仕方がないから井戸で生活することになった蛙なんだ。
井戸に落っこちて這い出すこともできずに、井戸の中で生活を送るアマガエル。アマガエルは、本来ある程度温かい気候を好むそうだ。井戸の底、寒いのでは?屋根のないタイプの井戸だとしても、太陽は、1時間しか入らない。また、水、新鮮じゃないと生きていけないらしい。需要がなくなった古い井戸の水は果たしてきれいなのか。もはや水たまりなのでは…!?最悪の住環境なのでは!?それ、なんていう独房?人権…そこに蛙権はあるのかい!?
そんなアマガエルにとってみれば、その中で得意げにふんぞり返るどころか、「だっ、誰か助けてくださーい!!」という気持ちの表現の方が正確ではないだろうか!?
そのカエルに向かって、「井戸の中の蛙、大海を知らず」って、よく言えるな!!!
自分の狭い知識にとらわれてしまい、物事の大局的な判断ができないこと。
って説明、それ、お前(書き手)じゃね?
時空を超えてブーメラン乙!
(なんかダサい)
◆書き手との対話(茶番)
(書き手):いや、それはだって、まだこちらの時代ではそこまで生物の研究は進んでいなかったから、知らなかったし…悪気はなくて…私は大切な考え方を伝えようと思っただけで…たしかにでも…おかしいかもしれませんね…
(私):…いえ、こちらもそんなに追い詰めるつもりはなくて…今インターネットていうものがありまして、調べてたら気付いちゃったから…私もあなたを責めてるわけではないんです…ただ、なんだか理不尽だなって思ったら書かなきゃって思っちゃって…
(書き手):もうそちらの時代には合っていないんですかねえ…
(私):私の考えに共感する人が増えたら、死語になるかもしれませんね…あっ、死語っていうのはもう使わない言葉という意味なんですけど…
(書き手):しご…?死んでる語…?それは…ちなみにたとえば、どんな言葉が…?
(私):…「だっちゅーの」ですかね…
(書き手):「ダッチューノ」…!!??新しい語感ですね…私にはなんだか素敵なひびきに聞こえますが…
(私):いえ、「だっちゅーの」は…この只中、もういろいろアウトなんです…今、世の中は、考え方を改める話題が多くて…なんか大変なんです…だからあなたの考えた言葉にもなんか妙にひっかかっちゃって…
(書き手):ふーん…そうなんですね…いえ…お気持ち、わかりますよ。
(私):ところで、ひとつ質問してもいいですか?
(書き手):? なんでしょう?
(私):カエルって、塩、苦手ですよね?大海を知らないっていう意味は、何が言いたかったんですか?カエルが塩が苦手なことは知ってましたか?あなたがそのことを知ってたか知らなかったかでも、また、意味変わってきちゃうんですよね。要するに、
・塩が苦手なことを知っている→大海を知れば、世の中は危険に囲まれた世界だということを思い知る。それを知らないカエルは恵まれた環境に気付けない、ないものねだりをしているカエルである。
ってなるし、
・塩が苦手なことは知らなかった→大海を知れば、世の中は自分の認知を超えた好奇に満ち溢れていることがわかる。もっとマインドを広げていけ。
っていう意味合いも出てくるでしょ。
どっちなんですか??
それとも大海って、海じゃなくて他の水源、湖とかのことなんでしょうか??
(書き手):…
(私):何ですか、黙っちゃって!なんか言ってくださいよ!
(書き手):あの、ちょっと、私も質問してもいいですか?
(私):!?
(書き手):ヒマなんですか?
これ以上追及する気力がない。誰か詳しい人、よかったら教えてください。
◆続きの言葉があるそうだ
「井の中の~」を調べていると、ネット上でこんな話題が多かった。
「このことわざには続きがある」とのこと。
その続きとは、
「井の中の蛙大海を知らず されど空の深さ(青さ)を知る」。
その意味は、
狭い世界で一つのことを突き詰めたからこそ、その世界の深いところまで知ることができた
という、肯定的な視点を追加した内容。
私が注目するのは、日本に「井の中の蛙大海を知らず」ということわざが広まってから誰かに脚色されたという点。
やっぱり、一部の人は「カエルに対して理不尽」と思ってたんじゃないか?だから、どこかの誰かが改変して、そっちの方がイイ!というムーブメントがあったからこそ、この言葉も今に伝わっているのではないか。なんて思っちゃう。
◆「井の中の~」が時代遅れなら
ここまで読んでどうでしたか?少しは、確かにヘンかもって思って頂けたでしょうか?(文章もね…?)
私のこんなしょうもない気づきに共感してしまったあなたは、しばらく「井の中の~」が食べられなくなることでしょう。
代わりのものをご用意いたしました。
類語のことわざは、以下のようなメニューでございます。
・針の穴から天を覗く
・夏の虫氷を笑う
・葦(よし)の髄(ずい)から天井を覗く
…正直どれも耳慣れない。恐るべし、「井の中の~」の浸透率。「夏の虫氷を笑う」っていうことわざも、夏しか生きられない虫に対して失礼で理不尽じゃないか。
「針の穴から天を覗く」も「葦(よし)の髄(ずい)から天井を覗く」も、その穴から見る世界の情報だけで物事を判断することを忠告している表現だけど、なんだか腑に落ちない。
ことわざってどれも突き詰めるとツッコミどころが満載なのかもしれない。
◆大切なのはリアルよりもイメージなのか
ここまで、なんやかんやゆうとりましたけども…
結局、伝わりゃいいんだろうか?
もう一度、初心に戻ってみる。
「井の中の蛙大海をしらず」を初めて聞いたていで。
「井の中の」で、「井戸を見下げる私」が居た。
「蛙」で、「底にぽつんと居るカエル」が見えた。
「大海を」で、急に「広大な波打つ海原」が眼前に現れる。
「知らず」で、「そうか、カエルはこの景色を知らないんだ」って思う。
そうだ。このことわざを聞いた時、水を飲むように自然にそのイメージが沸いて、意識に浸透するんだ。
「井戸」も「蛙」も「大海」も、多くの人にとってはどれも身近なモチーフだ。
たった16文字で、「見識が狭くなること、または相手にはよくよく注意しなさい」とそこはかとなく伝わってくる。
これが言葉の力か。
素直な私が返ってきた。
◆「井の中の蛙大海を知らず」で得をするのは誰?
この数日、書き始めてしまったこのテーマで、いちいちいちいち私は色々なことを調べた。
それは、なによりも私自身が「ブーメラン乙」と言われないために。ぼろを出さないように必死になっていた。
そして私は、ようやく文章がまとまりかけた時、あっ!と気付いてしまった。私と同じようにこのことわざに違和感を感じている人がいるかどうかをまず一番最初に調べるべきだったかもしれないということに。肝心なことを…忘れていた…。
早速調べた。秒で見つけてしまった、同じ視点。しまった…!もはやこの記事を読んだ方が「私も考えたことある」って思っていてもおかしくない。井の中の蛙は私じゃないか…!大きな風呂敷を広げてしまったけど、そこからコロンと出てきたのは小さな1コの箸置きだったぐらいの恥ずかしさだ。
私は嘆くべきだろうか?恥さらしだと反省し、この文章をボツにすべきだろうか?この顛末をオチにしてしまえば、誤魔化すことだって今ならできると、邪な考えが浮かびだす。
そんな時は始めの目的を思い出すことだ。答えはすごく単純だった。
「ゲロゲロ」と、私はのどを鳴らしたかったんだ。
その結果が、こんなヘンな長文になってしまったことはどうかと思うが。
「井の中の蛙大海を知らず」をリアルタイムで体現してしまったかっこ悪さに怖気づいて、このまま「ゲロゲロ」、やめるのか?
もう一度、脚色された方のことわざを振り返った。「井の中の蛙大海を知らず されど空の深さ(青さ)を知る」。
「大海」が「知識」なら、「空」は「自由や想像」なのではないだろうか?
空に憧れ、空を愛する気持ちだって大事だよ。
インターネットという大海に誰もが指先一つで飛び込めてしまう時代だ。
誰もが、何かを話そうとすれば指を指される時代だ。
ちょっとの油断ですぐ井戸へ突き落されてしまう。
みんなが蛙だ。
大海ばかり見ていると、あまりのスケールに時々胸が詰まってくる。
飲み込まれそうになる。
そんな時は、ゲロゲロと、「自分の声」を確かめるといい。
のどを鳴らす振動で、自分の体の大きさがわかる。
それから空と大海の両方を抱きしめて眠れば、きっといい夢が見られる。
そんな気がした。
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