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こころの声について。

先日、ひさしぶりに
こころが大きく揺らぐ
出来事がありました。

たいせつなことをわすれないために、
言葉にしてみます。


✎ 𓈒𓂂𓏸


わたしは、よく
じぶんは何のために
この世界に生まれてきたのかな、
ということを考えるんですね。

人生の目的、というよりは
魂の目的、といったほうが
よいでしょうか。

あたまで考えても
分かるはずはないのですが、
じぶんなりの答えを出すとしたら。

こころに浮かぶのは
「じぶんを愛すこと」でした。


どうすれば
じぶんを愛すことができるのか。

あるときから、
ずっとふたをしていた内側の声に
耳を傾けるようになりました。

けれど、
どれだけ聴きたいと思っても
その声はなかなか聴こえません。

声が小さいのか。
ふたが外れていないのか。
聴く姿勢が整っていないのか。
ほんとうは、聴きたくないのか。

理由ははっきりとは分かりません。

内側の声の主は
こころの湖のなかにいて、
わたしはその湖面を
じっと見つめているだけ。
そんな感じなのです。


わたしという意識と
ほんとうのわたしは、
いつもすこしだけ
ずれているような気がする。
そんな風にも感じられるようになりました。

気を抜くと、意識は
風船のようにふわふわと
あちらこちらに行ってしまいます。

そうすると、すぐに
じぶんの本体を見失います。


どこかでずれを感じたら、
意識のスイッチを
すこし切ってみます。

ゆっくりと深呼吸をします。
じっくりとお茶を飲みます。
ぼんやりとお散歩をします。
木々を眺めます。
気の向くままに絵を描いてみます。
ねこに顔をうずめます。

そうしているうちに、
すこしずつ
ずれが小さくなってゆくように
感じます。

その繰り返しです。


いつになったら、
わたしはわたしとしっかりと繋がって、
内側の声がちゃんと聴こえるようになって、
じぶんのことを
愛せるようになるのだろう。

日々、そんなことを考えながら
生きています。


先日、夜眠ろうとしたときに
急に不安の波がうちよせて
飲み込まれそうになりました。

「わたしはなにも変わっていない」
という言葉が、あたまのなかに
なんども浮かび上がりました。

けれど、
その言葉はほんとうの
わたしのものではないことは
すぐに分かりました。

あたまに残っている
録音テープの再生ボタンを
また間違って押してしまったんだな、
そう思いました。

それでも、あまりの声のつよさに
こころは揺さぶられました。


なんとか気を紛らわそうと
スマートフォンを眺めました。

ぼんやりと見ていた動画のなかで
「じぶんを赦す」という言葉が
目にはいりました。

すると

「わたしは わたしを ゆるす」

という声が
からだのなかで響きました。



わたしは、わたしを、
こころからゆるせていなかった。

ほんとうは、
じぶんのことをゆるしたかったんだ。

そのことがわかった瞬間、
涙があふれました。


わたしは、若いころに
目の病気をわずらっていて
左目からは涙がでません。

どんなに泣いても
目がすこし潤む程度です。

それなのに
左目からもツーっと
涙がこぼれ落ちていることに
気がつきました。


だれかをゆるしたいとか、
だれかにゆるされたいとか。
そういうことではなくて。

みんなが、
じぶんのことを
ゆるせたらいいな。

こころから祈りを捧げるような気持ちで
いつの間にか眠りについていました。


その出来事から
なにかが劇的に変わったわけでは
ありません。

けれど、
一瞬でもほんとうの声が聴こえたのなら
よかったな…と思うのです。

魂というものがあるのならば、
その真の目的は
からだという服を脱いだあとにしか
分からないのかもしれません。

でも、わたしは
このいのちがある間に
じぶんをゆるしてあげたいなと
思いました。

簡単ではないですけれど、
すこしずつ、すこしずつ。


✎ 𓈒𓂂𓏸


よほどエネルギーをつかったのか、
いつもにも増して
ぼーっとはしていますが、
元気に生活していますので
ご心配なさらないでくださいね。

読んでくださり、
ありがとうございます。^^


いつも、あたたかいサポートとお手紙をありがとうございます。いただくお言葉のひとつひとつが宝物です。こころをそっと照らす、ちいさな灯りのような作品をお届けできるように。これからもがんばります!^^